「密教との出合い」 山林に身を投じる 

山岳信仰である「修験道」の創始者である役小角(左)との貴重(?)なツーショット。
(「高野大師行状図画」より)
もちろん、生きていた時代は1世紀ほど違いますが‥

山は日本古来から死んだものの魂が行く場所であり、神や霊が住む「他界」でありました。
その世界に空海は「私度僧」となり身を投じる。

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※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。                                

真魚は奈良の大学、明経科(みょうきょうか)に入って高級官僚育成の為のコースに入りましたが、やがて社会の矛盾にぶち当たりました。
20歳になった彼はついに仏道に入る決心をし、周囲の反対を押し切り、和泉の国の槙尾山寺にて剃髪を行い、東大寺の戒壇院にて戒律を受けて名を「空海」としました。

当時の奈良には「私度僧」(しどそう)と呼ばれる山野を流浪する僧も多く入っていて、街角で怪しげな祈祷を行ったり、山に登って得た神仙の思想を説いていたりしていました。
そして当時の山岳信仰者の間には、まだ「断片的」ですが一部の密教が広がっていたのでした。

※山岳信仰である「修験道」の創始者で、役行者といわれる役小角(えんのおずぬ)は密教の本尊の一つである「孔雀明王」の呪法を全て修得し、空を飛ぶことも出来る恐ろしい人物であると言われております。実際には空海が生きていた時代よりも100年早いのですが、「高野大師行状図画」には両者描かれているところを見ると、空海と山岳信仰との結びつきを強めたいという思想が高野山にあったと思われます。実際に役小角が修験道の道場として立てた寺がその後、空海が密教寺院として再建したと言われる伝承の寺院が多くあります(観心寺や室生寺など)。

そして探究心の強い空海は私度僧になり、当時の人々が忌み嫌う「他界」である山林に身を投じていくわけであります。
大学を辞めてからの数年間の空海の足取りは空白でありますが、四国から近畿の吉野、高野山、熊野まで広範囲にわたって修行に没頭した足跡があります。
そして修行の間にも、奈良をはじめ多くの寺に入って経典をむさぼるように読み漁っていたと思われます。

その後空海は「御遺告」(ごゆいごう:空海の回顧談)によると、室戸で修行中、口の中に明星(つまり金星)が突然入ってきて、悟りを開いたと言う神秘体験を受ける。

そして空海は夢の中でのお告げ通り、大和の国の久米寺の三重塔にて密教の経典である「大日経」を発見するのです。
それまで山岳修行で受けたり、多くの寺院で経典を読み漁って得た「断片的」な密教とは違い、この「大日経」は当時密教最先端の経典であったが、空海がその重要性を理解するまで誰もそれを解せず諸寺の経蔵に埋没していたと言われております。
しかしその「大日経」は経典だけを読むだけでは理解できない部分も多くありました。
教えを乞うことにも日本にはその疑問を答えることの出来る僧などいませんでした。
これが空海が唐に渡る理由の一つとなったわけであります。


自分が疑問に思うことや分らないことがあったりすると、身をもってとことん貪欲に追求する。
空海は本当に「探究心の塊」といか言いようがありません。


そして空白の期間を閉じて彼は船上に現れます。
目指す先は遥か彼方、大陸の唐です。




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