60年代の広告

新潟ハワイアンセンター

 昨日、亡くなられた由利徹さんのいらっしゃった“脱線トリオ”の広告が昭和40年代前半の新潟日報に掲載されていたのを思いだし、その画像ファイルを探している時に、偶然、「新潟ハワイアンセンター」の広告の画像も見つけましたので、ハワイ帰りのタイミングでもありますし、今回は、この「新潟ハワイアンセンター」を取り上げさせていただこうと思います。


 この「新潟ハワイアンセンター」の広告が掲載された正確な年月日は不明ですが、恐らく、1966(昭和41)年にオープンした「常磐ハワイアンセンター」の新潟版だったのであろうことは間違いないでしょうから、1967(昭和42)年とか1968(昭和43)年とかいった辺りの頃のものだろうと思われす。
 1960年代は、民間企業による大型の遊園地開発が進んだ期間だったと言われておりまして、そうした展開に先鞭をつける形となったのが、私が生まれた1955(昭和30)年に作られた「後楽園ゆうえんち」でありました。
 「後楽園ゆうえんち」の成功を受けて、1960年代に入ると、東京近郊では、「富士急ハイランド」や「横浜ドリームランド」、「東京サマーランド」などが相次いで開業することになったわけです。
 もちろん、東京近郊だけでなく、こうした遊園地のオープンは、全国規模で広がることになり、1960年代に作られた全国の主な遊園地を列挙してみますと、次のようなことになります。
1960年=日本モンキーパーク(愛知県犬山市)/小山ゆうえんち(栃木県小山市)
1961年=富士急ハイランド(山梨県富士吉田市)/奈良ドリームランド(奈良市)
1962年=鈴鹿サーキットランド(三重県鈴鹿市)
1964年=よみうりランド(東京都稲城市)/ナガシマスパーランド(三重県長島町)/横浜ドリームランド(横浜市)
1966年=三井グリーンランド(熊本県荒尾市)/常磐ハワイアンセンター(福島県いわき市)
1967年=東京サマーランド(東京都秋川市)/合歓の郷(三重県浜島町)/城島後楽園ゆうえんち(大分県別府市)
1969年=那須ロイヤルセンター(栃木県那須町)/那須ハイランドパーク(栃木県那須町)
 常磐ハワイアンセンターの場合、こうした1960年代の遊園地開業ブームとは別に、日本の産業構造の変化、とりわけ、石炭産業の斜陽化も、その背景にあったことは言うまでもないわけですが、また、別の側面からは、温泉地における新しいアミューズメントの在り方を示す結果ともなったわけであります。
 「新潟ハワイアンセンター」の場合、広告の左下に「所/こばり温泉」の文字も見えますし、「常磐ハワイアンセンター」の成功が示した「温泉地における新しいアミューズメントの在り方」の部分に、最も大きな影響を受けて、作られることになったものと思われます。
 入場料は、大人400円、学生300円、子供200円、営業時間は午前9時から午後10時となっています。
 この新聞広告によると、目玉は、50メートルプールと全長80メートルのウォーターシュートだったようで、園内には100本を超えるヤシの木が植えられていることが強調されています。
 新潟だけでなく、きっと、全国各地に、それぞれの地名を冠した「ハワイアンセンター」が誕生したのではないかとも想像されますが、手元に、それを裏付ける資料がありませんので、正確なところは、よく分かりません。
 長岡の中心部に、地元企業が長岡観光会館という一大施設を作り、その中に、長岡温泉センターというのが出来たのも、1960年代の半ばだったはずで、日本の高度成長によって、庶民が利用する娯楽施設も、徐々に充実していった時代だったのだろうと思います。
 私自身は、「常磐ハワイアンセンター」は当時から知っておりましたが、「新潟ハワイアンセンター」というものが存在していたことは、この「60年代通信」を作るために、古い新潟日報の広告などを収集するようになってから、初めて知りました。
 新潟の隣県である福島に出来た施設だったということもあるのかもしれませんけれども、やはり、「常磐ハワイアンセンター」という大胆なネーミング、炭坑のイメージを象徴していた「常磐」と、海外旅行がまだまだ高嶺の花だった時代に、永遠のパラダイス、憧れの「ハワイ」を無理やり結び付けてしまった意外性というか強引さは、その存在を全国区のものにしてしまったのであろうことも、また、想像に難くありません。
 残念ながら、手元に、当時の「常磐ハワイアンセンター」の資料はありませんが、60年代を体験した日本人に鮮烈な印象を残した「常磐ハワイアンセンター」は「スパリゾートハワイアンズ」にその名を改めて、今なお、根強い人気を保ち続けていることは紛れもない事実であります。
 その「スパリゾートハワイアンズ」のホームページ(http://www.iijnet.or.jp/iwaki/spa/srh.html)を見てみます、やはり、その中核部分は、「ウォーターパーク」と「スプリングパーク」という感じでありまして、宿泊施設の「ホテルハワイアンズ」、温泉施設の「江戸情話〜与市」、ゴルフ場施設の「クレストヒルズ・ゴルフ倶楽部」などが周辺施設というような趣きになっていました。




 上の2枚の画像は、何れも、今回のハワイ出張で私が宿泊したヒルトン・ハワイアン・ビレッジのレインボー・タワー16階のバルコニーから撮影したものでありまして、右の画像がワイキキビーチで、左の画像は、右の画像の左端にも写っているホテルのプールです。
 乱暴な言い方にはなりますが、ホテルのプールで遊んでいる分には、ハワイだろうと、福島だろうと、新潟だろうと、あまり変わらないわけでありまして、温泉も一緒に楽しめるということになると、海外旅行がまだまだ高嶺の花だった60年代の日本人にとっては、「常磐ハワイアンセンター」や「新潟ハワイアンセンター」などという存在は、身近な行楽地として、とっても便利なものだったのだろうと思われるわけであります。
 海外旅行が日常的なものとなった現在も、また、数年前から全国的にクア・ハウスのブームが盛り上がっていることもあり、特に、温泉地ではなくても、巨大な浴場施設が、全国各地に作られるようになってきました。
 以前にも書かせていただいたように、今年のゴールデンウィークには、私は、岳父の七回忌法要のため、カミさんの実家がある岡山県に行っておりましたが、岡山にも、岡山空港に隣接する土地に、その名も、「岡山空港温泉・レスパール藤ケ鳴」[右の画像]というクアハウスがあり、カミさんの実家にいた4日間、毎日、車で通い続けてしまいました。
 私の実家がある長岡市やその近郊にも、こうした「健康ランド」的なクアハウスが沢山できているようですが、そのルーツを辿っていくと、やはり、60年代半ばに衝撃的に登場した「常磐ハワイアンセンター」だったのではないかと思っているのですが、これも、60年代フリーク・オヤジの思い入れにすぎないのでしょうか。
 ちなみに、私が現在住んでいる京王線の百草園の駅の近所には、百草ヘルスセンターという硫黄泉の温泉もどきがあり、梅の名園として知られる百草園を訪れる人たちなども立ち寄っているようです。
 この百草ヘルスセンターというのが、実は、鄙びた場末の温泉のような捨てがたい雰囲気を持っておりまして、時々、売れない演歌歌手が宴会に呼ばれて来たりしており、私も、時々、思い出したように、百草ヘルスセンターに行っております。
 入湯料は、確か、1000円くらいですが、夕方4時から7時までは400円で入ることができ、近所の人たちは、銭湯代わりに使っています。
 ということで、今回の「新潟ハワイアンセンター」は、ほとんど「60年代の広告」として取り上げさせていただくような内容からは程遠いものになってしまい、一体、何が書きたかったのか自分でも分からないまま、お開きとさせていただきます。
 最後まで、お読みいただいた皆様、本当にツマらない内容で、申し訳ありません。
 次回から、また、頑張りますので、お許しください。
 どうも、ありがとうございました。















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