「帰国」空海の戦略の始まり

唐を出発した空海は海上を博多に向かった。博多には当時「大宰府政庁」があり、一行はここで旅の疲れを癒してから、体勢を整えて京の都に帰朝報告にのぼります。
しかし空海はそのまま大宰府にとどまり、高階真人遠成(たかしなのまひととおなり)
に唐より持ち帰ったもののリストをまとめた「御請来目録」(ごしょうらいもくろく)を渡して、天皇に上奏すること願ったのでした。

この時より、空海のみずから創りあげた新たな思想をこの国家の中で広めていくために、「天皇、朝廷を布教のために利用する」という戦略を練っていたと思われます‥

その「御請来目録」の冒頭で空海は「業務期間を欠いた罪は死をもっても償えませんが」と一応書いた上で「普通は得ることが不可能な法を生きて持ち帰ったことを密かに喜んでおります」と胸を張っている。「どうだ」といわんばかりです。
その「御請来目録」に載っているリストには経典や注釈書が461巻、おびただしい数の法具や仏画、仏像などがすべて記されているのでした。

20年の留学期間を投げ出して、わずか2年で帰国するという「国禁」を犯してまで帰ってきたのですが、「御請来目録」にはその罪を補っても有り余るほどの、当時の文化価値からすれば、「史上空前の財宝」が載っていると空海は自負していただろうし、先に「断片的な密教」を持ち帰って日本の密教の国師と崇められる最澄に対して、「こちらのほうが密教を体系的に受け継いでおり、こちらが本道」という絶対優位という確信もあったはずでしょう。
あとは「御請来目録」を見た朝廷から「京都にのぼり、教えを広めよ」という勅令がくるのを待つだけです。

空海は大宰府にいた期間は、観世音寺に身を寄せ、請来品をひとつひとつ点検したり、熟読したり、密教の体系化や新たな展開を考えていたようです。

そして帰国翌年(807年)の夏に朝廷から勅令が来ます。
しかし「京にのぼれ」というものではなく、「まず、和泉国槙尾山寺に仮に住め」と言うものであったのです。
槙尾山寺(現在の槙尾山施福寺)は当時、勤操(ごんぞう)僧正が管理していた寺であり、空海が出家した折に剃髪を受けた寺でもあります。
「槙尾山寺に仮に住め」という勅令にも当時奈良仏教界の実力者である、勤操の意図(裏の動き)が見て取れるのであります。
朝廷、つまり桓武天皇が庇護する最澄は、奈良仏教界と教義的に争いを続けており、勅令の元、奈良仏教界の長老たちを引きずり出して、最澄の下で灌頂を受けさせている。
そこに密教を体系的に受け継いだ空海が帰国する。
学生の頃から空海に教えを説いていた勤操はじめ、奈良の長老たちも「すぐにでも上京して、最澄の密教を砕破してほしい」と願ったことでしょう。

槙尾山寺にいた期間空海は、司馬遼太郎の「空海の風景」によれば
「‥請来した密教をどんな攻撃にも堪えられるような堅牢な組織に組み上げてから敵地というべき京に入りたかったのではないか‥」
つまりライバルである、最澄の教義を打ち負かすだけの体系を整えていたと思われます。

その頃には最澄の庇護者である桓武天皇はすでに崩御しており、次に即位した平城天皇が譲位して若い嵯峨天皇が即位する。
その年(809年)ついに「京にのぼれ」と空海の下に勅令がきます。
即位当時まだ二十代の嵯峨天皇は詩書を好み、特に空海の書芸と詩文に惹かれてたのでした。

※嵯峨天皇、空海、そして空海と共に唐に渡った橘逸勢の三人は能筆で、のちに「平安の三筆」と呼ばれていました。

そして朝廷が空海に「住め」として与えたのは高雄山寺(現在の神護寺)であり、ついに平安京をはさんで、東西に比叡山の最澄、高雄山の空海と平安仏教の二大リーダーが並び立ったのであります。

空海が高雄山寺に入ってから、まもなくして嵯峨天皇の使いが訪れます。
このときから空海の、朝廷や天皇と言った「世俗の権力」に接近して、みずから描いた密教思想を広めていく「戦略」がはじまったと言っていいでしょう‥

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大宰府にて。空海が高階真人遠成に「御請来目録」を渡している場面(「高野大師行状図画」より)。
空海(右)が手にしているのが「御請来目録」であると言われています。

槙尾山寺(現在の槙尾山施福寺)は現在西国三十三箇所の4番目の札所であり、ここで空海は2年間すごすことになります。




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