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話しことばの通い路
Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
HAL-niwa LOFT

いろいろあらーな 春庭エッセイ2008年9月

2008 私のいた場所 日常茶飯事典・ひっこし10回転職11回
09/05 人生のあの場所、再訪 還暦をまえに
09/06 女子高校 空っ風のなかの女子高校生
09/07 東京へ 進学、受験、自立、上京
09/08 夏目坂 裏と表の学校生活
09/09 市ヶ谷河田町 女子医大内科検査室検査士
09/10 飯田橋竹橋 お茶の水職業専修校、パレスサイドビル
09/11 市立中学校 国語科教師
09/12 北高校前 中学校再訪
09/13 桜区 私は死にまっしぇん
09/14 池袋高田馬場 英進予備校、
09/15 赤道の国の冷たい水 ナイロビ・ボーマスオブケニア
09/16 野ばらロードムービー 九州北陸ドサ回り女優
09/17 一期一会 だるま食堂のゆみさん
09/18 新大久保 新米日本語教師
09/19 都電荒川線 母親学生生活
09/20 自転車3人乗り 子育て、大学院、日本語教師
09/21 中国 我が子と分かれて中国で出稼ぎ
09/22 めぐりあう時間たち 60年の時間たち


人生のあの場所、再訪
2008/09/05
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(1)人生のあの場所、再訪

 昔を振り返ってしみじみしたり、やたらに昔話を人に聞かせたくなる年齢になった人は、「ああ、自分は人生の壮年期を終え、老齢期に入ったのだなあ」と、自覚すべきだという。

 私も、2007年に「銀婚」の節目を迎えた頃から、なにかにつけて昔を振り返るようになった。「老齢」になったということなのだと自覚する。
 若い頃は、年寄りがなにかにつけて「戦時中の苦労話」などをはじめると、うんざりしながら聞いていたくせに、自分も早や「昔語り」をしたい年齢になってきたのだ。

 そりゃあ、そうだよ。あと1年で還暦になる。
 暦が一巡するんだから、いままでの一巡りを振り返ってもよかろうて。
 と、いっても、語る相手にすべきうちの愚息豚児は、ハハの昔語りなど、はなから聞く耳もたない。

 しかるに、ありがたいことに、今の時代、ネット、ブログというのものがある。
 自分語りのブログは山ほどあるが、読みたい人は読めばよし、まったく読まれないブログだろうと、書いてUPする分にはだれにも迷惑はかけない。

 「私がいた場所」シリーズ、私の10回の引っ越し、11回の転職の思い出をぐずぐずと語っていくつもり。
 まあ、読まれずともよし、「自分語りをはき出す場所」として、インターネットがありブログがあること、ありがたい文明の利器である

 私の学びと仕事については、昨年12月に「私の学び歴」として語った。
 今回は、私がかって学んだ場所、働いた場所を再訪して歩いた感想を書こうと思う。

 まったく変わってしまった場所もあるし、かわらぬたたずまいを残している場所もある。
 思い出深い場所もあるし、二度と足を踏み入れまいと思っていたつらい記憶の場所もある。

 自分がかって居た場所をめぐり歩いてみる、というのも、老境のひとつのあらわれと思えば、老人になった自分を「よくぞヨボヨボフラフラと、これまで生きてきたねぇ」と、なぐさめてやりつつ、「ホメラレモセズクニモサレズ サウイウモノニ、私はなった」記録として残しておきたいのだ。

<つづく>







女子高校
2008/09/06
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(2)女子高校

 昔々、あるところに、3年間寝てばかりいた、女子高生がいました、、、、

 とにかく、高校3年間の授業中、たっぷり睡眠時間はとりました。
 寝た子は育つというけれど、3年間寝続けたにしては、入学時150センチ、卒業時150センチで、身長は少しも育たなかったけれど。

 高校在学中、私は「4年制大学進学クラス」にいながら、受験勉強に没頭するクラスメートを「ガリ勉どもめ」と、みなす生意気な生徒だった。
 「受験勉強以外にすることもない連中」を哀れんでもいた。

 私は、科学部の実験に没頭して学生科学賞に応募したり、「群馬歌舞団」を主催する体育の先生にくっついて、八木節の練習をしたり、受験勉強そっちのけの生徒だった。

 高校時代、私が心酔した体育の先生は、吉幸かおる先生という。教育者として、私の尊敬する先生のひとり。

 体育の時間は週に3コマで、1コマはグラウンドで陸上競技、1コマは体育館で球技、1コマは創作ダンス。
 私はチームプレーが大嫌いで球技は苦手、ダンスが大好きだった。
 吉幸先生にダンスを教わり、休日には自宅まで訪ねていくほどになった。

 吉幸先生は、自宅に民族舞踊の稽古場を設立し、地域の活動を続けながら、さまざまな教育実践に取り組んでいた。
 高校を定年退職した後、現在まで「ハンセン病回復者とともに生きる」をライフワークにしておられる。

 演劇や音楽劇を生徒とともに実践してきた半生を語った、吉幸先生のライフストーリーは、下のサイトに掲載されている。
 前編と後編に分かれている掲載のうち、私が教えていただいた県立女子高校の話は、「その当時の校長は教育者としてひどい人だった」と、いうくらいの話題ですぎている。

 吉幸先生の赴任校や定時制高校での数々の実践について、下記サイトで読んでください。
http://homepage2.nifty.com/g-kyoken/  

 「三年寝た子」は、高校3年の受験時、地元の公立大学に合格した。電車とバスのりつぎで1時間ほどで通える隣の市の市立大学だった。

 姉を東京の専門学校へ送りだしている両親は、地元の大学合格でほっとしていた。長女と次女の二人とも、東京に遊学させる余裕はない家計だったので。

 東京へ出たいと希望した私に、両親は言った。
 「家から通うなら下宿代がかからないから、学費くらいは出してやれるけれど、どうしても親元を離れたいなら、親から自立しなさい。親の援助庇護はなし、と覚悟して東京へ行きなさい」

<つづく>



東京へ
2008/09/07
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(3)東京へ

 親としては、親元にとどまることを選ばせようと思ったのだろう。
 しかし、私は、合格した地元の公立大学に入学しなかった。

 実は、「東京へ行きたい」というのは、地元の大学への進学をしないいいわけにすぎなかった。地元や東京の国立大学に進学を決めた同級生に対して「かっこ悪いところを見せたくない」というのが本音のところだった。

 私は、高校3年間、漫然と本を読み散らしたりするだけで、受験勉強をひとつもしなかった。
 「私は人文系に進学したいのに、なぜ数学や理科を4教科も受験勉強しなければならないのか」と、思い、そんな時間は「ムダ」とみなしていた。

 文系に進学するのに、受験に必要というだけで、興味もない数学の練習問題を必死で解いているクラスメートを「人生に何が大切なのかわかっていない」などと思っていた。

 国立大受験には、数T数U、理科2教科、英語、現代国語、古典、社会2教科。9科目の受験勉強が必要な時代だった。
 我が家の家計では、私立大学に進ませる余裕がないことはわかっていたのに、だからといって国立受験に必要な9教科の勉強は、したくなかった。

 「私は受験勉強なんかしなくても一流大学に合格できる」と、まったく根拠もなく思いこんでいた。まったく根拠がなかったことは国立一期校も二期校も落ちたことで証明された。

 今は「自分の専門に直接関係なくても、基礎を学ぶことの大切さ」が身に染みている。
 何事も、事の本質が分かったときには手遅れであるのが人生!
 ようするに、私は受験勉強から逃げていただけだった。

 自分の実力程度の公立大学以外に合格しなかったのは当然のことなのに、「受験勉強をして国立大学に合格した」クラスメートに対し、「合わせる顔がない」と思った。彼女たちのがむしゃらな受験勉強を小馬鹿にしていたのだから。
 それで、地元の大学に進学しないいいわけに、「東京へ行きたい」と言ったのだ。

 両親は「長女しか東京に出してやる余裕がない」ことを悲しみ、私を東京の私立大学に出すお金がないのを「親の力のなさ」のように思っていたことを、母が死んだあとで知った。

 長女には教育にお金をだしてやれたのに、次女が進学するときは、経済的な余裕がなかったのは、理由があった。私が高校生になったとき、父が勤務する鉄鋼会社は、大手に吸収合併された。給与が大幅ダウンし、賞与も新会社では以前より格段に低い額だった。

 姉のためには貯金を取り崩しても下宿代を出してやれたが、私が進学する時期には、妹の高校入学も間近になっていて、もう余裕がなかった。

 「親が子どもの希望通りに教育のお金をだしてやれず、つらかったけれど、給料が安いことを愚痴れば、それは夫の働きなさを責めているように聞こえるだろうから、こどもには給料が下がったことは言えなかった」と、母は伯母にだけは愚痴をいっていたのだ。

<つづく>


夏目坂
2008/09/08
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(4)夏目坂

 高校卒業後、「いやだけど、数学や理科の受験勉強をしなければならないから」と通っていた予備校を4ヶ月でやめた。

 どうしても数学をやる気になれなかった。私立なら、文系の科目だけで受験できる。
親の教育資金では国立以外に出してやれないというのなら、自分で働いて私立にいけばいいのだ。


 公務員試験に合格していたので、県職員採用面接試験を受け、7月から公務員として働きながら、上京の資金をためた。
 1年ちょっと働いて、20歳の誕生日をすぎ、自立するめどがたった。
 「働きながら大学へ行く!」と、私は上京を決めた。

 上京し、大学第二文学部に入学した。
 近くの大学病院の面接で、高校で科学部に所属し、読売学生科学賞全国大会に入賞したというと、あっさり「内科検査室・検査研究補助員」として採用が決まった。

 第二文学部1年生の1年間は、昼、女子医科大学の内科検査室で検査の仕事をしながら、夜、大学の教室に通った。夕暮れの夏目坂をくだり、文学部スロープをのぼった。

 学園闘争の時代だった。毎年「学生ストライキ」が決議された。
 キャンパスはロックアウトされ、中に入れない。1年間で授業が実施できた日数は数えるほどだった。

 最初は大学病院内か検査室の検査補助員だったけれど、授業が休講続きでキャンパスには入れないし、内科検査の勉強する時間がとれたから、検査室の同僚に教わりながら、毎日、顕微鏡をのぞき、赤血球の数をかぞえ、白血球像の病変を追った。

 内科検査室の人々は、斎藤主任だけでなく、先輩のリンさんも杉本さんも涌井さんも、皆よい人たちだった。
 高卒後専門学校を卒業して臨床検査技師の資格を得ていた直子さんと幸子さんは、資格のない私と対等に接してくれ、私の分からないことは教えてくれた。

 内科検査室のみなが私の先生だった。
 2年生の夏休みに、順天堂医大で行われた検査士の資格試験を受けて合格した。

 試験までは、がんばって臨床検査について勉強したのに、合格して正式に検査士の資格をとったら、自分が医学や病院に向かないことだけがはっきりしてきた。

 病室へ血液検査に出かけて、高校生の患者から採血する。検査結果を伝えるとまもなくその子は死んでしまう、というような「日常」に、いちいちめげていてはいけないのが病院の仕事だ。

 しかし、私は、もともと理科系のことは苦手な、完全文化系の人間なのだ。なにより、「死」と直面する病院の仕事を続けるには、私は弱すぎた。

<つづく>



市ヶ谷河田町
2008/09/09
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(5)市ヶ谷河田町

 内科検査室の斎藤主任からは、「何度試験を受けても合格がむずかしいと言われる検査技師試験に、せっかく合格しておきながらもったいない」と、言われたけれど、ダメと思ったら気力が続かなかった。

 20歳の私が、はじめて東京に出て働く場として、内科検査室はとても恵まれた職場だったと、今も感謝している。
 そんな恵まれた職場だったのに、私は病院の仕事からも逃げ出した。

 2007年11月22日、地下鉄東西線の早稲田駅を降り、夕暮れの夏目坂を、ゆっくりと登っていった。
 見覚えのない新しい店が多かった。若松町の交差点にある東京堂金物店が、昔ながらの場所に残っていた。

 市ヶ谷河田町の大学病院は、煉瓦造りの一号館を除いて、ほとんどの建物が新しいビルに生まれ変わっていた。

 バス通りに面した茶色のレンガ造りの建物、女子医大一号館。
 煉瓦造りの近代建築を訪ねて歩くのが好きな私にとっては、この建物の中で働いた時代が私の人生のなかにあったこと、誇りに思う。

 一号館は、増田清(1888-1977)が設計し、1930年に竣工した。私がこの建物に出入りした70年にすでに築40年をすぎていたのだから、今は築78年の老建築。
 保存にはいろいろな手間暇がかかるだろうけれど、こうして当時のまま残っている建物があることは、うれしい。

 女子医科大学の受付案内でたずねると、今は「内科検査室」という部署はなく、「MR検査室」「脳機能検査室」「超音波検査室」など、細かく分類されているのだという。

  私がいた場所。
 検査室の中には入らなかったけれど、一号館をみただけでも昔の思い出にひたれた。

 女子医大通りの角をまがり、すっかり暗くなった夏目坂を下った。

 両親が「東京に出てもいい」と許可した条件は、「3年次に進学するとき行われる第一文学部への転部試験を受けて、必ず昼間の学部に移ること」だった。

 私が3年生になるときには、姉が専門学校を卒業し働いているだろうから、両親は学費を私にまわせるはずだった。

 しかし、語学がまったくダメな私は、転部試験の科目として、専門の国文学以外に、英語とドイツ語ふたつも語学試験を受けなければならないことに、すっかり嫌気がさしていた。
 受験勉強がいやだったから、二文に入ったのに、ここで受験勉強のようなつめこみ語学勉強をするなんてまっぴらごめん。

 またまた「いやなこと、努力を要すること」から逃げ出すいいわけが必要になった。

<つづく>


飯田橋竹橋
2008/09/10
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(6)飯田橋竹橋

 学部3年生の4月から、昼は職業訓練専修校の英文タイプ科に通う「ダブルスクール族」になった。
 この「昼は英文タイプの学校へ行く」というのは、「転部試験を受けろ」という両親へのいいわけだった。
 私はいつも「いいわけ」を用意しては、楽なほうへ逃げるのだ。

 母は、ダブルスクールで昼も夜も勉強するのはたいへんだろうと心配したけれど、大学は相変わらず学生ストライキを打っていて、授業は休講続きだったから、ダブルスクールといっても、2倍勉強するわけではなく、2割増しくらいのものだった。

 当時は「東京都立お茶の水専修職業訓練校」といったが、現在は統合されて「東京都立中央城北職業能力開発センター飯田橋校」となっている。今はコンピュータやDTP、介護などを教える科が設置されている。
 建物も、新しい機能的なビルになっている。

 昼は飯田橋で英文タイプを習い、夕方になると東西線ひと駅となりで降りて、大学のスロープをのぼった。
 タイプ科を修了して、竹橋のパレスサイドビルにあった汽船会社(現在は商船三井に併合されている)で、英文タイピストとして働き始めた。

 英文タイプの仕事は自分にあっているように思えた。
アルファベットのキーを打つのがすきだったけれど、3年生の冬、2月に母が急死し、英文タイプの仕事は続けられなくなった。

 大学4年生の1年間は、父と妹のために、実家の家事をしながら、教育実習などをこなした。
 母に死なれて、何もしたくはなかった。生きていたくもなかった。

 父が「女の子だから、働くなら教師がいちばんいいさ」と、言ったから、教員試験を受けた。母に何も親孝行をしてやれなかった。せめて父が喜ぶことをしてやろうと思った。

 大学を卒業して、公立中学校の国語科教師になった。
 朝8時から夜9時10時まで学校に残って仕事をした。ダウンして10日間入院したこともあったが、仕事が忙しいことでつらいと思ったことはなかった。

国語教師だからと演劇部顧問をまかされ、演劇部を指導した。
 生徒たちと演劇の舞台を作り上げることは楽しかった。

 よりよい演劇指導をめざして、モダンダンスのレッスンに通った。
 発声を演劇部員に教えるために、県が主催する講習会に参加し、朗読法をならった。
 NHKの大内アナウンサーが講師。週に一度、発声練習や朗読練習をした。

 私は生まれつき滑舌がよかったので、早口ことばの練習はお得意だったし、朗読の表現力が広がり、楽しい講習会だった。

<つづく>


市立中学校
2008/09/11
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(7)市立中学校

 校務分掌では、「国語教師だから」と、図書館管理の仕事も与えられた。図書館司書が配属されていない学校図書室だから、国語教師が司書のかわりもした。

 毎日朝8時から夜9時10時まで仕事に没頭したが、私は未熟な教師だった。
 2年目に、教員組合に入ったことで校長の怒りを買い、校長からイジメを受けるようになると、私はたちまち挫折してしまった。

 今なら「パワーハラスメント」という言葉もあり、職場において権力をもつほうが、弱い立場の者にいやがらせをすることは、社会問題にもなる。
 当時は、「パワハラ」なんていうことばも知らず、とにかくつらいだけだった。

 私が勤務していた中学校の校長は体育教師出身で、サッカー部顧問をしていた。
 「レギュラーメンバーになりたい子」たちは、校長の意のままにあやつられた。
 私の担任クラスは、サッカー部員たちが結束して反目を始め、校長はサッカー部員の親たちに「あの先生は力不足だから、クラスをまとめていく力もない」と吹き込み始めた。

 私を応援してくれた親たちもいたが、私は無力な教師であり、耐えていく力がなかった。
 校長のイジメによって国語教師をやめたこと、弱すぎたと思う。
 だが、あのまま中学校教員を続けていたら、精神的にボロボロになり、心を病むようになったのかもしれない。

 3月に退職したあと、理由をつけて、4月の離任式にさえ行かなかった。もう二度とあの中学校に足を踏み入れたくはない、と思っていた。
 自分が精神的に弱かったから退職するのだ、とは、当時誰にも言えなかった。

 職場では「母が亡くなってから、妹が父の世話をしていたけれど、妹が結婚して名字も変わったので、次は私が父の世話をしてやりたいと思います」と言ってやめた。
 実際には、妹は結婚後、名字は夫の姓になったけれど、婿さんは妻の実家で舅といっしょに暮らすことを選んでくれたのだった。

 家族には「教師としてまだまだ未熟なので、もう一度大学に戻って勉強する」と、言いわけした。
 仕事をやめ、出身大学に戻ったのは事実だけれど、私の心の中には、「弱くて耐えられないから仕事をやめざるを得なかったのだ」という負い目が、長く残った。

 意識しているつもりはなかったけれど、ここ11年もの間、行く気があればすぐ行ける距離にありながら、この中学校への訪問をしてこなかったのは、やはり「弱かった自分を振り返るのがイヤだった」からだろう。

<つづく>


北高校前
2008/09/12
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(8)北高校前

 2007年11月15日、仕事の帰り道、駅前の公園で、青空の下に立つ大きな銀杏の木を眺めた。秋の午後の陽に照り映えて、燃え立つような黄金色だった。
 そのまま、駅の中に入るつもりだったのに、急に思い立って、駅前のバスターミナルから「北高校行き」のバスに乗り込んだ。

 バスの終点名になっている「北高校」は、道の西側に立っている。創立30周年を迎える県立高校。
 私が中学校国語科教師をやめた年に設立され、現在は単位制普通科高校になっている。私が3年間勤務した中学校は、道を隔てて東側にある。
 「北高校」のバス停を降りると、目の前が中学校正門だった。

 私は30年ぶりにかって勤務していた中学校の校門の前に立った。

 私が30年前に勤務していた中学校のすぐ近くに、木曜日に出講している大学があった。
 だから、元勤務の中学校に来ようと思えば、大学の授業を終えて15分も歩けば校門の前に立つことができたのだ。

 それなのに、私は大学で授業をはじめてから11年間もの間、「いつかは行ってみよう」と思い続けたまま、結局昔の職場である中学校の前に立つことはなかった。
 無意識のうちに、「封印したい場所、私が逃げ出した学校」として避けていたのだと思う。
 
 中学校の校舎は、30年前に比べれば古びていたが、2階にある正面玄関へ向かう大階段も、体育館も、外観は昔のままだった。

 2階の事務室で受付ノートに名前を書き、番号札をもらって胸につけた。どんな用なのかを尋ねられることもせず、校内見学OKだった。
 たぶん、来年中学校に子どもが入学するという親たちが、こうして個人的に見学にやって来る時期だったのだろう。
 
 私が校務分掌図書室係として教室職員室以外で一番長くすごしたのは図書室。図書室前の廊下には、図書委員が書いたのであろう「おすすめ図書」の題名と著者名が模造紙に書いてある。
 昔、ガリ版で学級通信を毎週刷っていた印刷室は資料室になっていた。今は職員室にあるプリンターやコピー機で間に合うから、印刷室を別に作らなくてもいいのだろう。

 中に入ることはしなかったが、職員室も昔のままのように見えた。校長教頭席の前の机で、「英語TA」の外国人先生がなにやら教材を作っている。4階には、机も椅子もおかない「英会話教室」が設置されていた。

<つづく>


桜区
2008/09/13
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(8)桜区

 私が国語科教師をしていた中学校、30年ぶりの再訪。
 今の地名は「桜区」になっている。

 1年生は校外学習にでかけており、2年生と3年生が校内清掃をしている時間だった。各教室や理科室などを見て歩いた。

 中学生たちは、にぎやかにこづきあったりおしゃべりしながら、掃除をしている。
 廊下で「ぞうきんがけ競争」を始めている二人組がいるのも昔と変わらない。「ヨーイどん」で、廊下を2枚の雑巾がすっとんでいく。
 掃除をさぼってふざけ合っている茶髪中学生もいる。
 どこにでもある今時の中学校風景なのだろう。

 校内を歩いてみて、「なつかしい」という気もしないかわりに、離任式にすら来なかったほど「封印したい場所」「振り返りたくない場所」という所でもなくなっていた。

 「自分の心が弱かったので、逃げ出してしまった場所」であった中学校。
 もう、平気。
 私は弱かったけれど、弱いからダメだったのではない。

 30年前、私は中学校での仕事から逃げ出した。
 3年の中学校勤務ののち退職したとき、私はボロボロだった。
 ずっと、弱い自分を負い目に感じて引きずってきた。

 「弱くてもいいさ」と、今の私は開き直っている。
 弱くて逃げ出しても、ひきこもっても、それはそういう暮らし方であり、行きつ戻りつ、迷いつつそれでも人生は続いていくのだ。

 東京新宿の小学校。4月、希望に燃えて教職についた若い女性教師が、2006年6月、過酷な教育現場のなかで心を痛め自殺してしまった、というニュースを読んだとき、ああ、私は彼女の一歩手前だったのだ、と思った。

 女性教師の遺書には「無責任な私をお許しください。全て私の無能さが原因です。家族のみんな、ごめんなさい」と書かれていた。
 私もそう思っていた。「自分は教師として未熟であった」と。

 たった2ヶ月で、自分を「すべて私の無能さが原因です」と評するまで追いつめられた若い女性教諭の心は、どれほど傷だらけになっていたろうか。胸が痛む。
 新任2ヶ月目に死を選んだ女性教師。

 生徒の親たちは連絡帳に学級運営についての苦情を繰り返し書き込んだのだという。自殺を図る直前には「結婚や子育てをしていないので経験が乏しいのではないか」と攻撃されたそうだ。孤立無援だったのだろう、と思う。

<つづく>


池袋高田馬場
2008/09/14
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(9)池袋高田馬場

 私も、中学校の教師として「結婚や子育てをしていないので、経験が乏しい」教師のひとりであり、未熟な人間だった。

 でも、私の場合、私が発行した学級通信を読んで共感を寄せてくれる親もいたし、校長が私の学級をひっかきまわしたことを知り、なぜクラスがまとまらなくなったのか、理解してくれる同僚もいた。

 最初から「未熟でない」人などいないのだ。みな試行錯誤、迷いながら失敗しながら成長していく。
 だが、その渦中にあっては、自分の「未熟さ」ばかりが気になり、「未熟な中から成長していく自分」の姿は見えなかった。
 私もボロボロに追いつめられていたが、死なずに、退職を選んだ。

 3月に退職し、4月に母校に戻ったとき、たった3年でキャンパスの雰囲気があまりにも変わっていたのでびっくりした。

 3年の間に「学園闘争の時代」は収束し、「無気力・無関心・無責任」という三無主義の時代に変わっていた。

 卒業から3年たったスロープは。
 数年前にはスロープを通れないほどあった「タテカン」がほとんどなくなり、「ワレワレワー、日帝とアメリカ帝国主義者ドモノー、オーボーをテッテイテキニー」などと、がなっていたアジ演説のハンドマイクもない。

 スロープをのぼるほんの短い間につかみきれないほど手渡されていた「アジビラ」、アジテーションペーパーも、なくなっていた。

 2度目の大学生活は、1度目とちがい、しっかり勉強できるキャンパスだった。
 2年間、昼、教室に通い、夜、予備校や塾で働いた。
 私が働いていた予備校は池袋にあったけれど、つぶれてしまった。池袋駅東口を出てサンシャイン60ビルの手前にあった。

 2度目の学生生活では、中学校でやって楽しかった演劇をもっと勉強したいと思った。
 演劇学専攻の大学院研究生。
 河竹登志夫先生の授業、郡司正勝先生の授業、、、、 演劇研究、楽しかった。

 舞踊論の市川雅先生のご自宅で開かれる研究会に参加し、演劇論や舞踊論を、ビールを片手に夜まで話し続けた。
 ちょうど、第一回目の舞踊学会を開催したころで、先生も新進気鋭の学者としてお元気だった。

 演劇や舞踏ダンス公演も、先生に招待券をゆずっていただき、たくさん見ることができた。

 先生のお宅へは、高田馬場から一駅地下鉄に乗って、落合で降りるか、西武線で中井で降りて歩く。
 先生が97年に亡くなられて10年、今、お宅は残されているのだろうか。

<つづく>


赤道の国の冷たい水・ナイロビ
2008/09/15
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(10)赤道の国の冷たい水・ナイロビ

 人生の一時期をすごしたあの場所この場所、第一番に再訪してみたいのは、ケニアだけれど、果たせないでいる。
 帰ってみたいなあ、アフリカの大地に。

 演劇人類学、民族芸能学をめざし、ケニアでフィールドワークをするつもりで、ナイロビに行った。
 ナイロビは、マサイの人々のことばで、「冷たい水」を意味する。赤道直下ではあっても、高原の都市なので、すごしやすい町だ。

 従姉妹が海外青年協力隊員としてケニアのハイスクールで理科教師をしていたから、まあ、従姉妹が暮らしている国なら、たとえライオンに食われてしまったとしても遺骨引き取りくらいはしてくれるだろうと思ったのだ。

 1979年、7月ケニアのナイロビに着いたその日に迷子になり、元新聞記者の日本人に出会った。親切な日本人(と、その時は思った)は、街を案内してくれた。

 町中を一人歩きできるようになって、ボーマスオブケニアというところで、アフリカンダンスを習った。
 1979年から1980年まで、私にとっては「アフリカの光」に満ちあふれた日々だった。

 『熱中時代』というテレビドラマのエキストラとして浅野順子といっしょにテレビに出演したり、野生動物を追ってジープを走らせたり、若くて元気で、赤道直下の太陽を思う存分浴びた日々。

 ゲームパーク(野生動物保護区)には、ナイロビナショナルパークへも、アンボセリパークへも、ツァボパークへも、仲間とジープをチャーターして出かけていった。
 縞馬、きりん、ガゼル、河馬もヒヒも、チーターも、自然のままに暮らしている動物たちの群れを間近に見ることができた。

 ナクル湖では何百万羽のフラミンゴの群に出会った。今は、自然が変わって、私がみたほどのフラミンゴの群は、アフリカにもいなくなっているという。
 トゥルカナ湖では、船をチャーターして大きな魚を釣り上げた。

 マサイマラでは、「気球に乗って空から動物を見る」という経験もした。一生のうちで、気球に乗ったのはこのとき一度だけだ。

 マサイ族の土の家に泊まったり、キクユ族やソマリ族の家にホームステイをして、スワヒリ語以外のことばも習ったが、わずかにスワヒリ語を覚えているだけで大半忘れてしまった。
 ナイロビの1年間は、別の機会にゆっくり書いてみたいと思っている。

<つづく>


野ばらロードムービー
2008/09/16
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(11)野ばらロードムービー

 ナイロビ最初の日に町案内をしてくれた人とは、他の旅仲間といっしょにタンザニア国境の町へいったり、アフリカ東海岸の町モンバサや、私の従姉妹といっしょにインド洋の小さな島、ラム島へ行ったり、いっしょに旅を続けた。

 帰国後も、彼とは1年間、旅仲間として交際した。
 1年たつと、旅仲間からステディフレンドに変わっていた。

 娘には、「お母さん、若い頃はかわいかったんだから、もっとマシな人つかまえられたでしょうに、選択まちがえたわね」と、責められている。はい、あんたのお父さんをつかまえてしまいました。

 旅仲間たちといっしょにもう一度アフリカへ出かけることになり、アフリカ縦断のためにジープを共同購入することになった。
 その費用をかせぐために、地方の小学校を回る劇団に入り、ミュージカル女優として舞台に立った。

 私が舞台にたったのは、小学校の学芸会以外にない。
 中学校で演劇部の指導をした、ナイロビでエキストラとしてテレビドラマに出演した、という経歴だけで、なぜ私を客演女優として採用してくれたのか、今でも不思議におもっているけれど、オーディションもせず、発声を聞くことすらせず、団長は「あ、じゃ、芝居の稽古は4月からです」と、あっさり決めた。

 「演劇で食っていく」生活はきつかったが、楽しかった。たぶん、11回の転職のうち、ひとつのものに戻っていいと言われたら、女優を選ぶだろう。
 才能がなかったことは承知しているけれど、演劇大好きだった。

 劇団のばらの客演女優。
 ワゴン車に舞台装置や衣裳を積み込み、スタッフの運転手兼演出兼音響係りと私をふくめ7人の役者が、夏の盛りを九州と北陸の小学校の体育館を巡演した。

 私が参加したのは、蓑田正治作『小さな虫の大冒険』(昭和54・57・58年度/文化庁助成公演)という「こどものための創作ミュージカル」
 歌って踊って、楽しい子どものためのミュージカル、「虫たちの養母かまきりおばさん」という役だった。

 今でも、このときの歌が歌える。
 「♪オレたちゃ虫さ、小さな虫さ、けれどもでっかい夢がある〜 青いはるかな空めざし、飛ぶんだとぶんだどこまでも 胸のふるえをときめきを 歌おううたおうどこまでも この小さな命をかけて〜♪」

 野ばらが現在上演中の『虫たちのファンタジー』という作品は、たぶんこの『小さな虫の大冒険』をアレンジしたものだと思う。
 劇団野ばらHP http://www.gekidannobara.com/

<つづく>


一期一会
2008/09/17
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(12)一期一会

 劇団野ばらの巡回公演で出会った森下由美さんのことは、何度も書いてきた。
 いまでもコントトリオ「だるま食堂」のリーダーとして演劇を続けている由美さんは、私に、「一期一会」を身に染みるよう教えてくれた人。

 夏の日盛りの公演、みんな疲れ切っていたとき、由美さんは、私たちを鼓舞してくれた。
 「疲れているのはわかるけれどさ。私たちにとっては、この小学校の公演は長い巡演のひとつにすぎない。でも、ここの小学校の子どもたちにとって、この演劇教室で見る劇が一生で初めて見る生の演劇かもしれないじゃない。小学校時代の心に残る劇にしてやろうよ。一生の思い出にしてやろうよ」

 週5日、90分授業を10コマこなす今の私の授業。
 疲れているとき、ダレそうになると、由美さんのことばを思い出す。
 この授業での学生とのやりとりは、一生に一度の出会い。
 私にとって毎年同じ授業だけれど、はじめて日本語を学ぶ留学生にとっても、日本語教育を学ぶ日本人学生にとっても、一生に一度の授業なのだ。

 野ばらの小学校巡回公演、ワンクールの公演が終わったとき、妊娠していることがわかった。
 私のアフリカ行きは中止。

 仲間たちは皆が働いて積み立ててきたお金でジープを買い、アフリカに出発した。私の出資分200万円のうち、20万円だけ返却された。

 お金も仕事もまったくない状態で、結婚し、出産した。
 貧乏のどん底生活がはじまったが、このころは、それを苦労とは思うヒマがないくらい、余裕のない毎日だった。

 4月に娘が生まれ、そのあと1年間は、ライターとして毎月連載記事1本。400字原稿用紙1枚5千円で、一回4枚に各地の昔話や伝説をまとめる仕事だった。
 はじめて原稿料をもらう仕事で楽しかったけれど、図書館で調べものをしたりする手間暇考えても、1ヶ月2万円の収入では、食費にも足りない。

 結婚以来、家族を養う余裕のない夫に黙って、ときどき父に援助をしてもらっていた。乳飲み子をかかえて、私は働きに出ることもできないのだから、父にたよることしかできなかった。

 夫は、私が父にたよったことでひどくプライドを傷つけられ、腹をたてた。腹をたてても、収入はわいてこない。
 私がパートなどで働くことも、夫の気にいらない。「自分に稼ぎがない」ということを私の父に見せつけるようなものだから。

 じゃ、どうすればいいの。
 よい方法を思いついた。大学に入って奨学金をもらおう。
 「妻を大学に入れて学ばせる」これは、夫のプライドを傷つけない、よい案に思えた。
 
<つづく>


新大久保
2008/09/18
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(13)新大久保

 自宅から自転車で20分のところにある国立大学に日本語学科が新設され、日本人学生募集のお知らせが新聞に載った。外国学部に新設された学科で、日本語学と日本語教育学を専攻する。
 「大学を受験したい」というと、夫はあっさり「いいよ」と言った。

 元教師といっても、10年も勉学の場から離れていたのだ。受験したところで、35歳の子育て中の母親が、18歳19歳の受験生といっしょに1次筆記試験、2次筆記試験を受けて国立大学に入学できるはずはない、と、夫は思ったので、OKしてくれたのだ。

 でも、運命の女神は、ときに気まぐれもおこす。
 1000人の受験者から1次試験「数学・英語・国語」によって100人が残された。その中に残ったことだけでも「すごいマグレ」と、思っていたけれど、100人のなかから20人選ばれる2次「英語・国語・日本史」も、パスした。

 日本語学科合格者20名の中に私の番号を見つけたとき、ああ、奨学金で娘の食べるものを買ってやれると思った。

 3度目の大学生活は、結婚後、娘が2歳のときにはじまった。
 娘を区立保育園に預けることができ、4年間、日本語学と日本語教育学を学んだ。
 アフリカ縦断旅行の夢を断たれたかわり、「アジアやアフリカで日本語を教える仕事につきたい」という夢がふくらんだ。

 3年生の冬、1988年に第1回日本語教育能力試験(日本語教師試験)に合格し、4年生の4月から日本語教師の仕事をはじめた。
 最初につとめた日本語学校は、新大久保の駅から徒歩5分。ほとんどの就学生が「就労」めあてで、日本語を覚えるより働くことを目的として日本語学校に籍をおく「アジアン出稼ぎ人」たちが集まっていた。
 私が勤務した池袋の予備校もつぶれてしまったが、この新大久保の日本語学校も閉鎖されている。、

 夫が自営する校正会社の仕事も手伝い、なおかつ日本語教師として働きはじめたのは、夫の会社は、赤字続きで、仕事をすればするほど借金が増えていく会社だったから。

 夫にとってたとえ利益がでなくても「自分で会社を経営している」ということがプライドだとわかっているから、妹が、「利益がない会社などやめて、どこでもいいから会社に働きに出て、子どもの食い扶持くらい稼いでくるのが男でしょ」と憤慨しても、そんなこと夫には言えなかった。

 夫には「もともと結婚する予定の人生ではなかったのに、娘が生まれたために、人生がかわってしまった。海外で写真をとって歩くフォトジャーナリストになるという夢を失った」という気持ちがある。

 「家庭を捨てて海外へ逃げたい、と何度も思った」と、夫は言う。
 今も、「65歳になったら、タイへ行って一人暮らしするつもり」という。語学学校に通って、タイ語の学習を続けている。

 どうぞどうぞ、タイだろうと北極だろうと火星だろうと、行きたいところへ、おひとり様で。

<つづく>


都電荒川線

2008/09/19
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(14)都電荒川線

 大学4年生の秋、息子が生まれた。子どもが乳飲み子では、日本語教師の仕事が続けられない。非常勤講師は、子どもが熱を出したりしても、休むことができないからだ。

 子どもが元気なときは保育園で預かってもらえるが、病気になったとき、どこも預かってくれるところがない時代だった。
 子どもを預けるのに一番頼れるはずだった母親はもう死んでいる。

 日本語教師の仕事は中断し、夫の会社の仕事をしつつ、大学院へ行くことにした。
 またまた、目的は奨学金。
 大学院で受けられる育英奨学金は、学部の2倍でるから、子どもがふたりになっても食べていくくらいなんとかなるだろう。

 大学院入試、1次筆記を無事に通り、2次の面接のときは、背中に息子をおぶって行った。面接の間だけ夫がだっこしていてくれた。
 夫が子育てに協力したのは、後にも先にも、このときただ一度だけ。だっこ20分間のみ。
 あとは、おむつを一度たりとも替えたこともなく、家事をしたこともない。
 大学院合格者のうち、成績一位の人は国費留学生だったので、もともと入学金授業料は必要ない。二位の人は入学金授業料が全額免除になった。私は3位だったので、入学金授業料が半額免除になった。助かった。

 夫の仕事を手伝いながら、家事と娘息子の育児を孤立無援でやりながら、大学院へ自転車通学。
 雨の日は最悪だった。自転車が乗れないと都電とバスを乗り継がなければならない。
 雨のバス停留所。保育園のお迎え時間を気にしながら、女子高校生がおしゃべりをしながら長い列を作っている最後尾につく。

 ええい、あんたたちはヒマなんだから、私を優先的に乗せてよ、保育園のお迎え時間に遅れると、保母先生からしかられるんだよ!と、叫びたいときもあった。

 息子がまもなく2歳というころ、夫から「会社は倒産寸前だから、もう手伝わなくてもいい。日本語教師をして現金を稼いできてくれ」と言われたので、日本語教師の仕事を復活した。

 娘が小学校に入学すると、学童保育にも入れたので、二カ所の保育園を回って仕事に出かけた頃に比べるとだいぶ楽になった。

 息子を月曜日から金曜日まで保育園に預け、仕事をした。娘は小学校3年生から台所を手伝ってくれるようになり、4年生からは保育園のお迎えも引き受けてくれた。娘はどこに遊びに行くときも、必ず小さい弟の手をひいて出かけた。
 息子にとって、おねえちゃんは、一生「保護者」で、頭があがらない存在だ。

<つづく>


自転車3人乗り
2008/09/20
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(15)自転車3人乗り

 子どもたちが保育園小学校のころ、休みの日ごとに、近所の公園や荒川土手へ自転車に乗せて遊びにでかけた。
 最初は前の座席に息子を乗せ後ろの座席に娘を乗せていたが、娘が小学校に入ると自分で自転車に乗れるようになり、だいぶ楽になった。

 土手でたこ揚げをしたり、シロツメクサの冠をつくったり、タンポポの綿毛を吹き飛ばしたり、ただ流れる雲をながめていたり。端から見たら、のんびりゆったりとした親子に見えただろう。

 あそんでいるとき、中年の女性に声をかけられたことを覚えている。
 「お子さんと遊べていいわね、子どもが小さいうちはたいへんなことばかりでしょうけれど、いっぱい遊んで楽しんでね。苦労と思っていることは、あっという間に終わって、子育てがすぎてしまえば、さびしいものよ」

 もう、子育てがすぎ、子どもたちが大きくなってしまったお母さんなのだろう。
 「はい」と、わけもわからぬまま、返事をした私だったが、心のなかは、子育てが楽しいように見えたことで、なんだか不満だった。

 「もう、楽しんで遊んでいるわけじゃないよ。早く早く子どもには大きくなってほしい。今のこの目が回りそうな忙しい生活がいつまで続くのか。
 自転車の前後にふたりの子を乗せて走り回らなければならない母親の苦労、わかってもらえないのか。みなには、子育てが楽しくてたまらないように見えているんだろうか。こんな苦労ばかりなのに。ああ、つらい」

 先日、区役所前の交差点で、自転車4人乗りの母親を見かけた。背中に赤ん坊をおんぶし、自転車の前籠座席に小さい子を、後ろの座席に上の子を乗せている。
 思わず声をかけた。

 「私も子育て中は保育園の行き帰り、自転車3人乗りで走ったので、そうやってお子さんといっしょに自転車に乗っているようすをみると、子育てがんばって、と応援したくなります。自転車、気をつけてね」

 交差点が青になると、若い母親はにっこり笑って走っていった。
 信号が青に変わる前に、言いたかったことがもうひとつあったのだけれど。

 「子育て中、子どもが小さいうちは、たいへんなことばかりでしょうけれど、苦労する期間はあっというまにすぎてしまうから、お子さんが小さいうちの時間を楽しんでね」

 言わずに通り過ぎてしまったけれど、もし言ったら、あのお母さんも「子育て中の苦労を何もわかってくれない、子育てを楽しんでねなんて、子育ての苦労がすぎた人が言う事よ」と、反発を感じたのかもしれない。

<つづく>


中国
2008/09/21
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(16)中国

 日本語教師として働きながら大学院をようよう修了した。優秀な人は2年で修了する修士課程に、4年かかった。
 修士論文を仕上げるときは死にものぐるいだった。

 結局、35歳での外国語学部日本語学科入学から、大学院修了まで8年かかった。
 大学院の卒業式には、娘が出席し、「保護者席」に座った。9歳の娘は、誰よりも母の門出を祝ってくれた。


 大学院を修了しても、就職先はなく、日本語教育通信講座のスクーリング講師などで糊口をしのいだ。

 娘の記憶では、小学校時代は、ただただ、貧乏をからかわれることがつらくて悔しかったそうだ。いつも従姉妹たちのお下がりの服を着せられて、流行遅れのキャラクターがついているTシャツを笑われたりする。

 娘が大学生になったころ、ようやく娘は、思い出話ができるようになった。
 「ビンボービンボー」と、はやされることがとてもいやだったけれど、学校でからかわれていることをお母さんに言うと、お母さんはもっとつらくて、もっと忙しい思いをするだけだろうから、言えなかった、と。

 戦後の日本全体が貧乏だったころのことは、年寄りがよく思い出話に語る。みんなが貧しかったのだから、苦労話も今となれば、よい思い出話に聞こえる。
 でも、娘が「ビンボー」と、からかわれたのは、日本中がバブル景気に沸き、ブランドものの服や靴、高価な文房具をクラスのなかで自慢しあっていたような時代のこと。

 でも、このころ、私は毎日の生活に追われていて、娘がつらい思いを抱えていたことに気づいてやれない母親だった。
 スポーツが得意で、手先が起用で、テストはいつも100点。クラスのなかでリーダー格の娘は、だれよりも小学校生活を楽しんでいると思っていた。

 1994年、娘が小学4年生の冬、「お母さん、仕事で中国へ行くことになったんだけど、子どもは連れていけないって言われたんだ。お母さんの仕事が終わるまで、モモおばちゃんの家で暮らせる?転校して大丈夫と思う?だめならお母さん仕事あきらめるから」

 私の気持ちをいつも先回りして答える娘は「うん、いいよ。大丈夫。転校してみたかったんだ」と、答えた。
 息子は保育園年中から年長の半年、娘が4年生の冬から5年生の夏休み前まえまで、田舎の実家で預かってもらうことになった。

<つづく>


めぐりあう時間たち
2008/09/22
ぽかぽか春庭やちまた日記>私がいた場所(17)めぐりあう時間たち

 単身赴任が条件の中国での仕事。
 夫は「中国でもどこでも、行くのは勝手にしたらいいけれど、僕は子育てなんかできるはずないから、子どもをおいていくなら、児童施設に預けるよ」と、言った。
 父と妹夫婦が預かってくれることになり、私はようやく大学講師として日本語を教えるチャンスを得た。

 夏休みに、妹に連れられて、娘と息子が中国へ来るまで、半年間親子離れてすごしたこと、娘には2度の転校でたいへんな思いをさせてしまった。

 中国再訪。2007年3月から8月まで、半年間中国でもう一度仕事をするチャンスに恵まれた。
 再訪した中国は、経済発展にわきかえり、昔とは様変わりしていたが、私にとっては、なつかしい、なつかしい土地だ。

 人生をすごした場所の再訪、中国編は、2007年3月〜9月の「中国通信」に書いたので、ご覧あれ。

 群馬、埼玉、東京、ケニア、中国、、、、
 私がいた場所、どこもわたしにとっては、忘れがたい場所。
 夢中ですごしてきた日々。

 来年、還暦を迎えるなんて信じられないけれど、これまですごした場所をひとつひとつたどっていくと、たしかに私はこの年月をこうやって一歩一歩、歩んできたのだと思い出す。

 結婚以来、貧乏生活が続き、髪は白髪になったし、なんだか顔も貧相になった気がするけれど、私はこの年月を悔やんではいない。
 貧しいなか必死の子育て、せいいっぱいの生活をすごした、それが私の人生だった。

 プロフィール蘭にのせている春庭、人生かぞえ歌
ここのつとせ:9月の生まれで乙女座です

とおとせ:引っ越ししたのは10回で、群馬で育って東京で学び、埼玉で中学国語科教師。ケニアで夫に巡り会い、埼玉で子育て東京へ引っ越し、主婦学生に。中国で教えて東京に戻る。今年再び中国へ。東京に帰り暑さにまいった。

11とせ:転職したのは11回。地方公務員を皮切りに、病院内科検査技士、英文タイピスト、役所事務、国語教師に予備校講師、劇団女優のドサ回り。編集助手にフリーライター、校正補助に日本語教師。日本語教師は20年、いちばん長いが儲からず。教えた学生の国籍は、世界中に百ヶ国。

 2008年9月、59歳になりました。
 来年還暦。

 自分が60歳なんていう「年寄り」になることがあるなんて、想像もしていなかった若い頃。
 思っても見なかったけれど、やっぱり年寄りになりました。

 白髪と皺は、人生の勲章。
 まだまだ生きていきます。

 私の晩年は、あと40年も続く。
 私は長寿のはずだ!!美人薄命というなら、不美人長命でなければ割が合わない。

<おわり> 


 


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