「高野聖」 全国に広がる弘法大師伝説の始まり

高野聖。彼らのおかげで現在の高野山の繁栄があると言われている。
そして彼らの登場により全国に広がる「弘法大師伝説」が始まったと言われています。

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※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。                                

「高野聖」(こうやひじり)。
聖とは「日知り」から来た言葉で、「日、すなわち太陽のように輝いて、物知りな人」という意味があります。
東大寺を再建させた「重源上人」や放浪歌人「西行」も高野聖出身であるといわれております。

さて高野聖と言うのはどういった集団なのか。
すでに「聖」といわれる半僧半俗で全国を徘徊し信仰を勧進する集団は奈良時代からいたそうですが、高野山では空海が入定後、平安中期に高野山が火災などで一時荒廃したときに、復興資金を喜捨として集める為に全国に派遣された聖を「高野聖」と言います。

彼らは金剛峯寺の正式な僧ではなかったが、高野山の麓に庵であり、修行場である「別所」をいつくか作り、そこから全国に復興資金を喜捨として集めるために高野山から派遣されました。
彼らは全国津々浦々まで周り、弘法大師の奇跡を語り、人々に高野山への納骨を進め、その骨を預かる代わりに相応の寄進を求めたといわれております。

彼らは高野山の霊場信仰を説く「高野山参詣曼荼羅」を持ち歩き、これを人々に見せて、
「‥一番奥の廟所においてお大師様は今も修行を続けながら私たちを見守っておられるのだ。お大師様のおられる奥の院は浄土であるから、ここに骨を納めれば、あの世においてきっと苦しみから逃れられるであろう‥」などと、絵解きしながら人々に説いて廻ったとも考えられております。(「空海の風景への旅」より)

彼らの活躍した影響で全国に弘法大師伝説が広がっていくのでした。
おそらく空海自身が行ったことのない蝦夷から九州まで全国に渡って空海の伝説が‥
蝦夷(松前)にある阿吽寺本尊である「不動明王」は空海が彫ったものものであるとか、東北では空海が杖を差した地面から湧き水がでて「弘法さんの湧き水」として今でも枯れていないとか、淡路島では空海に村人が水を与えなかった為にその村にあった井戸が枯れてしまったとか‥
数え切れないほどの伝説が全国各地にあるのです。
そういう伝説と同じように「弘法大師信仰」も広がっていき、全国の人々から寄進が集まって高野山が発展していくと同時に、時の権力者や貴族による「高野詣」も盛んに行われるようになりました。

その後戦国時代を境に高野聖も衰退して生きます。
全国の戦国武将の「隠密」として情報収集を働いているという疑いを織田信長からかけられ、多くの高野聖が捕らえられ処刑されました。実際には多くの戦国武将たちもこの高野聖を使って「隠密」行為をさせていたということも事実あったのですが、それを境に衰退して江戸時代前期には完全に歴史の表舞台からは姿を消してしまいます。

しかし彼らの活躍がなければ、現在全国に広がる「弘法大師伝説」や高野山の発展はなかったし、真言密教の寺院も全国に建てられなかったことでしょう。

現在、高野山の奥の院にある無数の墓石、戦国武将からあらゆる時代の権力者、そして名もない人々の多くの墓を見るとそう思わずに入られません。




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