「満濃池」 空海が修築した日本最大の溜池
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※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。                                

全国に広がる弘法大師伝説の中で空海は、あちこちで泉(湧き水)を作ったとか、雨を降らせたとか「水を与えてくれる神」のように崇められていますが、歴史上事実として空海が改修した溜池があります。この池ばかりは伝説でも伝承でもありません。

空海のふるさと讃岐は日本有数の溜池(ためいけ)地帯であります。
瀬戸内は温暖ですが雨が少なく、農業を主体とする地域には溜池を多く作る必要がある。
そんな讃岐にある日本最大の溜池が「満濃池」(まんのういけ)です。

私も昔、バイクで四国を走り回っていたとき一度だけ寄ったことがありますが(このときはまだ空海が修築したなんて知りませんでしたが)、溜池と言うよりこれくらいの規模になるともう「湖」と言っていいほどの大きさだったと思いました。

いつこの溜池が作られたかははっきりしたことはわかりませんが、この満濃池はふもとの集落にかけがえのない農業用水を供給する一方で自然の凶暴な力を剥きだして、たびたび決壊してふもとの人々に多大な被害を与えていました。
江戸時代後期にも決壊して大きな被害を与えており、江戸末期から明治初期に16年間もかけて改修されています。幕末〜明治の政治混乱期であったことを差し引いても16年の歳月がかかったと言うことは近代であっても、この池を相手にすることは容易ではなかったと言うことでしょう。

その満濃池をそれよりもはるか昔、平安初期にたった半年たらずの短期間で修築したのが空海です。
818年に大規模な決壊による災害が発生しており、国司は改修工事に乗り出したが一向に工事が完成を見ない。
「百姓恋ヒ慕フコト父母ノ如シ」(人々が空海を実の父母のように慕っております)と当時の讃岐の国司は請願書を空海に送っております。
当時空海は京都に入っており、真言密教思想の総決算を計る時期に入って多忙を極めていましたが、讃岐のこの請願書を見て土木工事の指揮をとる事を決断したと言われております。

空海が考案したといわれる堤防改修のポイントはふたつ。
一つは堤防の形をまだ当時の日本には見られなかった「アーチ型」にしたこと。現在のダムなどでは当たり前の形なのですが、これにより堤防にかかる水の圧力が分散されて、より水圧に耐えられる、決壊しにくい堤防になるということ。
ふたつめは水抜き路と言える「余水吐き」と呼ばれる設備を付加したこと。雨季になると溜池の水かさがどんどん増えて水量はコントロールが不可能になって、決壊する恐れがある。余分に溜まった水を溜池の外に流し出す調整溝を作ることにより決壊を未然に防ぐというもの。
これらのアイデアは空海が土木建築にも精通しており、唐であらゆる分野で学んだ一つの表れと言えるのかもしれません。しかもこれらの工法で整えられたこの溜池の堤防の基本形は現在に至るまで継承されている。

それよりまして凄いことは空海が「築池使」として讃岐にやってきたのが822年の6月、そのわずか4ヵ月後の9月には帰京していることを考えれば、修築に注いだ集中力、空海の指導力、そして讃岐の人々の空海を慕う気持がこの大修築を短期間に終わらせた原動力になったと言うしかありません。

本当に空海っていう人は「スゴイお方」‥

「満濃池」。
手前にアーチ型の堤防が見えます。
熊手のように突き出た半島の先端で空海が堤防修築の際、工事無事を祈願して、護摩を焚き、土工地鎮の秘法を行ったと言われています。




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