「渡海」空海はいかにして唐に渡る事が出来たのか

空海と遣唐使大使である「藤原葛野麻呂」の乗る第一船。(「高野山大師行状図画」より)
四隻の船団のうち、この第一船と最澄と副大使の「石川道益」の乗る第二船は他の二隻と比べて頑丈に造られていたそうです。

船上には空海と大使の藤原葛野麻呂と見られる人物が座っているのが描かれています。
当時の遣唐使船は長さ約20m、1隻に100人あまりの乗組員が乗船したといわれています。

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※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。                                

当時、世界最先端であった国、唐に渡る決意を固めた空海にはふたつの大きな難題がありました。
一つは、唐に渡る為の遣唐使の資格を取る事。
そのためには国家が認めた正式な得度僧(官僧)になった上で、数多くいる同資格者を抑えて選抜されなくてはいけない。
もう一つは、留学資金を短期間でどう集めるかでありました。

当時はまだ山野を駆け巡る「私度僧」であった空海ですが、唐に渡る決意を固めた時点での動きは本当に素早い。

それと空海にとっては願ってもない「幸運」がありました。
空海が唐に渡る前年(803年)、第十六次遣唐使団の船団はすでに大阪の難波を出航してしまっているのであります。次に遣唐使が唐に向かうのは約30年後、つまり空海はそれまで唐に渡るのを待たねばなりませんでした。しかしこの船団は途中に暴風雨に逢い、都に一度引き返したのでありました。体制を再び整えての再度の出航には一年の期間を要するらしい。
それを聞いた空海は喜んだことでしょう。その年(803年)に空海は山から下りてきて、石山寺にてあわただしく得度受戒を受けたのでした。

そして空海の叔父にあたる、都にいる「阿刀大足」(あとのおおたり)という政界の実力者の推奨を受けたと思われます。阿刀大足は桓武天皇の息子である伊予親王の侍講(個人教授)を務めている実力者でもありました。阿刀大足は空海を大学に入れるために自ら儒教などを教えたりして力を注ぎましたが、空海が大学を中退して仏道に進むときに強く反対したといわれています。
空海としては唐に渡る為にはどうしても阿刀大足の力を借りなければならない。阿刀大足としても自分の一族から遣唐使の資格取得者を出すということは名誉でもあるため、一度大学を飛び出したとはいえ、空海をバックアップしたといわれております。

それと留学資金の捻出ですが、この阿刀大足や四国の地方勢力の援助もあったといわれます。それが証拠に空海が唐より帰国後に建てたといわれる寺院が四国には数多くあるし、唐より持ち帰った「請来品」(しょうらいひん)が多くの寺院に納めてあります。
それから「山岳修行者空海」と言う側面から「山の民」からの資金援助もあったといわれています。地下資源を採掘・精錬する技術と独自のネットワークを持った彼等には、「山の仲間」でもある空海が唐から最先端技術(特に精錬術や地質学)を持って帰って来てくれるという期待として資金を援助した可能性があるといわれています。奈良の大仏や多くの仏像が造られたことや、度重なる遷都のおかげで社寺の丹塗り(にぬり)に使う水銀の需要が上昇した影響もあったはずです。

こうした困難をクリアして、なおかつ遣唐使が一年延期なるという幸運もあり、空海は正式な遣唐使として、船に乗り込むことが出来たのでした。

空海は出発に先立って、「白壇薬師像」(びゃくだんやくしぞう)を自ら彫って、航海の平安を祈ったり、自分の姿を描いて讃岐に住む母親の玉依御前(たまよりごぜん)に預けたと言われています。
それほど当時、海を渡るということは危険に満ちたことだったのでしょう。

そして804年、空海を乗せた第十六次遣唐使は難波から出航しました。
やがて暴風雨に逢い、難破し、四隻のうち空海を乗せた第一船と最澄を乗せた第二船が漂流しながら生き残って、大陸に辿り着いたのでした。のちに平安仏教の巨人と言われた二人が生き残ったのも運命なのか‥


色々な「コネ」や利用すべきものは全て利用する、「したたか」な空海。
そして「幸運」さえも見方につける「強運」の空海。
自分の進むべき道を思うように切り開いていく空海の様を見ていると、私は空海と言う人間の凄さというだけでなく、「強運」の理由は、数多くの伝承にあるように、本当に四天王たちやお釈迦様、つまり仏たちにに守られていた為では、と思わずにいられません‥




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