「長安」恵果より密教の体系を受け継ぐ

遣唐使第一船の空海をはじめ23人は、漂着先の福州(現在の福建省)から長安目指して、強行軍で歩みを進めました。その中には遣唐使大使の藤原葛野麻呂をはじめ、後に空海と共に「日本三筆」の一人に数えられた橘逸勢(たちばなはやなり)の姿もありました。そして福州出発から1ヶ月半かかって長安入城を果たしました。
長安に入った空海一行は、外国からやってきた留学生がホームステイする西明寺に寄宿します。
そして遣唐使大使の藤原葛野麻呂は長安滞在2ヶ月で帰国の途につきました。空海や橘逸勢ら留学を義務付けられた者のみが長安に残りました。
ちなみに漂流して空海の第一船と別の場所に漂着した最澄は、当初の目的を果たす為、ただちに天台山に向かい、受戒や国費を使っての経典集めなどを終え、藤原葛野麻呂一行と合流して、長安に入らず帰国しました。

長安に入った空海は各分野の学習に励み、その間にもサンスクリット語を学び、日本にいるときに読みこなせなかった「大日経」を読破出来るまでになっていました。しかし密教の体系を感得する為に必要とされる、「印を結ぶなどの所作」など「手を取って伝授されることが必要」な奥義までは身につけるまでに至っていませんでした。

そして空海は長安入城後およそ半年たった805年の初夏、初めて青龍寺の門を叩きました。
青龍寺の恵果(けいか)は密教の正統後継者である阿闍梨(あじゃり)の地位にあり、インド直伝の密教を中国人で初めて受け継いだ阿闍梨でした。

恵果は空海を見るなり、笑みを含んで歓喜したという。そして空海に「自分は寿命が尽きようとしている。しかし法を伝える人がいなかった。さっそくあなたに伝えたい。」と言い、全身でよろこびを示し、初対面の空海になんと全てを伝えようと、言い放ったのでした。

恵果は空海に出会って一月も経たないうちに、最初の灌頂(密教独特の法の伝授の儀式)を行い、わずか2ヵ月後の8月にはついに密教最高位の法王(大日如来)を意味する阿闍梨位を譲り渡す灌頂(伝法灌頂)を行いました。実はこのとき恵果は病の床にあった。
死期を悟った恵果は、空海に出会う3年前に1,000人いる弟子の中から7人を選抜し、灌頂も済ませていた。しかし最後の伝法灌頂にまではいたっていませんでした。十年以上も修行者を重ねてきた弟子の中には反発する者もいたことでしょう。しかし恵果は頑として空海への譲位の意思は曲げなったといわれております。
青龍寺では二十年以上も修行重ねてきた弟子でも伝法灌頂にまでは至っていなかった事を考えると、わずか二ヶ月で全ての法を伝授する様は本当に凄まじい事だったのでしょう。恵果も空海もほぼ不眠不休で挑んだと思われます。その様子は恵果の弟子である呉慇(ごいん)によれば、「瓶へ水を移すがごとく」であったという。
それにしても空海自身の吸収力も凄まじい。密教の修法の一つで、飛躍的に記憶力を高めるといわれる「虚空蔵求聞持法」を感得していたとはいえ、わずか二ヶ月の短期間、しかも青龍寺であれば他の弟子の中にもこの修法を感得していた者も多くいたはずであることを考えると、恵果の空海を見る眼も間違っていなかったと言うしかありません。

そして恵果は空海に阿闍梨の地位を譲った後、その年の12月にその生涯を閉じました。恵果は遺言で空海に、「請う本郷に帰って、海内に流転すべし‥‥今すなわち授法のあるなり」と言いました。
この恵果の遺言を受け止めた頃、空海は日本帰国を決意したと言われます。

この時、空海にまたまた幸運がやってきたのでした。
空海を送り込んだ遣唐使の次の遣唐使の国使が長安にやってきたのでした。名は高階真人遠成(たかしなのまひととおなり)という高官でした。
空海は高階真人遠成に日本に帰りたい、橘逸勢と共に「この業績を早く母国に伝えるのが私の務めである」と力説したと思われます。二十年の留学期間を朝廷より決められていた空海は「国禁」を犯してまで母国に帰ってこの密教の体系を伝えたいと思ったのは必然的なことでありました。
事実、この遣唐使と一緒に帰国しなかったら、空海の生涯は唐で閉じられていました。次の遣唐使がやってきたのは837年、つまり空海が最後の地、高野山で入定3年後にあたる年なのでした。

空海がやってきた遣唐使が日本出発の一年延期といい、死の直前の恵果からの法の伝授、突然の高階真人遠成の来唐といい、本当に幸運を味方につける空海であります。

丁度その頃、日本では空海より一足早く帰国した最澄が、国費で集めた経典の中に「密教の断片」があったことに朝廷は驚喜し、彼の最大の保護者である桓武天皇は最澄を庇護し、日本の仏教界最高のリーダーとして、最澄が指揮をして諸派の仏教僧侶を集め、灌頂を与えるようにとの命を発している。つまり当時最澄は密教の「国師」と仰がれる立場となっていました。
当時仏教の最先端である、密教の持つ神秘的な力を、自らの権力安定に利用しようとする桓武天皇の意図があったといわれております。
これに対して南都六宗(奈良仏教界)は最澄、そして平安朝廷に強い反発を抱いていました。

もちろん、日本にいる彼らは一留学生の身分の空海が、密教最高位の阿闍梨の地位になっていること、そして彼が日本に帰国することなんて知る由も有りません‥


さあ、空海が日本に帰国して、遂に「日本の歴史」の表舞台に立つ準備が出来たわけです。

空海が師である恵果より、密教の法具を相伝している場面(「高野大師行状図画」より)。

阿闍梨の証である、健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)を今まさに恵果が空海に渡そうとしているところ。

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