「幼名は真魚」 伝説に満ち溢れた幼少期

真魚がよくした遊びは、粘土をこねて仏像を作ること。
やはり他の子供とは違っています。

空海の幼少期から二十歳の時に出家するまでの足取りは、今では殆ど資料や史実が乏しく、謎に包まれているわけですが高野山に伝わる重要文化財の鎌倉時代の絵巻「高野大師行状図画」によると、多くの伝説に満ち溢れています‥

空海は774年(宝亀5年)に讃岐の国(香川県)に生まれました。
父は佐伯直田公(さえきのあたいだぎみ)、母は阿刀(あと)氏の娘で玉依御前(たまよりごぜん)。
空海は両親から「真魚」(まお)と名付けられ、とても慈しんで育てられたそうです。

生まれてから空海はやはり他の子供とは雰囲気が違っており、好んでした遊びは粘土をこねて仏像を作り、草や竹を刈り取って小さな庵を作って、そこに仏像を安置するというものでした。

そして真魚は常に四天王に守られていました。
ある日、都から遣わされた問民苦使(もんみんくし:天皇から遣わされた役人で地方の人々の暮らしを見て廻った)が四天王に守られた少年を見て思いがけずありがたいものを見たとして真魚を礼拝合掌したという。
問民苦使が普段見えない四天王が見えたのは仏のような気持で人々の声に耳を傾けていたからこそだろうということです。

そしてさらに真魚は「捨身岳」(しんしゃだけ)の頂で「仏法が私の進む道ならば助けたまえ」と願を立て、その身を投げたことがありましたが、すぐに天から天女が降りてきて真魚の体を受け止めたそうです。
(立松和平著「あなただけの弘法大師 空海」より)

日本の歴史上の人物で聖徳太子をはじめ源義経、宮本武蔵など、幼少期に多くの伝説がある人物が多い中、この空海も凄い伝説ばかりですね。

現代からすれば「本当か?」と言えることばかりなのですが、弘法大師を神格化して弘法大師信仰を広めようとして作られたと思われる「高野大師行状図画」、私は広い目で見ると、「仏法を信ずるものは守られ、救われる」というメッセージ(教訓)を私たちに伝える意味もあるのかなと感じます。

天蓋を掲げた四天王たちに守られる真魚(中央)。
他の子供たちには四天王の姿は見えない。

「捨身岳」(しんしゃだけ)の頂から願を立てて、虚空に身を投げると、如来に遣わされた天女がやさしく受け止めて救ってくれた。

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