「入定」 その後の空海

観賢が入定80年後の空海の髪を剃っているところ。
御廟の地下の石室にて(「高野大師行状図画」より)。

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※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。                                

835年空海は予言どおり「入定」(ここでは宗教的瞑想)に入りました。
弟子たちは入定した空海を現在の奥の院の「御廟」の地下にある石室に移して生前と同じようにおつかえしたそうです。

空海は死んだのか?

「空海は死んだ。しかし死んだのではなく入定(にゅうじょう)したのだという事実もしくは思想が、高野山にはある。」(「空海の風景」より)

言い伝えによれば空海の入定後、80年以上経った延喜(えんぎ)年間、東寺の長者であった観賢が醍醐天皇から「弘法大師」の送り名が勅許されたことを空海に報告しようと奥の院を訪ねて行くと突然奥の院の霧が晴れて空海が現れたそうです。石室にいた空海の髪や口ひげが延びほうだいであったため、観賢は髪や口ひげを剃ってあげて、醍醐天皇から賜った御衣に着替えさせてあげたそうです(「高野大師行状図」より)。
しかし「今昔物語」によると、その後観賢が石室の扉を封印してしまったとの事‥

そして現在。
午前6時に御廟にいる空海に毎日食事が届けられます。それを先導するのは維那(いな)と呼ばれる空海の世話役を代々務める僧侶です。
現在の御廟の中にいる空海の模様は代々維那で他言した人はおらず、そのために現在でも生前と同じ姿で座っているのか、代わりに木像があるのか、何もない神聖な空間に食事を届けたり、引いたりしているのかこの維那以外誰一人知らないといわれています。

で、空海は本当に生きているのだろうか?
弘法大師信仰を信ずる者なら生きて今もなお奥の院の御廟の中で修行を続けていると信じたいし、現実的には「そんなことない」と思うのも一理。

「空海の風景」のあとがきで、作者の司馬遼太郎が、
「‥‥本来零であることを望んだ空海らしくていいようにも思える。」と語っています。

私が思うのはやはり空海はゼロであり、しかも無限なのかもしれません。
ゼロだけど凄い存在感。この一言で締めくくっていいものなのか解りませんがそれ以外思いつきません。

だから現在の空海が(実態として)生きているのか、ミイラになっているのか、無くなってしまっているのかなど考えること自体、「野暮」なのかもしれません。


高野山の言う「入定」。その言葉の意味がほんのちょっと解った気がします‥。

毎日、朝夕2回空海のもとに食事が届けられています。
先頭を務めるのは維那。食事以外にも年に1度空海の命日(入定日)に衣替えを運ぶのも維那の勤め。




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