3 - 1 - 2 開拓者たち


 赤像式はその誕生からわずか十数年後には、開拓者たち(Pioneers)と呼ばれる画家たちによって急速な発展を遂げ、先に述べた赤像式の可能性を十分に発揮することになる。その構成の複雑さはそれまでの時代とは比べものにならないものだし、一つひとつの像をとっても解剖学的にきわめて細かな表現がなされていて、これまでほぼ定型化していた、顔は横向き、肩は正面、腰から下は横向きという姿勢を打破し、時には四分の三正面向き、果ては正面や背面の表現さえ試みられている。また画面を区切るパルメットやロータスなどの文様もアンドキデスの画家は黒像式のものをそのまま用いていたが、赤像式特有の文様が次々と生み出された。以下は主にクラテルやアンフォラなど大型陶器を得意とした画家と、キュリクスなど小型陶器を得意とした画家に分けて述べる。

大型陶器の画家

 赤像式を確立した、この時代を代表する画家がエウフロニオス(Euphronios)である[1]。彼の傑作のひとつであるメトロポリタン美術館所蔵のカリュクスクラテル(newyork1972.11.10)を見ると、アンドキデスの画家の時代からどれほど発展しているかは一目瞭然である。ここに描かれているのはホメロスの謳うイリアスの一場面で、サルペドンの遺体をタナトスとヒュプノスが戦場から運び出す場面である。赤像式誕生当時のあのぎこちない人物の表現に比べ、ここではここの像がなんと生き生きしていることか。まさに赤像式の可能性を十分に生かし切った作品といえ、よく見るとまつげの一本にいたるまで細かく描かれているのである。

 もう一つ彼の傑作といえるルーヴル美術館所蔵のカリュクスクラテル(louvreG103)では、ヘラクレスとアンタイオスの場面が描かれていて、その解剖学的表現には目を見張るものがある。しかしそれよりも、ヘラクレスに締め付けられて弱りかけたアンタイオスの表情や、力無く垂れた腕など、この画家の表現力の豊かさを思い知らされる。またミュンヘン古代美術館所蔵のキュリクスでは、画面が小さいため迫力も精確さにも欠けるが、さらに複雑な構成を導入し、複雑に絡み合う像を混雑することなく描き分けることに成功している。なおこの画家の活動は十年から二十年ほどであったが、その後は陶工として活動を続けた。

 わずかに彼より年少で、ほぼ同じ時代に活動し、彼のライバルでもあったのがエウテュミデス(Euthymides)である(図1)[2]。彼がエウフロニオスを意識していたことは、ミュンヘン古代美術館所蔵のベリィアンフォラから明らかである。この陶器には三人の人物が描かれているが、それぞれ複雑な姿勢をしており、特に中央の人物は背中を見せるというこれまでにない姿勢で表現し、その隣には「エウフロニオスには決してできまい(hos oudepote Euphronios)」と記してある。



図1

 しかし確かにその描写は優れているけれども、エウフロニオスの持つ迫力には及ばない。この画家の傑作のひとつが同じミュンヘン古代美術館所蔵のベリィアンフォラ(munich2309)で、ここに描かれているのは幼少のヘレネを連れ去るテセウスの場面であるが、ここでは誤ってヘレネにコロネの名前が、侍女コロネにヘレネの名前が記されている。優れた画家であることには間違いないが、一瞬をとらえるエウフロニオスの迫力にはとうてい及ばない。

 その他の大型陶器の画家で重要なのはフィンティアス(Phintias)であろう[3]。ルーヴル美術館所蔵のベリィアンフォラ(louvreG42)はエウテュミデスのものに近い構成でティテュオスに連れ去られようとしているレトが描かれているが、ここで注意すべきは、エウテュミデスのヘレネが抵抗する風でもなく連れ去られているの対し、レトは何とか逃れようと相手の手をつかみ、体をひねって抵抗していることである。

小型陶器の画家

 プシアクスなどの跡を継いでキュリクスを中心に描いたのがオルトス(Oltos: 図2)であり、その活動期は525-500年頃である[4]。ただ彼もキュリクス専門ではなく、ニコステネス式のアンフォラや、この時代になって発明されたスタムノスにも描いている。旧キャッスル・アシュビー所蔵のキュリクスはこの時代の特徴のひとつで、外面を赤像式で、内面のトンドを黒像式で描いている。画面が小さいこともあるが、その表現はまだぎこちなさが残る。彼の傑作のひとつがタルキニア国立博物館所蔵のキュリクスである(tarquiniaRC6848)。ここに描かれているのはオリムポスに集う神々であり、やはり描写はぎこちないけれども、それぞれの神の特徴をうまく描き出している。



図2

 彼と同じくバイリンガルのキュリクスを描いたのがエピクテトス(Epiktetos)である[5]。その活動はオルトスにやや遅れて520年頃に始まり、五世紀の初頭まで活動した。大英博物館所蔵のキュリクスはバイリンガルの例である。これは彼の初期の作品のひとつであり、まだ描写はぎこちない。しかし同じ大英博物館所蔵のプレートは完全な赤像式で、画面が大きいことも手伝って、前者とは比較にならない自由で自然な描写が見られる。彼の作品はキュリクスを中心に数多くが現存している。

 この時代には他にもやや劣る画家が数多く存在した。その中で名前を挙げるとすればニコステネスの画家(Nikosthenes Painter)であろうか。その名前からわかるとおり彼は陶工ニコステネスとともに活動し、キュリクスなどの他ニコステネス式ピュクシスなど特異な器型の陶器にも描いている。しかしその描写はやはり二流であった。京都ギリシア・ローマ美術館所蔵のキュリクスを描いたのがエウエルギデスの画家(Euergides Painter)で、スフィンクスの翼などには依然として刻線の使用が認められ、この画家が赤像式初期の時代に属していることを物語っている[6]。またパシアデスの画家(Pasiades Painter)のアラバストロンは白地が用いられた初期の例であり、黒の背景の中に像を浮き出たせるのとは異なる、古典時代になって花開く、より絵画的な白地の持つ可能性をここに見ることができる。

 この時代の最後に位置し、現存する作品はわずかではあるが、ギリシア陶器の中でも傑作のひとつに数えられる陶器を描いたのがソシアスの画家(Sosias Painter)である。ベルリン古代美術館所蔵のキュリクス(図3)は500年頃のもので、その内面には怪我をしたパトロクロスを治療するアキレウスが描かれている。この陶器を傑作としているのは両者の表情にある。これまでの赤像式では、顔は横向きでも目は正面から見た状態で描かれていた。しかしここでは、目も側面から見た状態、つまり一端が開いた状態で描かれ、瞳もその方向に寄っている。この目の表現は後の古典時代の特徴を先取りしたものである。またパトロクロスの食いしばった歯や、痛みに突っ張った足などその表現力は優れたものであり、衣服や鎧などの描写も精確である。この陶器を境に赤像式はひとつの転換期を迎える。



図3

[1] エウフロニオスについては、Klein. W., Euphronios, 2nd edn., (1886), Rasponi, S., Capolavori di Euphronios: un pioniere della ceramografia attica, (1990), Wehgartner, I. (ed), Euphronios und seine Zeit. Kolloquium in Berlin 19. /20. April 1991, (1992), Frel, J., "Euphronios and his fellows", in; Moon, W. G. (ed.), Ancient Greek art and iconography, pp.147-158, (1983), Johnson, F. P., "Oltos and Euphronios", Art Bulletin 19, pp.537-560参照。
[2] エウテュミデスについては、Hoppin, J. C., Euthymides and his Fellows, (1917)参照。
[3] フィンティアスについては、Jones, S., "Two vases by Phintias", JHS 12, pp.366-380, Hauser, JdI 10, pp.108-113参照。
[4] オルトスについては、Bruhn, A., Oltos and early red-figure vase painting, (1943), Johnson, F. P., "Oltos and Euphronios", Art Bulletin 19, pp.537-560, Robertson, M., "Oltos's Amphora", OJh 48, pp.107-117参照。
[5] エピクテトスについては、Kraiker, W., "Epiktetos:eine studie zur archaischen Attischen malerei", JdI 44, pp.141-197, Rouillard, P., "Le peintre d'Euergides", RA 1975, pp.31-60参照。
[6] エウエルギデスの画家については、Beazley, J. D., "A note on the painter of the vases signed Euergides", JHS 33, pp.347-355参照。