60年代の歌謡曲

青春歌謡/橋幸夫の部

 舟木一夫と西郷輝彦を紹介させていただいた以上、この人が登場しなくては話にならないわけであります。橋幸夫ファンの皆様、お待たせいたしました。橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」は、私が生まれて初めて覚え、自分で歌うことが出来るようになった流行歌であり、私の歌謡曲人生は、橋幸夫から始まったと言っても過言ではありません。その橋幸夫の、いわゆる「青春歌謡」と呼ばれるヒット曲の数々を振り返ってみたいと思います。


その1・「いつでも夢を」

その2・「恋をするなら」

その3・「雨の中の二人」


「いつでも夢を」(佐伯孝夫・作詞 吉田正・作曲)
 [1962年10月発売]

 1962(昭和37)年10月発売の「いつでも夢を」は、橋幸夫と吉永小百合様のデュエット曲ではありますが、橋幸夫にとっては、デビュー曲「潮来笠」と並ぶ代表曲の一つと言って差し支えないでしょう。デビュー以来の着流しイメージを払拭し、いわゆる「青春歌謡」と呼ばれることになる一群の歌謡曲の若き旗手として、その地位を確立した曲と言ってもいいのではないでしょうか。
 橋幸夫は1960(昭和35)年8月に発売されたデビュー曲「潮来笠」が大ヒットし、同年の第2回日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も、ロカビリー全盛時代にあって、「おけさ唄えば」(1960年11月)、「喧嘩富士」(1960年12月)、「木曽ぶし三度笠」(1961年2月)、「南海の美少年」(1961年6月)など、いわゆる“股旅もの”“時代もの”のジャンルの流行歌手として着実にその地位を築いていきました。

 しかし、1962(昭和37)年2月に発売された「江梨子」で従来のイメージから一歩抜け出し、同年8月の「若いやつ」辺りから、後年、いわゆる“青春歌謡”と呼ばれることになる歌謡曲ジャンルの先べんをつける形となりました。そして、そのイメージ・チェンジを決定づけたのが、この年の10月に発売されたこの「いつでも夢を」で、暮れには第4回日本レコード大賞を受賞することになります。
 私自身としても、「いつでも夢を」は大好きな歌の一つで、60年代評論家として“60年代歌謡曲ベストテン”というチャートを作るとしたら、間違いなくベストテンに入る曲であります。個人的な思い出としても、寒い冬の夜に、両親と姉と私と4人で炬燵を囲みながら、今風に言えばホームパーティーのようなものをやった時に、私と姉でこの「いつでも夢を」を一緒に歌った場面が瞼に焼き付いておりまして、今でも「一家団欒」という言葉を聞くと、その時のことを思い出すほどであります。豪雪が頻繁に長岡を襲っていた昭和30年代の寒い寒い冬の記憶の中で、ほのぼのと暖かいメロディーのイントロで始まるこの曲は、私にとっては決して忘れることのできない1960年代を飾る珠玉の名曲の一つとして位置づけられているのです。


「恋をするなら」(佐伯孝夫・作詞 吉田正・作曲)

 いわゆる青春歌謡と呼ばれていたジャンルの歌の中には、その時々に流行っていた洋楽の最新リズムを取り入れた曲も何曲かあり、リズム歌謡とかエレキ歌謡とか呼ばれたりしていました。橋幸夫を語る時、そうしたリズム歌謡・エレキ歌謡のパイオニア的存在としての役割を忘れることはできません。
 そのエレキ歌謡の第一弾として1964(昭和39)年8月に発売されたのが、この「恋をするなら」でありました。この曲は、当時の流行であったサーフィンのリズムを取りいれたもので、サビの部分で繰り返される「アッアアアアア、イッイイイイイ、ウッウウウウウ、アイオ」という母音だけを連ねるフレーズが妙に耳に残る歌でした。
 さらに、その翌月の9月、つまり東京オリンピックを1カ月後に控え、東京には時ならぬ国際ムードが漂い始めていた頃かと思われますが、今度は、「ゼッケンNo.1スタートだ」(佐伯孝夫・作詞、吉田正・作曲)というレーサーものの曲がリリースされました。

 前作「恋をするなら」ではサーフィンのリズムが使われていましたが、この「ゼッケンNo.1スタートだ」ではホットロッドが取り入れられ、リズム歌謡路線に弾みがつく形となりました。この時代を知る人は、タイトルから美樹克彦の「回転禁止の青春」などを連想する方もいらっしゃるかもしれません。
 橋幸夫は、この後も、同年11月にはサブロックを取り入れた「チェッチェッチェッ」(佐伯孝夫・作詞、吉田正・作曲)と、わずか4カ月の間に、サーフィン、ホットロッド、サブロックと3つのリズムパターンを使い分けて、シングル盤をリリースしたことになるわけです。私も、この辺りの曲は、全部、リアルタイムで覚え、歌っていたものであります。

 ちなみに、日本ロック界の先駆者、内田裕也と尾藤イサオの二人が、「ロック、サーフィン、ホット・ロッド」というアルバムをリリースしたのも、橋幸夫の一連のリズム歌謡と同じ、1964(昭和39)年のことでありました。実は、このアルバムには、私がファンクラブに入っていたジャッキー吉川とブルーコメッツも、寺内タケシとブルージーンズとともに、演奏で参加しており、最近になってCDで復刻盤も出ています。もちろん、私も購入しておりまして、その解説によりますと、このアルバムが発売された1964年という年は、「あの熱狂的なエレキ・ブームの兆しが見え始めていた頃で、まだGSという恥ずかしい名称さえ生まれていなかった」頃であります。
 そうした時期に、歌謡曲の世界で、いち早く、こうした流行を先取りするかのように新しいリズムを取り込んで、ヒット曲に結びつけていったという辺りに、当時の、流行歌手としての橋幸夫のパワーを感じないわけにはいきません。もちろん、その背後には、吉田正という戦後歌謡界を代表する大作曲家がいたことは言うまでもないわけですが…。

 そして、橋幸夫の一連のリズム歌謡の極めつけともいうべき作品が、翌年の夏、1965(昭和40)年6月にリリースされた「あの娘と僕」(佐伯孝夫・作詞、吉田正・作曲)というスイムを取り入れた曲でありました。レコード・ジャケットの副題にも“スイム・スイム・スイム”というサブタイトルが印刷されているのをご確認いただけるでしょうか。このスイムというリズムをこれほどのインパクトで表現した曲は恐らく他にはないのではないかと思われるほどの曲作りになっております。イントロ部分で入るコーラスの「スイムスイムスイム スイムで踊ろう あの娘も この娘も ピチ娘」というフレーズは、佐伯孝夫というよりは浜口庫之助のノリでありまして、吉田御大と佐伯センセイの力の入れようも伝わってこようかというものであります。
 で、この年の暮れの紅白歌合戦でも、当然、橋幸夫は、この「あの娘と僕」を、今度、取り壊されることになってしまった東京・日比谷の宝塚劇場で歌ったわけですが、白組の歌手全員が、この歌に合わせてスイムのダンスを踊る場面は、なかなかの圧巻でありました。応援団として出演していた今は亡き渥美清さんも、その中で本当に楽しそうに踊っていたのが忘れられません。





























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