「嵯峨天皇」空海の最大の庇護者

「マダ空海ハヤッテコンカ」
大極殿で朝の仕事を終えた嵯峨天皇は、この日、空海を呼んで、午餐を共にしながら楽しい日を過ごそうとした。
「マダ、コンカ」嵯峨天皇は白砂の庭でぶらついている。そのとき沓(くつ)の音がする。
「空海カ」
「シバクデゴザイマス」そういって空海は中国風の椅子に座る。
「ヨウキタカ、ヨウコソ、ヨウコソ」嵯峨帝はいかにもうれしそうである。
やがて空海は風呂敷から四本の筆を取り出す。
「デキタノカ」
「コレハ狸毛デ、作ラセタモノニゴザイマス」
「ナント」
「穂先ガ鋭クテヨクシナリマス」
「唐ニモ狸毛ノ筆ハアッテカ」
「シカリ、狸毛バカリカ、鼬(いたち)モ貂(てん)モ‥‥ナカンズク兎毛(ともう)ガスグレテ重宝サレテオリマシタ」

空海はこのようにして嵯峨帝に唐の情報を伝え続けたのでした。
嵯峨にとって空海は心のよりどころであり、唐の情報を伝え続けるテレビ、新聞のようなものだったのでしょう。
嵯峨は、なによりも詩書を好み、その手引き役として空海に期待したのでした。嵯峨帝には空海が身につけている中国源流の教養が魅力的であり、特に惹かれたのは空海の書芸と詩文でありました。

嵯峨天皇。
実の兄である平城天皇から譲位された時はまだ二十代の若さでありました。
退位したはずの平城上皇が、寵愛する女官の薬子と図って、嵯峨から政治の実権を奪おうとする「薬子(くすこ)の乱」が起こる。
嵯峨はすぐさま、あの征夷大将軍の坂上田村麻呂を送って、薬子の兄である藤原仲成を射殺、薬子を幽閉して自殺に追い込む。さらに平城が仏門に入ることで事件は戦闘に入る前に解決する。
この乱の一ヶ月後、空海は嵯峨に国家鎮護の祈祷をしたいと申し出る。これが帰国後の空海が初めて行った「デモンストレーション」だったのでした。身内の起こした乱によって、心傷ついた嵯峨はすぐに了承。そして空海は高雄山寺の山門を6年間閉じると宣言して、大々的な修法を行うのでした。
これにより、空海と嵯峨の仲はさらに親密になっていきます。

しかし翌年811年には嵯峨の命を受け、高雄山を出て、乙訓(おとくに)寺に入ることになる。
これは理由が「不便」であるからだという。不便と言うのは、嵯峨の住む京と高雄では離れすぎているということからだったのです。

そして823年に嵯峨は空海に東寺を与えます。
東寺は、嵯峨の父である桓武天皇が、平安遷都の直後に、奈良の旧仏教勢力の政治介入を排除すべく、東大寺に対抗できるような、宗教的権威を持った寺院を新都に必要としたために、建設が着工しましたが、建設が遅々として進まなかった。
そこで嵯峨は空海ならば2年前の「満濃池」の修築をみれば、東寺の完成が期待でき、しかも空海は、東大寺の「別当」と言う巨大な寺院の経営管理にも実績を残しているために、東寺を任せる最適任者と考えたのでしょう。
嵯峨は空海に東寺を授けた後、3ヵ月後に天皇の位を退きます。東寺は嵯峨天皇の空海への最後の贈り物になったわけです。

『空海の風景』で司馬遼太郎が、「国家とか権力といった浮世の約束事のような世界を、布教のために利用する」ための現実的なプランは東寺を密教寺院に再編することによって実行に移されたと言っていいと思います。
さらに空海と嵯峨天皇の関係を『空海の風景』で司馬遼太郎は、
「空海はのちの嵯峨天皇との交友においても嗅ぎ取れるように、自分と天皇との関係を対等と言うより、内心は相手を手でころがして土でも丸めるようなつもりでいた気配がある」と書いています。

事実、空海は高雄山寺や乙訓寺にいた時も、時々山に篭って修行に入ったりしている。その間は嵯峨の頼み事もほっぽり出していたそうです。
いかにも空海らしい話です。

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嵯峨天皇。(786〜842)
桓武天皇の皇子で、能書家としても有名で、空海や橘逸勢とともに「三筆」と呼ばれています。




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