ニッポニアニッポンやちまた日記
やちまた日記 読書リスト 本へのひとこと

2003年
1月28日 火 晴れ 759
「〜ことがあります」の経験を述べる文型。前に、学生たちに見せてもらった冬休み中の写真の話題から導入。ディズニーランドへ行った、初詣に神社へ行ったなど、いろいろなこれまでに出かけたことやホームステイで体験したことを出してもらい、「〜ことがあります」の文を作る。
ジョスピナたちは、冬休みのはじめにいっしょに遊ぼうと、みんなで東京へ行ってきたそう。クリスマスイブイブ、すなわち天皇誕生日であるからしてパレス見物をしてきた。「日本のお金にはエンペラの写真がありません。私たちはエンペラの顔を知りません。パレスで顔を見ることができました」と無邪気に喜んでいた。「エンペラの顔はハンサムでしたか」「遠くから見たので、よくわかりません。」
私の例文、「ジョスピナさんは東京のパレスに行ったことがあります。私はまだパレスに行ったことがありません。エンペラに会ったことがありません。エンプレスと話したことがありません」「文化勲章をもらうときにパレスの中へ行きますから、それまでは行きません」と言ってみたが、この冗談は留学生には通じなかった。
そして皇居と言わず、あえて彼らが使った英語のパレスということばをそのまま外来語として用いた例文の語感も、留学生には通じないだろう。コーキョと発音するときにまつわりついているイカメシイものが、パレスといったとたんに身軽になり「なんとかパレス」という街のパチンコ屋かリゾート地のストリップ劇場のような語感が出てくるから、外来語魔法のあら不思議。「昨日友達とchurthに行きました」という学生に「チャーチ、日本語で教会。きのう友達と教会へ行きました。はいリピートアフターミー」と言いなおしさせるときもあるのに、パレスは皇居と言い直しをされられないのはなぜか、なんて学生は気づかない。
外来語語感について、宮沢章夫が『茫然とする技術』所収「NHK英語講座テキスト」に書いていた文がおもしろくて笑えた。外来語語感についてこれほど卓抜な感性をほかにしらない。『茫然とする技術』図書館で借りた本だけど、文庫になったら絶対に買う。
天皇の入院中は皇太子が職務を代行。さて、歌舞伎を見てきたせいか、「家の芸」についていささか考えた。先週見た歌舞伎の中で、主だった役はすべて世襲の俳優が引き受けている。親が歌舞伎俳優でなく、国立劇場の養成所とか、そういうところからの出身者で、主役級の役をもらう人がいたのだろうか。前進座はそういう世襲制を嫌って新しい歌舞伎の劇団を作ったはずなのに、現在の主演級俳優はみな2世3世だ。新派しかり。多くの約束事がある芸の習得にとって、個人の資質が「家の芸」を引き継いだ世襲俳優を超えることができるのか、というのが、『歌舞伎の日』世界座のひとつのテーマでもあった。
「国民統合の象徴」という伝統芸を身につけるのにもやはり「家の芸」として、生まれたときから「そうなるべき環境の中でそうなるべく教育された」者が最も芸を発揮できるのであろうか。しかし、世界座では、名宝名切丸がなくとも、立派に芝居をやりとげたではないか。
「家の芸」とは何か。歌詠みにとって、冷泉家の家伝秘伝がなくとも、すぐれた歌を詠むことができることは、もうわかった。能狂言では、世阿弥の花伝書も公になり、観世今春一族でなくとも、立派な俳優が出ている。歌舞伎芸は?「国民統合の象徴」は?
3月7日 金 雨 797
大塚英志の『キャラクター小説の書き方』を立ち読みして、この本がこれまでの「小説の書き方」のたぐいとどれほど違って画期的かなんてぶちあげてあるので、おおいに期待して買ってしまった。
種本は『ハリウッド脚本術』であるとうち明けてあるのは正直でよろしいが、最後の方になると「とにかくたくさん先行作品を読め」という結論におちついたので、「いたいけな青少年に780円も出させて、小中学校の国語教師が耳タコで言っている言葉をくりかえして終わりはないよなあ」という気になったが、いたいけな青少年はこんなハウツーは買わないからいいか。この本の読者層はコバルト文学新人賞でもねらう中学生高校生かと思ったが、実際に買ったのは、ゲームとゲームノベライズしか読まない息子が、何考えて期末試験に5分間も勉強しないでいるのか理解できないと悩むオバハンだけかも。
久美沙織の『ドラクエ』ノベライズも全部読んだことがないけれど、久美の文体はパラパラと拾い読みした限りでは、子供に読ませて大丈夫と思える文章だった。しかし、他のゲームノベライズはページをところどころ拾い読みしただけで、あんまりな文体なのでげんなりし、もっと文章力つけてから小説書けよなあという気分だけが残る。
3月23日 日 晴れ 813
『教えることの復権』読了。何より大村はまがまだ生きていたことにびっくりした。私が国語教師になったとき、すでに大村は「おばあさん先生」であり、「大村の単元学習」の時代は終わったと言われていたのである。私は山ほどの国語教育関係書を読み、結局国語教育とは何かわからないまま、3年で国語教育から敗退した。退職するとき、後輩の国語教師に国語教育関係書は全部あげてしまったので、一冊も残していない。あのときは「国語」なんて言葉を見るのもいやだった。大村はまを読んだのかということもいっさい覚えていない。読んでも頭に残っていないのなら読まなかったのと同じ。私にとってはただ「伝説の国語教師」であった。」
大村は74歳まで現役国語教師を続けていた。これだけでも私にはびっくり。管理職につかない一教師としてすごすとしても、60歳を過ぎたら退職勧告に従わざるを得ない状況にさせられると思っていたが、さすが伝説の教師74歳まで現役だったとは。60歳すぎ、大学の教育学部などから引く手あまただったろうと思うが、最後まで公立中学校国語科教師を貫いたことだけでも、私は尊敬するね。
苅谷夏子は、石川台中学校での大村の教え子にあたるという。ラッキーだね。夏子の「授業を受けた思い出」と大村の回想や過去の著作からの引用、最終章が苅谷剛彦の大学での授業についての話で構成されている。
私は単元学習の教授法や研究授業について、きちんと学んだ覚えもないまま国語教師をやめたが、もし30年前に単元学習をとりいれたとしても、たぶん成功しなかったろうと思う。独身の大村が全勢力を教材研究教材準備にかけ、それでも時間が足りなくて「生徒をかわいいなんて思っている暇もなかった」と述懐しているのを読んでも、30年前の私に、このような教材研究の能力も単元学習(総合学習国語科版)をやり遂げる授業技術もなかったろう。大村の教え子で国語教師になった者は少ないという夏子の証言。国語教育をするのが、これほどエネルギーのいるものすごい行為だということが身にしみてわかっていて、大村をこえる教師にはなれないとわかっているから、国語教師という職をあえて「先生にあこがれて」なんて理由で選ぶことはできなかったのであろう。
生徒の自主性を生かす、とか自由な発想を尊重するなんてことがアダやおろそかでできることじゃない、ということが身にしみているわけではない文部科学省の小役人たちの安易な発想で決定し、現場教師が小手先でやりすごそうとしている総合学習。一般の小中学校でどれだけの成果をあげることができるだろうか。家庭も教頭校長昇進試験もすべて捨て去り、授業だけに情熱を捧げる教師でなくて、「総合学習、自主的に考えなさいと生徒にまるなげ」するような教師ばかりで、どういう結果がでるか、わかりきったこと。
もちろん、何年間かあとの教育研究とか事例研究では「こんなにうまくいった」というような特殊な例ばかり出るだろうけど。生徒引率して博物館へ連れて行き、騒ぎまくる子供たちに「はい、自由に自主的に見物してレポートをまとめましょう」で終わりにして、博物館喫煙室でたばこすって居眠りする教師が想像できる。
大学授業の部の中で、「教えること、学生に考えさせること」について確信が持てたのでよかった。
4月4日 金 曇り夜雨。 825
『霧のむこうのふしぎな町』読了。「青い鳥文庫」をはじめて読んだ。ひらがなのひらき具合が、いい感じ。漢字にはほとんどにルビ。留学生に読ませるなら、最初に「千と千尋」を見せて、ジャポニズム風呂屋を味わってから、こちらを読むといい。
作品としてどちらかひとつを選べというと、ファンタジー少女文学とアニメという異なる媒体だから、比較がむずかしいが、あえてひとつだけなら、私は「千」。ジブリファンには評判がいまいちだったし、私もジブリの中では「ナウシカ」や「トトロ」の方が優れていたと思うが、『霧のむこうのふしぎな町』は、このままアニメにしたら作品として弱い。女の子がほんわかすてきな一夏の思い出を作って、それなりに人々の様々な生活や喜び悩みを知って、成長して両親の待つ暖かな家庭に戻る。いい話だ。でも、「心温まるいい話」は、大人まで巻き込んでアカデミー賞ねらうところにはいかない。
まず、労働の質が違う。湯屋で千が命じられた労働は、一人前の大人と同じ「労働力」を求められている。登場するカオナシやハクの性格がよくわからないしキャラが弱いというのもわかるが、私は千がちゃんと労働をこなしていることだけでも、「きけ、万国の労働者階級出身」として評価する。だいたい今時の子で、ぞうきんがちゃんと搾れてぞうきんがけができるなんて、えらいぞ千尋。
一方、リナが「気ちがい通り」で体験するのは、本屋でも瀬戸物屋でも「手伝い」である。瀬戸物の中から偶然「王子」を発見してわがままな王子を変身させるのも、小学6年生が体験するにちょうどいいままごとのように感じてしまう。登場人物は、みんなイイヒトで、ちょっと陰のあるオバサンも最後には息子の待つ家に戻ってめでたし。たぶん、この作品を素直に受け取るには年をとりすぎたのだ。
ピコットばあさんの挿絵と湯婆婆がイメージそっくりなのは笑えた。母と子の関係。湯婆婆の赤ん坊ねこっかわいがりが、赤ん坊自身が求めた成長によってぴしりと拒絶されたことは、ひょっとこお面の坊やが「母ちゃん恋し」から一歩踏み出して成長しないのと比べて、いい感じ。赤ん坊も小学生の女の子も自分の力で成長するのだよ。
1975年にこのファンタジー小説が発表されたときには、ちょっとしたセンセーションだったというのだが、私はまったく知らなかった。当時はナルニア国とか、フランバーズ屋敷とか、外国ものばかり読んでいたような気がする。当時これを読んでいたら、少女の「ひと夏の思い出」話としてさらっとうけとめ、「大久保中の図書館にいれてもいいかな」って判断したかもしれない。でも、もっと過酷で凄惨な成長もあることがわかってしまった大人にとっては、ちょっとものたりない。自分自身には一筋の傷さえ受けずにさらりと成長できる好運な女の子への嫉妬か。
今や、クレヨンしんちゃん映画、仮面ライダー、○○レンジャーものまで、子供のパパママねらいのへんに大人びた小理屈つきの話にするのがはやりだから、気ちがい通りの話も、湯屋に底上げしなければ大人を巻き込めないという計算は見事にあたったというべきであろう。
4月10日 木 晴れ 831
中村さんの本、メンズサポートルームの活動の記録。DV加害者の男性たちのセルフヘルプワークショップ。
男性の側だけから見たインタビューが中心となっているということわりがあるせいか、どのDVも、女性たちの記録にみるような悲惨な状況ではない。家族や妻への感情を抑えに抑えていて、ついに爆発してしまうとついカッとなって妻をなぐってしまう、とか、ここに話されている程度のDVなら、女性たちをあれほど恐怖のどん底に陥れる暴力ではないのではないか、自由意志でワークショップに出ようとする男性は、DV加害者の中でも軽症なのではないかと感じた。
毎年きまって家族一緒に撮った写真を年賀状に印刷してくる中村正夫さん。今年は家族5人の他、ペットのインコまでカラー印刷されている念の入れ具合で、夫蒸発中の我が家に毎年こんな「幸せ家族写真」を送ってくるのは何のいやみじゃ、と思わせてきた。でも、本人の告白によると、奥さんとはギクシャクしっぱなしで、正夫さんは蒸発願望が強いのだと。蒸発願望など、誰でも持つわい。持つけど、実行はしないの。「蒸発願望がある」くらいが妻に対する申し訳のなさ、なら、うちのようにはじめから蒸発しっぱなしの家庭はどうなるんじゃ。ぷん。
5月5日 月 曇り 856
「よむこと」「かくこと」は、自転車ポタリングと並んで私のささやかな楽しみである。その「よむこと」を論じた『読者は踊る』「かくこと」を論じた『物語の体操』が、どちらも面白かったのは、貧乏連休の喜びといたすところであります。斎藤美奈子は絶対に面白いだろうと思って読むので、期待はずれだったときのがっかり度が大きくなるが、期待を裏切らない面白さだった。
押さえて欲しいツボをぴたっと押さえてくれて、とても気分良く心身がほぐれる。タイ式マッサージか。前書きの「踊る読者」該当者チャートによると私は20項目のうち、19項目に該当する完全無欠一歩手前の「踊る読者」であった。めでたい。一生踊っていたい。たったひとつの不一致項目は「上下2巻の本はとりあえず上だけ買う」というところ。私は上下そろいで買う。下を読まないことはあっても、かわないことはない。
『キャラクター小説の書き方』が期待はずれだったので、『物語の体操』はあまり期待せずに読んだせいか、けっこう面白かった。どこがいいかというと、専門学校の文芸科における講義録であるところ。高校を卒業して専門学校に入った(あちこちの大学入試で失敗してしかたなく専門学校に潜り込んだ)若者に小説の書き方を実戦訓練する話であるところ。抽象的な文学論ではなく、文芸修行論ではなく、実際のドリルであるところ。ドリルに答えた専門学校生の「優秀梗概、優秀プロット」の出来がよいので、とても救われる。(ただし、これも大塚の創作であるのかどうかは、定かではない。習作の作者名はあえて本名で出していると断るあたりがうさんくさい気もするが、私は純真素直な読者なので、大塚が言うところの「学力のない」専門学校生が書いたと信ずる)
大塚は「直木賞芥川賞ねらいの小説書き」ではなく、「RPGノベライズの作家」や「アニメシナリオのプロット担当作家」を養成する、というはっきりした目的を持って専門学校で教えているので、ねらいははずれていない。
大塚が文中で「誤解を恐れずに言うなら、芥川賞受賞の平野啓一郎と、ここの専門学校生との違いは、学力である」と書いているが、この学力は、たぶん、大学入試科目における数学や英語の学力差であろうと思う。なぜなら、彼が生徒に課した「村上龍を読んであらすじをまとめる」「つげ義春を読んでノベライズする」という宿題がこなせるくらいの国語力を持っているなら、高卒の学力として十分だと思えるから。さらに言えば、古文書を読みこなす読解力やら歴史や科学に対する造形とか、文学にはいろんな知識教養なんぞも必要とされる場合がある。SF書くにもミステリー書くにもファンタジー書くにも、いろいろ知っていなくちゃならない。
一番簡単に書けるのが「わたし小説」。私小説ではない。あたし小説とか、ぼく小説というようなジャンル。自分のことさえ多少客観的に描写できるなら一遍書き上げられるたぐい。つげ義春ノベライズがきっちりこなせるなら、あたい小説のひとつは仕上げられるだろう。
もっとも、最初は30名を超えていた受講生が、宿題をこなせなかった者は授業にでる資格なし、という規定にしたら最後は半分以下の人数になったという。たぶん、これは昨今の2,3流大学も事情はたいしてかわらないことであろう。平野啓一郎に「文献を読みこなして自分の文体にまとめ上げる学力」が備わっているなら、こちらの専門学校生の中の何人かにも、それなりの文献読解能力と文体形成力があるにちがいない。
違うのは「京都大学現役学生にして、最年少芥川受賞作家」として売り出すブランド力を備えているかどうかという点。だれか一人、専門学校文芸科出身でぽんと突き抜ける才能を見せるやつが輩出できるかどうか。日大芸術学部文芸科からばなながでたように、大塚指導の専門学校生門下から、抜け出す者が出ると面白いのに。
ただし、この専門学校をすでに大塚は辞めている。どことでもケンカ別れをする大塚なので、この専門学校とも長続きするはずはないだろうが。最近では東浩紀とケンカ別れのもよう。雑誌を共同編集するはずだったのに、東は大塚のやり方に憤激し共同編集を降りた。うん、人のケンカはおもしろい。
大塚が育てた人材から一人前の物書きが出ないと、大塚の「物語作成ツール」によるドリルの成果が実証されない。なぜなら、大塚自身は小説の書き手として成功していないから。ここまで来ても私には彼の作品「多重人格探偵だれそれ」という小説を読んでみたい気がおきないからだ。『キャラクター小説の書き方』の中であんなに自作の宣伝をしていたのに、読み手にその気をおこさせないのは、ノベルズ書き手としては相当やばいのではないだろうか。読みもしないのに言うのは何ですが。
5月8日 木 雨ふったりやんだり 859
電車読書で山田詠美『ぼくは勉強ができない』読了。地下鉄駅文庫ゲット本。地下鉄ゲット本の何がいいかというと、本屋や図書館で見ても、読もうと思わなかった本を手にとること。カバンにいつも2,3冊は文庫や新書が入っているはずなのに、かばんの中味を入れ替えて電車読書本を忘れたとき、地下鉄駅文庫の中から、読めそうなものを拾う。山田詠美はあたりもあるし、はずれもあるけれど、『勉強』は比較的評判が良かったという記憶があったから、読んでみようという気になった。本屋では買う気になれなくても、何もないときに手に取れる本が置いてあるところ。地下鉄駅文庫はいいですね。
行きの電車1時間半。30分はいねむり、30分は作文の添削。30分は読書。帰りに30分いねむり、1時間読書、で読了。
主人公時田秀美君の高校生活。『ぼくは勉強ができない』というタイトルはありていに言ってしまえば、詐欺である。秀美くんはとても頭のいい、感受性豊かな、サッカー好きな高校生。女の子にモテオテで、担任教師とも母親や祖父とも仲良く心が通じ合っていて、年上の恋人もいるという現代において考え得る限りのプラスカードを並べている優秀な高校生である。現在のところ受験勉強的な勉強は始めていないから、成績がふるわないというだけであって本質的には頭がよすぎるくらい。だから、落ちこぼれ君や、平凡とりえなし高校生が「何か参考になりそうな共感できそうなことが書いてあるか」と思ってタイトルに惹かれて本を読んだとしたら、自分とはエライ違いのもてもて秀美君の話を読むことになる。
だからと言って正直に『ぼくは今は成績不振だけど、もてもてで感受性豊かなんだ』というタイトルにしたら、だれも読まない。だから、この詐欺的タイトルは羊頭狗肉ではなく、狗頭羊肉として正解。中高生の母親世代が読めば、「かわいいワァ、年上が趣味なら、私も立候補したいなあ、ペタジーニの例もあるしオルガ夫人になりたいわ」と思うこと請け合いの母性愛刺激タイプなのである。
高校生の独白体の文体だから、すらすら読めるし、主人公が頭のいい感受性優等生なので、何もひっかかるところがなく青春物語が進んでいく。この作品が雑誌発表された91年、92年あたりでは、まだこの時田秀美タイプは問題児視される存在だったのかもしれないが、それにしても彼は優秀児である。十年たった今では、秀美君タイプは文部科学省推薦折り紙付きの「個性と感受性豊かな健全な青少年」の鏡になっちまった感がある。
「勉強ができない」といいながら、彼の通っている高校では、全員が大学進学があたりまえの高校なんだって。そういうレベルの高校へ進学する学生は、教師から見て「勉強ができない」とは言わない。どんな三流四流大学にも進学できそうにないし、就職しようにも就職先もなく、フリーターになるのが半数、というような高校。
そのような「偏差値難民高校」では、成立しない青春物語なのだ。くだらない教師が多いと秀美は嘆くが、とにかく授業が成立しているように見える。授業が成立しない高校に勤務する教師の話をさんざん聞いているから、生徒が授業を聞いているらしい高校にいる秀美君の好運をうらやむ。
実は、これを読んで一番先に思い出したのが久田恵と稲泉連の母子家庭。とても雰囲気が似ている。久田の家にはおばあちゃんもいたのが違うくらいだ。
一流大学を卒業して出版社に勤務している編集者の母親と、たっぷり年金をもらっていそうな趣味のいいおじいちゃんといっしょに暮らしている。秀美君は自分の家を「金持ちではない」と思っているが、本当に貧乏な赤間さんの家をのぞくとショックを受けてしまうような世間知らずだ。本当の貧乏とは、無論食べるもののない家をいうのだ。とりあえず飢えていないやつは「貧乏」を自慢してはいけない。
また、父親のいないことで周囲の人から同情や蔑視やイヤミを受けることもあるが、秀美のおじいちゃんはいつもそばにいて、話をじっくり聞いてくれる人だ。今時の子供の話を聞いたりする時間も余裕もない家庭に存在しないがごとき父親と、そういう父親に不平不満がいっぱいの母親で成立する「両親揃った健全家庭」より、よほどましな家庭環境を持っている。おまけにサッカー部に所属していて顧問の桜井先生とはいっしょにラーメンを食べに行ったりバーで飲んだりできる間柄。父親の役割を果たす人は多すぎるくらいいる。サッカー部員と軋轢もなく、3年生で部活を引退した後も部室に出入りするくらいなじんでいる。
ガリ勉で勉強しかできることのない同級生を「気の毒な青春」と感じつつ、秀美くんには仲のいいクラスメートもいるし、酒場で働く桃子さんを恋人に持つところも同級生からみれば異性交遊エリートである。女生徒たちも、クラス委員の黒川さんも幼なじみの真理も秀美を嫌っていないし、クラス一の美少女からも告白されるくらいモテモテのサッカー少年。こんな恵まれた高校生は、今時ちょっとやそっとじゃさがせそうにない。
「個性と感受性の豊かさ」を基準とする現在の文部科学省「望ましい高校生」チャンピオン大会で優勝する勢いだ。ものすごく恵まれた環境の恵まれた資質を持つ少年の成長物語。
サッカーができるってことは、チームプレーができるってこと。私のように、チームで行うスポーツはいっさいだめ、つまり、球技は卓球のシングルだけがかろうじて参加できるスポーツで、あとはいっさい駄目。陸上とか水泳とか、ひとりでやるスポーツしかできないのはハークンも同じ。
小説中では「成績があがっていないおちこぼれ」のような書かれ方をしているし、無理解な教師から「不純異性交遊なんかにうつつを抜かしているから成績が上がらないんだ」というオバカな指導も受けてしまうが、実は優秀な高校の「ある意味超エリートタイプ」の高校生物語といえる。論理的なしっかりした思考ができ、それを母親や祖父に表現する場を持っているし、うらやましいなあ。こんな感受性豊かで表現力豊かな息子をもったら、母親は安心して新しい恋人探しに出かけられるというものだ。
連作短編にでてくるエピソードは、これまた青春物語の定番アイテムがぞろぞろ。恋人は浮気するがモトサヤになるし、同級生のひとりは、何に悩んだか不明だが屋上から飛び降り自殺して死んでしまうし、じいちゃんは死にはしないが、倒れて病院に運び込まれるし、もう、どこをのぞいても定番をつぎつぎにクリアしていくあざやかさ。こんなうまく乗り切っていけるならだれも苦労はせんよ、と高校生は思わないのだろうか。
父親が誰か母親がまだはっきり告げていないところが唯一本人にとって「アイデンティティの不安」材料になりそうな気配だが、この連作短編では実の父親はいっさい関係がない。釣り道具の手入れもするけど、恋する相手を捜すのも好きなダンディなおじいちゃんがいるから、ワーカホリック父やDV父などがいる家庭よりずっとまし。
母親がパートで細々と働くしかない、悲惨一歩手前の疑似母子家庭から見たら、この時田家の経済は実に恵まれている。秀美に洗いざらしのジーンズと古びたTシャツを着せても、母親は5万8千円のくつを買う。バブル直後の話だとしても、5万8千のくつ買える女は、貧乏じゃないもんね。私は、友達の残した給食のパンを持ち帰る赤間さんが好き。5万8千どころか、3千円のくつを買うのもためらって、買わないでいる自分の貧乏性がたまにはいやになるけれど、赤間さん、弟の鼻糞とってやりながらガンバレ。赤間さんが、「見たらびっくりするよ」と言いながら、秀美を家に呼ぶことのできる女の子であるところがほっとする。
赤間さんが「うちの小鳥のために」と給食の残しパンを集める姿に、貧しくてもせいいっぱい生き抜こうとする人間の尊厳を感じてしまう。
小学校6年生のとき、担任の先生から古着をもらっている同級生がいた。その子が「私は先生から特別に思いをかけてもらっているんだからね」という態度をとるのが気に入らないと、女子生徒たちが腹を立てたことがあった。自分の家の経済状態を悲しみ、先生に古着をもらうことを恥じいる態度をとったのなら、きっと女子たちは「見て見ぬ振りをしながらかわいそうがる」という高等技術をとり、彼女のためにクラスの居場所をあけておいたのだろう。
私も6年生のそのときに、「先生に特別に思われている」という態度をとる彼女に対して寛大な気分になれない情けないやつだった。6年生の当時から人間ができていなくてせこい人物だったというわけですね。
40年前に、先生が同級生にあげた古着。そのときの先生の思いや、もらった子の思いや、同級生たちの複雑な感情や、貧乏が現実に目の前に存在することへの思い。あれから40年たったのに、まだ、忘れていない。貧乏ってそういうもの。
それから、意外な同姓同名に「胸ふたがるる思い」がひとつ。秀美君が転校したばかりのとき、学級委員選挙があった。秀美くんはクラスの事情がわからないままに、伊藤夕子と名前を書き、担任の激怒をさそう。伊藤夕子は「クラスで一番勉強ができない生徒」であったのだ。その名を書いた投票を見て、担任は「ふざけて投票したやつがいる」と非難する。
秀美君はもちろん担任にくらいつく。勉強ができない生徒が学級委員を引き受けてはいけないのか、一票が担任の気に入らない票だったからといって、その選挙を無効にするのは担任が標榜するところの民主主義に反しないことなのかと。この件に関しては無論担任の負けである。しかるに私が胸ふさがるる思いになったのは、単純な同姓同名。娘のクラスにいた「一番勉強ができない生徒」の名前が伊藤夕子だったから。そしてクラスの男の子たちが学級委員の選挙のとき示し合わせて伊藤夕子に投票した事件があったのを思い出したのだ。この時は伊藤さんがいやがって泣き出したために、再投票になった記憶がある。
男子たちは学級委員を押しつけておいて、いろいろな仕事をうまくできない夕子さんをからかって遊ぶ材料にしようとしたらしい。そういう意味で投票したのだろうということを察知して泣き出したのだとしたら、伊藤さんは決して馬鹿じゃない。「勉強ができない」というのは、人の気持ちも忖度することができない馬鹿どもをいうのだから。
そして、時田秀美はそういう意味ではものすごく勉強ができる、すごい高校生なので、彼の進路の悩みも、同級生自死の悲しみも、恋人が浮気したつらさも、「まあまあ、そのくらいの修行はしておけよ」という気になってしまうのでした。それにしても、同級生が自殺したというのに、この高校のクラスメートたちは葬式では盛大に泣いたものの、翌日になればけろりと彼の存在など忘れて受験勉強にいそしむことのできる人たち。こんな偏差値高そうな高校によく秀美は入る気になったなあ。
5月18日 日 曇り 869
井上ひさし『樋口一葉に聞く』読了。前田愛との対談の中で「女房が演劇制作をやりたいと言い出して、女房が作った劇団の旗揚げ公演として一葉伝を書くことになった」という裏話が出てくる。井上のDVバタード妻だった好子前夫人、こまつ座を作ってプロデューサーとなり、亭主は妻をナグリながらも座付き作者として戯曲を書く。バタード女房は劇団の演出家に走り、劇作家亭主を捨てて再婚するも、何年か後に離婚。劇作家は共産党幹部の娘と再婚。息子をもうける。その後の家庭争議を知っていて読む「女房が劇団を作ったので、戯曲を書いた」というその作品。『頭痛肩こり樋口一葉』の台本は全部は掲載されていなくて、その代わり最初の構想による劇中劇仕立ての台本が載っている。こちらは、初日一ヶ月前になって全部破棄したという。
で、作品として評価するなら、やはり井上ひさしがDVであったとか、なかったとか、関係ないと言わざるをえない。従来の『明治の恋』などの半井桃水との恋物語を中心にした新派的な一葉像であるなら、薄幸の才女として内面の誇り高さと外面のつつましやかさと恋に悩む乙女心と、適度にチャンプルー。なのだろうが、井上の一葉像は「あの世からの視点でこの世をながめている女」というキーワードによって、ひとつの肖像を完成している点で評価できる。
「女房を殴ったりする男が書いた本なんて読みたくもない」という人もいるのは認めるし、最近の井上の考え方はどうもおかしい、偏ってきた、と思う人もいるだろう。そういう人に「いや、作者本人の性向人格と作品は別」などと言うつもりもないし、どう読むかも読む人の自由だ。しかし、井上ひさしが暴力夫であろうと共産党幹部の婿であろうと、私が読む限りにおいて彼の作品はおもしろい。ところで井上は現在の妻(米原真理の妹)のこともなぐるのだろうか。願わくは現夫人は武術の達人であらんことを。井上が殴りかかるやエイヤッと逆襲なさいませ。武力革命!満身創痍のペンクラブ会長もまた見所多し。
さて、『頭痛肩こり樋口一葉』である。一葉は強い。戸主として明治の世を闘い抜いた。武術の達人ではなかったが、筆一本で闘った。結核には負けたが世間には負けなかった。戸主であるから、婿をとる以外の結婚は許されず、したがって夫からの迫害を受ける必要もなかった。井上は一葉を「幸福な作家」と呼ぶ。作家としての頂点で死ぬことができ、書けなくなったあとの苦悶も流行らなくなったあとの悲哀も味わうことがなかったからだと。
中学校の女子体育を未だに男子と別々に教育している学校も多いと聞くが、それなればなおのこと、年に一回婦警を呼んで女生徒の前でちょこっと実演して見せて「痴漢に襲われたときはこうやって身を守れ」なんてお説教するのでなしに、全女生徒に身を守るための武術を身につけさせて、反撃可能な身体を鍛えるがよかろう。
また、結婚前の花嫁教育を行うに、料理や生け花なぞより、夫婦げんかのさい勝てる武術を身につけさせるべきである。亭主のDVから身を守るための武力は武力ではないだろう。なにしろ「自衛のための武器ミサイルその他の兵力を保持する軍隊は、これを軍隊と呼ばない」と教えられ、私たちは立派な「戦後民主主義者」に育ったのだ。日本海を超えてミサイルが飛んできたら防衛せよと教える国が、「亭主に殴られっぱなし」の妻を育ててはいかんだろう。
5月19日 月 雨 870
西江雅之『ことばの課外授業』課外授業というタイトルだが、15年前に外語大言語学概論や大学院の授業で聞いた話が、そのままうまくまとめられている。なつかしく面白く読んだ。ただし、西江さんの授業はソマリアをひとりで縦断した話とか、横っ飛び雑談のほうが面白いので、それが再現されていないは残念。もう、早稲田も定年かなあ。大学リタイアしてもなおかつ世界中を飛びまわるのだろうが。ユニークな先生のユニークな息子アラン君がどんなふうに成人したのかも見てみたい。
5月29日 木 晴れ 880
往復の電車で青木るえか『主婦ですみません』を読了。おおいに笑えた。娘が大学図書館から借りてきて「ぜったいおもしろいから」と回してきた。お笑い文章界(そんなものがあるかどうかは知らないが、私のジャンルの中では)にとって、「ナンシーの新作がもう出ないとなると、どうしたものやら」と、「笑える本」ニュースターを捜していたのだが、いいのがみつかった。斉藤美奈子も笑えるが、もうちょっと軽いジャンルでナンシー後継者をさがしていた。ただし、ナンシーのネタが「テレビ番組やタレント」なので、新ネタは次々と出てくるのに対して、るえかは自虐ネタなので、早晩ネタ切れのおそれはある。解説を書いている中村うさぎが、ブランドもの消費、ホスト狂い、整形ときて、新ネタ掘り当てにちょっともたついている感があるのと同様である。
とにかく、るえか(かえる好き)は徹底的に「駄目主婦」の自分を笑いのめし、芸になっている。そして、るえか同様掃除大嫌いで、ときどき部屋から虫を出現させる私と娘、冷蔵庫の奥から「液体状になってしまった野菜」「カビにおおわれた元はなんだったか思い出せない食品」を発見する私には、大いに「るえかに比べりゃ私はマシ」と幸福になれる主婦ぶりであった。私は3週間に一度はDKに掃除機をかけているもんね。DK換気扇は、少年H4年生のとき、「家庭訪問は希望する家庭にのみ実施」とされて以掃除していないが、動いているので、問題ない。汚れすぎで動かなくなったら掃除するのだ。もしかして、るえかよりマシというほどでもないか。かれこれ6年も換気扇は汚れたまま動いているのだ。えらい。
うちの換気扇もエライが、るえかのダンナもえらい。ちゃんと社宅もある一流企業に勤めているらしく、転勤も2年に一度繰り返す総合職っぽい、地方の小金持ち出身の汗かき男。るえかと「だれからもうらやましがられない仲良し夫婦」を15年も続けているのだ。「究極の割れ鍋に綴じ蓋夫婦大賞」を贈呈したい。
6月7日 土 晴れ 889
宮部みゆきの『夢にも思わない』続きを読む。殺人事件をめぐる物語だが、推理小説として読むなら、犯人探しの謎解きもトリックの解明もない。中学1年生を主人公として、彼の語りで中学生日記みゆき版として話が進む。少年の秋から冬への物語として読むなら、それなりにおもしろかった。中学1年生の雅男君と同級生で天才将棋少年島崎君、雅男が思いを寄せるクラスメート工藤久美子の三人を巡って話が進む。小説の終わりが大晦日に設定されていて、雅男君は行く年に味わったいくつもの新しい経験恐ろしい経験を振り返りながら、行く年とともに失われてしまったひとつの感情を、時の流れに流します。そして数時間後の新しい年には、たぶん新しい気分を獲得できるんでしょうね。まだ中学生なんだし、新しい年は何度でも巡ってくるさ。
と、話自体はなかなかおもしろく楽しめたのだが、ひとつひっかかったのが、「語りのリアリティ」というやつ。中学生の語りという設定にしては、あまりにまとめ方がうまくて、これは「中学生の視点で書かれた大人の文章」である。中学生の語りとして読むと、なんだがうそくさい。だから、雅男が語ったことを、誰か大人が文章化した、ということにしてほしかった。3人称の文章だったら、このまま受け入れられただろうし、1人称でも、雅男が中一のころを回想して高校生くらいに語ったこととして書いてあるなら、まだよかった。
「中学1年生がこんな単語使わないよ」という表現があちこちにあった。たとえば、雅男くんは「深川白川公園で、たくさんのひとが憩っていた」という。今時の中学1年生は「憩う」なんていう言葉をつかわない。だいたいタバコの「いこい」を知らない世代にとって「憩う」というのはボギャブラリに入っていないね。「公園でたくさんのひとがユルユルしていた」「集まってまったりしていた」くらいのはやり言葉しか使えないのだ。はやり言葉がいやなら「公園にたくさん人がいて、のんびりしていた」程度の表現になるだろう。近頃の中学生はゲームかテレビからしかボギャブラリーをふやせないので。
山田詠美「ぼくは勉強ができない」の方は、高校生という設定でもあるし、語りが高校生らしくって、違和感はなかったが、雅美君はついこの間までランドセルをしょっていたとは思えないアンチボギャ貧少年なのだ。彼の論理的な思考といい、島崎の態度といい、これが高校生の設定だったら、受け入れられるのになあ。中1というのがどうにも落ち着かなかった。あるいは、少年の視点から見つめたことを数年たってから1人称で書いた、ということにするなら、まあ、大丈夫なのに。中1の少年のリアルタイムの語りというのが、どうもね。
たぶん、宮部みゆきは自分自身が中学1年生のころ、おそろしくボギャブラリー豊かな、日本語表現能力に長けた少女だったのだ。それで、中1の男の子を主人公にしても、自分と同じような言葉で表現できると思ってしまった。でも、それってたぶん特殊能力。私の中1少年のボギャブラリー観に偏りがあるのかもしれないが、リアルタイムで中坊少年たちの日記サイトを見る限りでは、雅男くんの語りはトップレベル日本語表現能力を持つ特殊能力少年ということになる。私が見ている少年日記サイトでトップの表現力は『駄目人間血風録』の、みないれいじクン(4月から高3)である。彼が中学時代に書いたものでもやはり彼自身がいうように幼い部分がある。雅美君の思考回路には、この手の「幼い部分」がなく、熟練の推理小説家のごとく話を進めていけるので、あえて少年の語りに設定する必要があったのかなあ、とおもったしだい。
少年の語り物では今『キャッチャーインザライ』が村上春樹の新訳でブーム。だいたい私は旧訳でも読んでいないが、少年に一人称で語らせるのは、私としては嫌いじゃない。庄司薫シリーズとか、島田雅彦の『やさしい左翼のための喜遊曲』とか。少年ビルドゥングスが好きなのだ。

