「同行二人」 遍路旅はお大師さんと共に
※ここに掲載する写真はパンフレットや雑誌等からスキャンしたものです。まずかったら訴えずにまずご一報を。                                

「同行二人」(どうぎょうににん)。
四国八十八箇所の霊場めぐりのお遍路さんたちにはいつでも空海(弘法大師)がついて一緒に歩いてくれている。目に見えなくてもそう思う人のそばに必ずいてくれている‥そういう意味だそうです。

20年くらい前にバイクで四国を野宿しながら走り回っていた時よくお遍路さんたちを見かけました。高知のキャンプ場で自転車で遍路の旅をしている青年に出会い、いろいろ話を聞くと、自分でもなぜ遍路をやりだしたか解らない。ただやっているうちにだんだん「もっと先まで進もう、次のお寺、次のお寺へ‥」という気持ちになってきたそうです。ホントは20番札所くらいで止めて、来年の夏に続きをやりに来ようと思って来たのだがこのまま延長して最後まで行こうと思っているんだと話してくれました。お遍路に関してほとんど知識のない私には新鮮な話ばかりで、いつかまた機会があったら自分でも行ってみたいな、などというような話をしてその時は、自転車の青年と別れました。

遍路の旅は現在では年間約40万人が行うという、国民的レクリエーションになった感じですが、昔は辛いことが起きたり、誰にも訴えることが出来ないものを抱えた人々の魂の救済所であったと言われています。

空海が修行で四国を巡礼した足跡をたどる遍路旅。
遍路の旅の始りは伊予の豪族であった衛門三郎(えもんさぶろう)だと言われています。
ある日、門前に乞食坊主がやってきたので冷たく三郎が追い払うと坊主の持っていた鉢が地面に落ちて八つに割れた。その夜から三郎の八人の子供が日に一人ずつ亡くなっていき、八夜にして全員の子供を失ってしまった。「あの坊さんは弘法大師であったか‥」三郎は大師に謝らねばと考え、大師の後を追って四国中を歩く。しかし大師には逢えずにいた。しかもだんだん三郎の体も弱ってくる。「このままでは生きてお大師様には逢えない」三郎は四国を反対に廻り出した。これなら大師に逢えるはずだ。三郎が大師に会えたのは伊予の道後であった。もうその時は三郎は死ぬ寸前だった。三郎は大師に抱かれて死んでいった。その時弘法大師は三郎の手に小石を握らせた。同じ時刻、伊予の西条で小石を握って生まれた赤ん坊がいた。三郎は生まれ変わったのであった。で、道後の五十一番の札所は石手寺(いしでてら)という。
というのが遍路の始まりで、三郎のように逆に廻るのを逆打ち(ぎゃくうち)といって、難しい願いを持った遍路の歩き方を言うのだそうです。

私の親類にも遍路旅を結願(八十八箇所札所めぐりを達成)できた人がいて、話を聞くとどんなに辛いときでも「同行二人旅」、お大師さんがついてくれていると思っていればそれほど辛いことはなかったと言っていました。

私もいつになるかわかりませんが機会があれば行ってみたいと思います。
宗教には特に興味はなく、別に悩みとか辛いことはないのですが、ただ漠然として行ってみたい。それでもいいかなと思います。
歩き出せば、歩いているうちに「なぜ歩いているのか、どうしてこんなことをしているのか」次第にわかってくると思います。

遍路に関する本もたくさん出てていて、遍路をやっている人の話を読んでいるとやはり信仰には興味はない、ただ漠然として歩き出した人も多いのですが、歩いているうちに「自然がこんなに美しいものとは思わなかった」「人間も自然の一つなんだと感じた」「自分に自信がついた」「小さいことでも感動できるようになった」など、やってみてよかったと言うコメントがほとんど。
20年前に出会った自転車遍路の青年を思い出しました。

遍路を始める理由はどうあれ、弘法大師が一緒について歩いてくれるって思うだけで、なにか元気が出そうで、定年退職後(まだ20年近く先ですが)に「いっぺん行ってみようかな」と本気で考える私でした。

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「同行二人」。
お遍路さんたちには弘法大師がついて一緒に歩いてくれています。




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