2 - 2 - 4 クラゾメナイ式


 Wild Goat Styleの消滅と入れ替わるように、クラゾメナイでも黒像式が生産された。やや遅れて登場した陶棺が初期においてWild Goat Styleの要素が強く残っていたのに対し、黒像式陶器にはその影響はあまり見られない[1]。陶土は茶色く、アッティカよりもやや明るい。白い化粧土は初期にのみ上塗りされた。紫や白はアッティカよりも自由に用いられている。

 チュービンゲングループを初めとする初期の陶器は肩に縦ではなく横に把手のついたアンフォラや、ピュクシス、クラテルなども作られた。その陶器にはほぼ前面に装飾が施され、胴部のメインの画面には手をつないで一列に並ぶ女性が好んで描かれ、しばしば楽士が伴うことから踊りの場面と考えられる。頚部や肩などそれ以外の部分にはスフィンクスやセイレーンなどがフリーズ状に描かれ、またフィケルラの特徴である三日月文が描かれたが、白と紫で交互に塗られることが多い。出土はクラゾメナイ、ナウクラティスなどで、六世紀の中頃に位置する。

 これに続くPetrieグループは細身のアンフォラを好み、フィケルラのものよりも頚部と口縁部が太く、胴部が長い。装飾は頚部の両側に動物が一体ずつ描かれ、胴部には行列する女性たちを描くことが多く、サテュロスやマイナスなども描かれた。その下には動物などがフリーズ状に描かれるがいずれもずんぐりした体躯である。クラゾメナイからの出土は少なく、テル・ダフネやナウクラティスからが主で、年代は540年頃から520年頃に位置づけられる。

 ほぼ同時代のUrlaグループは卵型の胴部を持つアンフォラを好み、構図もフリーズで画面を分割するのではなく、胴部に大きなパネル上の画面を配している。頚部には巨大なひまわりのようなパルメットが描かれ、胴部にはキルケとオデュッセウスやオイディプスとスフィンクス、プロメテウスを縛るヘファイストスなど神話も描かれた。

 これにやや遅れるKnipovitchグループも全体的な構図は似ているが、画題は有翼の馬の前半身か、単純にうろこ状の文様が描かれるかすることが多い。両グループとも黒海地方からも出土している。

 これと同時代でありながらEnmann Classはこれまで述べた画家やグループとは異なる様式を持つ。その最大の特徴は白をほとんど用いない点で、器形は卵型のアンフォラのほかヒュドリアやオイノコエ、アスコスなども作っている。アンフォラの場合装飾は唯一胴部のパネル状の画面にのみ施され、画題はコマストやサテュロスなどのほか、セイレーンやスフィンクス、山羊、タコなど様々であった。クラゾメナイからの出土は極めて少なく、ベレザンなど黒海地方からの出土がほとんどであるため、この地方で作られた可能性もある。

 これにやや遅れるKnipovitchグループも全体的な構図は似ているが、画題は有翼の馬の前半身か、単純にうろこ状の文様が描かれるかすることが多い。両グループとも黒海地方からも出土している。これらのほか、大量生産されたのが単純に鱗の文様を描いたアンフォラで、六世紀の末まで作られた。

クラゾメナイ式陶棺 (Sarcophagus)

 クラゾメナイではこうした陶器にほかに陶棺にも装飾が施された[2]。装飾はその上面の縁の部分に施され、まれにその側面などにも描かれた。陶土は粗く、茶色っぽくて、外面の表面は粗いままだが、内面は滑らかにされて黒く塗りつぶされることもあった。装飾が施される上面にはクリーム色か黄色がかった化粧土が上塗りされた。装飾に用いられたのは陶器と同じ黒い色彩だが、その大きさから焼成にむらができて、赤く変色することもあった。

 初期の例(Monastirakia type)では縁の幅が8-9cm程度で、装飾もシンプルな波状文か、後にはメアンダー文や卵鏃文などのみであった。次いでBorelli Painterによって変更が施され、陶棺の縁は開口部の四隅で内側に突き出し、その部分に側面と上下面の装飾を分けるフリーズ状の文様が描かれた。彼もその初期には簡素な装飾のみを描いたが、上下面にWild Goat Styleに近い動物像を輪郭線描写によって描くようになった。さらにその上面に人物像を描くようになると、その部分の幅と高さが拡張され、陶棺自体が台形に変更された。

 同じ陶棺であっても、人物を描く部分には見られない空間充填文が動物の画面には数多く見られ、それらは馬蹄形や十字の文様など明らかにWild Goat Stlyeのものである。一方人物像は黒像式に近いものであるが、刻線の代わりに白く細い線が用いられている。構図は左右対称になっていることが多い。明らかに神話と分かる図像は少ないが、出陣の場面などに有翼の人物を描く例がしばしば見られる。

 Altenburg Painterの場合、上辺の幅が更に広くなり、その様式もアッティカに近づいてくる。また彼は赤像式の手法を取り入れ、白地に塗った部分に黒で輪郭を描き、その周りを塗りつぶすことで赤像式と同じ効果をねらったが、白と黒のコントラストが強すぎるためかあまりうまくいっていない。彼の後にはHopkinson Painterなどが続いたが、その描写は雑になり、その後その生産自体が途絶えてしまった。

 出土のほとんどはクラゾメナイかその周辺地域だが、ロードス島のカミロスやイアリュソス、あるいはエフェソスなどからも出土している。その状況や様式からクラゾメナイがその製作地であろうと考えられている。年代的にはBorelli Painterの活動が540年前後には始まっていて、末期のHopkinson Painterは五世紀の第二四半期まで活躍した。

[1] クラゾメナイの黒像式陶器の基礎研究は、Cook, R. M. "A List Of Clazomenian Pottery", BSA 47 (1952) pp.123-152、またその後のスミュルナ出土の例については、Cook, J. M., "Old Smyrna" BSA 60 (1965) pp.114-153参照。
[2] クラゾメナイの陶棺については、Cook,R.M. "Clazomenian sarcophagi, Kerameus 3" (1981)参照。