長谷川和彦 黒い雨と今村昌平を語る(3

 


ブラバン、ジャズ少年の挫折

荒井 なんでミュージシャン?何が好きだったの?

長谷川 ジャズだったよ。ロックは何か違ったんだ。ビートルズを初めて聞いたのは、俺が音楽に挫折した高3の終わり頃かな。

荒井 タモリがジャズだったり、そういう世代だよね。

長谷川 プレスリーでもないんだよ。プレスリーはロックというより、カントリー・ウェスタンだもんな。俺、楽器買えないから高校入ってすぐブラスバンドに入ったんだ、ペットを凄くやりたかったんだ。
  こんな話してていいのかな?関係ないぞ「黒い雨」と(笑)

荒井 ま、いいじゃないか。

長谷川 まっ、いいか。中学の頃に見た映画に「朝な夕なに」「五つの銅貨」とか、涙々の……トランペット奏者の映画があってさ。マイルス・デイビスが元気良かった頃で。トランペットっていうのは俺の中で凄かったわけよ。でも、ちっぽけな高校だから、トランペットは全部(メンバーが)埋まってる。一本しかないテナー・サックスがたまたま空いて、それだと俺はメインで吹ける。ブラバンでテナーなんて面 白くも何ともないんだ。ブーバ、ブーバって低音部の和音を吹いているだけだからな。でも、止めると楽器がなくなるし、ブラバン止めずにメンバーに声かけて「ロイヤルストレート・フラッシュ」っていうバンドを作った。ディキシーからダンモまでという実にいい加減なバンドでね。それでも一年の学園祭では、千人くらい入った講堂で独奏までしたよ。ソロは一曲しか吹けないんだけど。「ハーレム・ノクターン」が流行っていた頃で、それは俺の前に凄く上手い人がやったってたから「月光のノクターン」というのを見つけて。その曲だけは今でも指が動くよ。

荒井 サム・ザ・マン・テイラーなんて流行っていた頃だよな。

長谷川 サム・テイラーなんか馬鹿にしてた。コルトレーンだよコルトレーン(笑)メンバーの榎並って奴に夏休みに入る前に聞いたんだよ。“お前、やっぱり芸大なんかに行くのか”って。そしたらキョトンとした顔して“お前、何考えてんだよ。俺らのレベルでプロになって飯食えるわけないだろう”って。こいつは、小学校からクラリネットやっててバカ上手いんだから。俺はスタートが10年遅れてる。でも、一生懸命やれば3年で追いつけると思ってるわけだ。その榎並がプロにならないって言うんでさ。俺の目標がそう言うんだから、眼の前真っ暗だよ。全部パッパラパーになっちゃった。そうすると不思議なもんで、今まで吹けてたものが吹けなくなる。リズム感は日本人なんだからもともとないんだけど、音感はそれまで自信あったんだ……ショックのあまり本当に音痴になっちゃったんでよ。映画やりたいなんて思ったのは、その後でな……未だにミュージシャンには嫉妬、羨望、劣等感だよ。

荒井 何やっても秀才っていうんじゃなくて、ゴジみたいな二番手……そういう奴がやってるね、映画も。学生時代、理論的にシャープだった奴って、堅気になってるね。プロになんないで。映画を僕らより分かっていて、理論的にも凄い奴は商社に入ってて、映画は趣味にしている。僕らみたいな、ぼんやりした奴が結局、現場に出て行く。

長谷川 秀才は目一杯頑張ってグレて、テレビ局だな。

荒井 俺たちみたいな劣等生が、それっきゃないって感じで映画の現場にもぐり込んでいる。

長谷川 未だに秀才たちは後悔してるよ。“お前でも映画監督になれたんだから、俺が行ってたら凄かったろうな”って(笑)

荒井 俺がシナリオライターで、賞を貰っているって言っても、信用しない奴多いもの。“ビラ以外書けなかったじゃないか、お前”なんてさ。

長谷川 一回は俺もめげかけたんだ。大学1年のオリエンテーションの時、四十何人が自己紹介して、30何人が映画監督って言うんだ。アイウエオ順だから、俺の順番までに3分の2ぐらいが“ 映画監督になりたい”って。小説家になりたい奴って一人もいないんだから。その癖、言うことは“ゴダールとサルトルの共通 点は……”“カミュはどうだ……”とか、分かんないこと言うんだよ。田舎のブラバン・ジャズ少年が知るわけないよな、そんなの。“こりゃ映画も駄 目か”なんて思ってたら、どこの映画会社も斜陽で助監督なんて採用しなくなった。結果 、荒井の言う通り俺たちみたいな、大学も中退するような半端者だけが、この世界でウロウロしてるわけだ。

今平の声高ゆえの恥とテレが好き

長谷川 「黒い雨」に話しを戻そう。俺と荒井で喋るとまるで中年の同窓会でイカン(笑)……俺たち世代って、やっぱり『俺たち』っていう意識が強いのかな。確かに、大学生ごときが人々を『大衆』なんて呼べるインテリゲンチャーじゃなくなった、最初の世代には違いないなあ。『大衆の為に』なんて思い上がった意識は誰にもなかったろう。地べたにいるのが自分たちだというのが実感だった。60年安保組と比べるとエライ違いだよ。時代の気分、運動そのものが。60年安保、あれはエリートの闘争なんだよ。70年はヒラの奴の闘争だった。

荒井 ヒラの奴が一番エライ時代だった。

長谷川 日大全共闘が一番カッコ良かったもんな。

荒井 俺は彼らと一緒に東大の銀杏並木をデモったけど、それは感動があったよ。俺なんか、やはり東大コンプレックスがあるんだよ。日大の連中とデモした時は“あの東大へヘルメット被って入ってきたんだ”って、非常に邪なエネルギーがあったよ。 日大の最初の闘争から知ってるけど、彼らは『インターナショナル』を知らなかったんだよ。

長谷川 有名なのは、最初にデモやる時に旗がいるんだろうって……考えて……ピンクでいいのか……ピンクって日大の旗だからさ。やっぱりピンクより赤の方がいいかな、とか色々あって……結局ピンク持って走ったとかさ。

荒井 (日大全共闘は)右翼とやり合ってたでしょ。右翼は日本刀を持ってたり、木刀を持ってたりしてて。そこへ機動隊がきた。自分たちを助けにきたと思ったら、そうじゃない。そこら辺から始まったんだ、意識が。凄く面 白かったよね。

長谷川 そんなタイプの学生運動って、60年にはどこ探してもない。全部『大衆』に対する前衛意識でさ。

荒井 だから、西部邁みたいになるわけ。あの人は安保全学連の幹部だよ。大衆に絶望したわけだ。

長谷川 60年代を闘った人も、まぁ立派な人もいるには違いないんだろうけどさ。しかし、70年をやった秋田(明大)のように、田舎の鉄工所へ帰って誰がきても物も話せなくなった男は――秋田はもともと鈍で純な奴ではあるけど――そういう指導者はいなかったよな。

荒井 60年の連中のその後を見るとエリートですよ。大学の先生やったり、自民党に入ってたり……。

長谷川 若い時は、学生運動くらいやるのが常識だよってな。

荒井 どこへ行っても生き残れるわけだよ。

長谷川 それを急に「黒い雨」に戻すと、今平さんも道は違いながら、やっぱりそうなんだな。俺らより上のインテリゲンチャーっていうのは、自分は地べたにいたと一所懸命思うわけよ。嘘なんかついていない、本人の意識としては。実際、彼は終戦直後の外食券食堂の話するの、一番好きだしね。“俺は大学も行かないで金を稼いでたんだ”とかさ。そういう話が凄く好きでさ。俺らには、そういう話はないからさ。それはあの世代が持っている青空には違いない。

荒井 民主主義の人だよね、我々より、しかし、古い意識っていうのが普通 に残っている。例えば女買うっていうことに関して割合こだわらないできたんじゃないかとか。森崎東さんと仕事やって、そのギャップが初めて分かった。民主主義で物凄く綺麗、美しいこと言って。そして、それは確かに嘘じゃないんだよ。本人はそう思っているんだし。だけど、ゴジが言ったように『擬態』っていうんじゃないんだけどノノでも、それはもう壊れてるんだよ。

長谷川 擬態を意識しない擬態ほど怖いもんはない。

荒井 それは山田洋次という人が……(笑)

長谷川 あそこまでいけば、人間国宝。ずっと昔から鈍かった人だろうからさ。今平とか森崎さんとかは、本当にまみれたいという願望が強かった人だとは思うよ。土にもオマンコにもまみれて生きたいって。

荒井 森崎さんも九州のいい家の子供で、エリートなんだよ。

長谷川 ともあれ、彼らが『まみれようとして』その時代を生きたことは信じるさ。だから彼らの映画のファンだったんだし……しかし、何十年か経って恥も衒いもなく、古き悪しきインテリゲンチャーをやってしまうことがさ……。

荒井 しかも綺麗にね。

長谷川 なんだか教育映画みたいじゃないか。

荒井 完成された感じでね。

長谷川 “今回、私はぜったい声高にこの映画をつくっちゃいけないと思った”って、パンフに書いてあったけど、声高だよ。俺に言わせれば。声高だと思っていない鈍さっていうのが、俺は嫌なわけ。

荒井 声が高いとか、低いじゃなくて、肉声がどうかって問題だよね。

長谷川 声高の男が、声高でありたくないなんて、大嘘なんだよ。充分、声高じゃないか。映画っていうのは、基本的に声高でしか有り得ないものなんだよ。

荒井 世で褒める、いわゆる、芸術映画って声高じゃないというスタイルで、それが認知される要素なんだ。声高やめようってスタイルの問題を語っているようにしか思えないんだよ。

長谷川 俺ね、今平さんの映画が好きだったのは、『声高ゆえの』恥とかテレがあったからなんだよ。東京の下町っ子のいいとこのボンボンにしては。それがさ……絶妙な“お父ちゃん”“お母ちゃん”の間の可笑しさ――その世界に今平は憧れてるだけでさ。東北の中へはまりこんで根を下ろそうとして、下ろせないってことを、分かりながらやっている感じがあったじゃない。それを俺は異常なリビドーと、異常な小市民感覚を言うんだけど。どっかで照れ臭いっていうところがあって……表現というのは、いつも照れ臭いもんだよ。ただ“僕、照れ臭い”ってやってると表現にも何にもならない。誰でも、そのギリギリのところへ自分を置くことによって、映画を作ることを『個人的な体験』にしてたと思うわけよ。

荒井 ある種、恥をバネにしてた。

長谷川 非常に『個人的』な映画だったと思う、あの頃の今平さんの映画って。 この映画って、誰が監督タイトルに並んでも“こういう映画ってままあるよな”という感じで……今平らしさがないって程度じゃないんだ。

荒井 悲しいことを悲しいですねって言うことって、なんだろうなって……戸惑ってしまう。

長谷川 それと丁寧に作ってるっていうので見過ごされがちだけど、ラストの――

荒井 鯉?

長谷川 鯉なんかどうでもいいけど、もっとデリケートなことでね。ラスト、虹のナレーションが出て、ズームアップするじゃない。

荒井 俺、虹が出るかと思ったんでけどな。

長谷川 ラスト、エンディングロールのカットを途中で変えるんだよ。別 な田園の画にするんだ。

荒井 ああ、俯瞰のね。

長谷川 あの無神経さはなんだよ。あの画より後に画があっちゃいけないだろう。ズームした画のまま堂々と終るか、尺が持たなきゃフェイドアウトすればいいんだよ。スタッフタイトルが出るから、そっちに目がいくと言えばそうだけど、客はスタッフの名前なんかどうでもいいんだ。その映像が映っている間は、虹が出るんじゃないかって無意識に思ってるわけよ。勿論、出ないんだけど、じゃ、カット変わるのはなんだって。『淡々』をつくったつもりなら、クレジットなんか出る前にもっときちんと丁寧に『淡々』として欲しいだろう。……井伏鱒二の小説を読むと、もっと本当に淡々とした印象のラストなんだ。そのエンディングの2行、3行をわざわざナレーションで歌い上げて、見えない虹にこれ見よがしにズームアップまでして……充分、声高だっていうんだよ。あれが声高じゃないっていうんなら、何が声高だっていうんだよ……イカン、俺が声高になってるか(笑)

荒井 俺は気がつかなかったけど、根岸(吉太郎)が鯉の翔ぶシーンでテグスが見えたって言うんだよ。今村さんっていう人は、そういうカットは絶対に使わない、もっと厳密な人じゃなかったか、と。

長谷川 まあ、テグスが見える根岸を、俺はあんまり褒めないけどね。それは根岸も俺ほどじゃないが、映画を撮ってないからじゃないか。

荒井 (笑)なるほど。

長谷川 俺は見たくないものは、見ないようにしてるんだ。どうせテグスで操っているのは、俺も現場の人間だから知ってんのよ。だけど、俺は客としては根岸より素直ないい客だと思う。

荒井 普通 の人、という意味で?

長谷川 うん。そういうことは思わないで見たよ。ただ、鯉が翔ぶ回数が多いとは思った。声高じゃないんなら一回翔べばいいんだろう。

荒井 それと田中好子の芝居、ね。

長谷川 (矢須子と悠一が小屋の中で戦争のことを話す芝居場の)あのピンスポットを声高と言わないで何を声高と言うんだ。な。あのピンスポとかズームとかは、今や新劇も映研も使わない。それくらい、風化しきったダサイ声高な表現手段なわけだろう。ああいう件りを一切ダサイ手を使わずに撮って、なおかつ客がシラケナイように出来たら、それが淡々ってことだよ。そういう表現をする人は、あんなオーバーな芝居はさせないぜ。

荒井 みんなで、戦争後遺症の青年と地面 を這う、ああいうところを、みんな傑作と言うんだろうけど……なんかさ……。

長谷川 今平の映画って、昔はつい笑ったよ。今度はついぞ一回も笑えなかった。別 に悪意を持って見てないんだぜ。

荒井 それはゴジとか俺が、若かったせいかもしれないけどさ。

長谷川 いや、違う違う。昔の今平映画の笑いって本当にパワーがあったよ。いわゆる、予定調和の松竹大船調でもなければ、くすぐるような東宝喜劇でもない。あの人の好きな言葉で言えば『丸ごと人間をとらえる』時に思わず客を笑わせてしまう独特のモノだった。この映画に、そんな素晴らしい笑いは皆無だろう。

荒井 手口、仕掛けが見えちゃう。昔だったら、市原悦子に関してもっと笑わせてる。(原爆が落ちて家から逃げ出すところの)南瓜のシーンでも笑えないもの。

長谷川 素材、テーマが深刻で重いからって、作る方が笑いの自主規制をしてるようにすら思える。それじゃやっぱり、丸ごと人間をとらえてないってことになるんじゃないかなあ。
  それと、俺、広島県人だから言うけど、あの広島弁は酷いぜ。広島弁って、もっとチャランポランで野卑なものなんだよ。あんな上品ぶった小奇麗なのは広島弁じゃない。映画の中の方言って、作り手のアイデンティティと凄く密接な関係にあると思う――例えば、大林宣彦が尾道映画を何本撮っても、決して尾道弁をつかわず、標準語に徹するみたいなさ。あれはやっぱり大林さん一流のアイデンティティの表出なんだろう。尾道=故郷ってものを匂いのする生身のモノとして捉えずに、ひとつの幻想の風景として捉えるって言うかさ……俺なんかみたいに、匂いとか生身の手触りの好きな人間は“大林さんて尾道育ちでも、山の手か何かに住んでて尾道弁なんか喋らずに育ったんじゃないか?”なんてセコイ邪推したりしたくなるけど(笑)そういや荒井=パキ(藤田敏八)の「リボルバー」も鹿児島弁捨ててたなあ。あれはいかなる意図によるものなの?

荒井 うーんどうしてだったのかな。風景が変わる、場所が移動するってことで鹿児島、札幌は欲しかったけど、たぶん移動する他者っていうか、柄本(明)と尾美(としのり)の視点っていうか、そっちから書いてたようなところ、ま、他の連中も浮遊してるわけだけど、根を下ろしてるような感じが欲しくないんで、捨てたんだと思う。「遠雷」「赫い髪の女」みたいな時はこだわるけどね。リアリズムの映画じゃなくて、「リボルバー」は全体としてある気分を出すオハナシだからね。

長谷川 なるほどな。ただ、俺なんかは、あの映画が、もっと多彩 な方言のジャムセッションみたいになってたら、面白かったと思ったな。「ナッシュビル」なんだからさ(笑)今村さんて、方言には人一倍こだわる人だったろう。「赤い殺意」でも「にっぽん昆虫記」でも。“こりゃもう字幕でもださなきゃわかんないぜ”ってとこまで開き直って徹底してた。それは東京人の彼が東北という『ここより他の場所』に強引に本気で入りこもうとする具体的な方法論だったし、結果 、彼のアイデンティティがどの辺にあるのかを感じさせてくれるものであった。そういう意味では、大林さんの『尾道=標準語』と真逆に見えて表裏一体、同じことなのかもしれない。俺もそれは両方ともヨシなんだよ。映画なんかやる奴は誰でも、アイデンティティが実社会にないんだからさ。だから映画みたいな蜃気楼の中に、何かデッチ上げようとしたり、発見したりしようとするわけだろう。それをいわゆるリアリズムでやろうが、ファンタジーでやろうが、そりゃ各人の勝手でさ。大切なのは、もともとアイデンティティ喪失者なんだという冷徹な自己認識と、それを映画の中に見つけようとする一所懸命な方法論の具体だろう。だから、今平さんの場合は、半端な広島弁じゃアカンのだよ。広島県人だから広島弁にこだわってるわけじゃないんだ、俺は(笑)それにしても、方言なんて本来一番得意な部分が甘いってのは、オッサン少しボケたのかな。

荒井 ボケが成熟って言われる土壌って、日本にはあるんだ。文学でもそうだけど、それが声高じゃないって言われるパスポートなんだよな。

 

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