60年代通信 HOT TOPICS


昭和30年代
TVヒーロー全盛期の幕開けを飾った「月光仮面」

 「おもいっきりテレビ」(1999年2月24日放送)
 “今日は何の日”が「月光仮面」のエピソードを紹介

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 先日、市川市のMさんから、日本テレビのお昼の人気番組「おもいっきりテレビ」の中の“今日は何の日”というコーナーで、「月光仮面」が登場した時のエピソードが紹介され、非常に興味深い内容だった、というEメールを頂戴しました。
 番組の中でも言及されていましたが、「七色仮面」や「アラーの使者」、「少年ジェット」や「まぼろし探偵」、「怪傑ハリマオ」や「ナショナルキッド」、さらには、時代ものの「白馬童子」や「風小僧」「隠密剣士」などにいたるまで、昭和30年代の華麗なるTVヒーロー全盛期は、この「月光仮面」によって、幕が切って落とされたことは、紛れもない事実であります。
 Mさんからは、お録りになったビデオをお送りいただいた上、番組の中の解説ナレーションまで、全て原稿に起こしていただきましたので、その「おもいっきりテレビ」の“今日は何の日”をホームページで再現させていただきながら、私なりの思いなども合わせて書かせていただくことにいたします。
 例によりまして、私の能書き部分は、斜体文字にしますので、うざったい能書きなど読みたくない、と思われる皆さんは、斜体文字部分は飛ばして、ご覧いただければと思います。
 よろしくお願いします。


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ナレーション

 今から41年前の昭和33年2月24日は、月光仮面がはじめて放送された日でした。


 昭和30年代。

 公園や裏通り、神社の境内などは、まさに子供たちの天国。

 子供たちの娯楽の主役は、紙芝居と漫画、

 その主人公になったつもりのチャンバラごっこが大きな楽しみ。

 そんな中にさっそうと登場したのが、月光仮面。

 日本ではじめてのテレビヒーローです。
《主宰者から》
 いきなり、失礼いたします。
 確かに、昭和30年代の前半は、公園や神社仏閣の境内は言うに及ばず、裏通り…どころか、表通りも含めて、家の回りの空間は、すべて、子どもたちの遊び場でありました。
 ナレーションでは、その主役は「紙芝居と漫画」、とありましたが、私としては、そこに、「メンコ、ビー玉、カンけり、かくれんぼ,、ホームラン野球」なども、是非、入れていただきたいと思うわけであります。それぞれの遊びに入り込んでいくと、また、長くなってしまいますので、そういう話は別項でということにしますが、ここでも出てきている「チャンバラごっこ」というのは、間違いなく、遊びの主役の一つでありました。
 私の場合、自分では、ほとんど覚えておりませんが、幼い頃は、頭に赤い鉢巻を巻いてもらって、竹のものさしを刀代わりに、赤胴鈴之助になったつもりで、家の前の空き地を走り回っていたそうであります。なぜか、その頭に巻いてもらっていた赤い鉢巻だけは、裏に書いてあった「すずききよみ」という名前も含めて、鮮明に覚えております。
 そして、その「赤胴鈴之助」ごっこの次に、私が夢中になったのが、ふろしきを首に巻いて、背中の方に垂らし、ふろしきをヒラヒラさせながら走りまわる「月光仮面」ごっこでありました。
 以前、どこかのページでも書かせていただきましたが、この頃、貧乏だった我が家にはテレビがなく、1軒おいて隣のお菓子屋さんをやっていたヨシカズちゃん家へ、近所のハナタレ坊主どもと一緒に、「月光仮面」の放送時間になると、「すいませ〜ん、テレビ、見してくださ〜い」と言っては、上がり込んで、テレビを見せていただいたものでありました。
 今に思えば、夕飯の支度をするような時間帯に、何人ものハナタレ坊主どもが、外で遊びまわった汚い服のまま、茶の間に上がり込んでいくわけですから、迷惑この上ない話であることは間違いないところですが、でも、当時は、そんなことが許されてしまう濃密な近所関係とおおらかさが、私達を包んでくれていたわけでありまして、本当に、ご近所の皆さんには、改めて、感謝申し上げたいと思わずにはいられません。


ナレーション

 日本でテレビが開始されたのが、昭和28年。

 当時は、野球や相撲などのスポーツや、
 舞台中継などが花形でした。



 そして、30年代に入ると、
 スタジオドラマなども増えてきましたが、
 まだビデオがなく
 ドラマは全てスタジオからの生放送。
 内容も簡単なものばかりでした。

《主宰者から》
 日本でテレビの本放送が始まったのは、今から46年前の1953(昭和28)年2月1日のことでありました。NHK東京テレビ局が開局した当時、テレビ受像機(という言い方も古いですが…)の普及台数は、わずか866台。その半年後に、初の民間放送、日本テレビが開局した時点でも、3500台にすぎませんでした。
 ちなみに、私が育った新潟県長岡市で見ることのできた唯一の民放であるラジオ新潟テレビ(BSN)というテレビ局が開局したのは、NHK東京テレビ局の本放送開始から約6年後の1958(昭和33)年12月のことでありました。
 つまり、後で出てきますけれども、「月光仮面」の放送開始が1958(昭和33)年2月のことですから、新潟県の皆さんは、「月光仮面」を第1回から見ることはできなかったわけであります。
 初めてのVTRを使った録画ドラマは、大阪テレビ放送(現朝日放送)が1958(昭和33)年6月に放映した「ちんどん屋の天使」という番組だったそうでありまして、その時、使われたVTRは米・アシックス社製のものだったそうです。
 VTRの国産化は、1958(昭和33)年11月にNHK技術研究所が試作品を完成させ、続いて、ソニー、芝電気(現日立電子)なども国産化に成功します。
 このVTRの登場は、それまで使われていたフィルム録画装置(キネスコープレコーダー)に代わり、磁気的な記録装置として、その簡便性や経済性は、テレビの編成・制作に画期的な影響を与えたといわれています。
 とはいえ、初期のVTRの録画テープは、やはり、高価なものであり、テレビ局といえども、使い回し、つまり、放送が終ったら、また、次の番組の録画に使うというようなことをせざるを得なかったようで、古い番組のビデオが残っていないのは、この「使い回し」のためでもあるようです。


ナレーション

 その頃、庶民の娯楽の王様は、
 なんといっても映画で、
 空前の観客動員数を誇っています。

 テレビでも映画をと考えられていましたが、
 映画会社は、テレビへの協力を拒否していました。

 そこでやむなくテレビ各社はアメリカからテレビ映画を輸入し、競って放送。
 名犬リンチンチンやスーパーマン、アイ・ラブ・ルーシーなどが親しまれていました。
 アメリカのテレビ映画はテンポが速く、楽しいストーリーで、電化製品に囲まれた生活などが憧れの目を持って見られていました。

《主宰者から》
 番組で言及されておりました「名犬リンチンチン」というのは、私にとっては、憧れであり、幻の番組でありました。
 というのは、私の育った長岡市で見ることのできたBSNでは、この「名犬リンチンチン」は、確か、日曜日の朝に放送されていた記憶がありまして、さすがに、日曜日の朝から、ご近所の家に上がり込んでテレビを見せていただくというのは難しく、私は、近所のテレビのある家の道を挟んで向かいの家のブロック塀の上にまたがって、窓ガラス越しに、テレビを覗き込んでいた記憶があります。
 もちろん、音声などは聞こえるはずもないわけですが、テレビの画像さえ見えていればいいという感じで、この辺は、もう、ほとんど、“一人街頭テレビ”といった趣きでもありますけれども、当時の、子どもたちにとっては、それほど、テレビへの憧れは大きいものがあったということでしょうし、そのテレビへの憧れの思いが、私の場合、この「名犬リンチンチン」という番組に凝縮されて、記憶に残っているわけです。
 そうした思いも、また、私が、この「60年代通信」というホームページを作る上での、一つの大きな原動力になっているのだろうという気もしています。


ナレーション


 テレビは徐々に家庭に普及。

 日本でもアメリカのようなテレビ映画の製作をとの期待が高まります。


 そんな時、
 これに敢然と挑戦したのが
 広告代理店の当時社長としてテレビの番組製作などにもかかわっていた
 小林利雄さん(現 宣弘社取締役会長)でした。

 映画会社が協力してくれないのなら自分達で作ろうと、まったく専門外のテレビ映画の製作に乗り出します。



小林
 どんなやつ作りたいかと。
    難しいのは駄目だとか。
    それで、出てきたのが、鞍馬天狗の現代版という事ですね。
    だんだん、「月光菩薩」とか、驚き仮面とか…。
    最終的に、月光仮面という名が出てきたわけです。


 題名が決まりました。
 さっそく製作に取りかかりますが、
 ここでの最大の難関は制作費の問題。
 当時、映画会社が製作すれば
 500万円はかかるという時代に、
 制作予算はわずか10万円。

 いかに安く作るか、と工夫が凝らされます。


小林 主役は、誰でも出来るようにと覆面姿にしたんですよ。
    それで、月光仮面は白いマントになったわけで、
    その反対にドクロ仮面は黒にしてしまったわけですね。
    誰使ってもいいんですから、当時うちの社員がいっぱい出てますよ。
    みんな喜んで出るわけですよ。顔が見えないんだから・・・。
    撮影所なんか使えないから、
    全部私の芝の白金の自宅をスタジオ代わりにしたんです。
    車庫をドクロ仮面の巣窟にしたわけですよ。
    私の応接間は祝(うがい)探偵の事務所にしたんですね。
    (家具などは)本当の物なんですよね。


《主宰者から》
 「月光仮面」は川内康範の原作で、少年雑誌の『少年クラブ』でも桑田次郎の作画によりマンガとしても連載されたわけですが、私は、当時、マンガを見るまでの年齢にはなっておりませんでしたので、もっぱら、近所のお家で見せていただくテレビの「月光仮面」しか知りませんでした。
 あとは、メンコの絵柄として、「月光仮面」というのは、やはり、圧倒的な人気を誇っていたのを覚えています。赤や青という原色の地の上に、ちょっと“版ずれ”気味に印刷されていた、月光仮面やドクロ仮面、サタンの爪などに、胸をときめかせたものであります。
 川内康範は、「月光仮面」だけでなく、「太陽仮面」「七色仮面」などの原作者としても知られると同時に、「誰よりも君を愛す」「君こそわが命」「伊勢崎町ブルース」「花と蝶」「「逢わずに愛して」「愛は不死鳥」「嘘でもいいから」「おふくろさん」などの作詞も手がけ、60年代を中心に、歌謡曲のヒットも数多く送り出しています。
 そういう意味では、川内康範という人は、間違いなく、60年代の大衆文化を担われた方でいらっしゃいますので、何れ、また、何らかの形で集中的に取り上げさせていただきたいと考えています。



ナレーション

 まさに、制作費との戦いでどうにか完成。
 マスコミ関係者を集めての
 完成披露試写会へとこぎつけました。
 試写会は満員。
 ところが…。
 肝心のアクションシーンになると、画面は真っ暗。
 パーン、パーんとピストル音が鳴り響くだけ…。
 アクションシーンの撮影が間に合わなかったのです。



 それでも、マスコミは、
 新しいテレビ映画の登場を温かく迎えてくれました。
 
 翌日の新聞には、期待を寄せる記事が並びます。



 こうして、昭和33年、今から41年前の今日、2月24日、

 日本初の本格的テレビ映画「月光仮面」の放送が始まりました。

《主宰者から》
 「月光仮面」が、当時、映画会社による制作協力拒否によって、広告代理店の宣弘社が制作することになったのは、番組でも紹介された通りでありますけれども、やはり、同じKRT(=現TBS系列)で前年の1957(昭和32)年11月に放映された初の国産テレビ映画「ぽんぽこ物語」も宣弘社の制作になるものでありました。
 映画会社による制作協力を拒否された「月光仮面」ではありましたが、結局、凄まじいばかりの人気に押し切られてしまう形で、逆に、東映は、1958(昭和33)年から1959(昭和34)年にかけて、劇場用の「月光仮面」を6本も制作することになります。


 当初は、月曜から土曜までの夕方6時から10分間の番組。
《主宰者から》
 ということで、宣弘社の皆さんやテレビ局の皆さん、出演者の皆さんの涙ぐましいまでの努力で「月光仮面」の放映に漕ぎ着けたわけでありますが、番組開始後の大反響から、一つの社会現象にまでなり、後年の、昭和30年代のTVヒーロー全盛時代に連なる動きが紹介されるパートについては、次回で紹介させていただこうと思いますので、また、よろしくお願いします。
 ビデオとテキスト・データのご提供をいただきました市川市のMさん、どうも、ありがとうございました。
                                                      (次回へ続く)

後編はこちら





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