「熊野那智」すべてが観音浄土への入り口 (和歌山) .

雨に煙る「青渡岸寺」の三重塔。そして向こうに那智の大滝。
垂直130mの滝は山と海をつなぎ、天と地をつなぐ。
古くから名高い観音霊場として人々の信仰を集めてきた。

上皇たちの「熊野詣で」

鳥羽上皇23度、後白河上皇33度、後鳥羽上皇28度…
これは上皇たちの御幸、つまり「熊野詣で」の回数。白装束に身をまとい、一度の御幸に約一カ月かけて数百人のお供を連れ杖をついて歩いたという。
これほどまでに上皇たちを惹きつけた熊野。
紀伊半島、特に熊野は我が国有数の降雨量の多い地域で、一雨降るたびに山、森、川など全てが霧に覆われ、太古からの自然が息づく峻厳な地域だからこそ、神仏の宿る場所とされてきたのでしょう。
古くからこの地で行われてきた山岳信仰に神仏習合が融合して、熊野は観音霊場の聖地として栄えてきたのでした。


天と地を繋ぐ大滝

熊野一帯にある「熊野大宮大社」「熊野速玉大社」とならぶ「熊野三山」の一つが「熊野那智大社」。
御神体は那智の大滝。高さ133m、幅13mは日本最大。
天と地を繋ぐ大自然の造形は太古から人々の崇拝を集め、仏教伝来と同時に神と仏の宿る聖地として崇められるようになった。
のちにこの滝の周辺から、経典や小さい仏像を納めた筒が発見され、この滝の一帯が「経塚」であったことが判明。「経塚」は釈迦入滅後して56億年後に弥勒がこの世に現れるまでに釈迦の教えが滅ばないようにと、後世のために経典や仏像を筒に収めて地中に埋めて保管するために始まったものであり、この滝が古くから人々の浄土であったことは間違いないのでしょうね。
この滝を「神聖にしてエロチック」と白洲正子は言う。
相反する例え方なのですが、それだけ神秘的に白洲正子には映ったのだろうか…


海から来た者

熊野那智大社に寄り添うように位置するのが「青渡岸寺」。
この青渡岸寺の歴史は古く、仏教が我が国に伝来した六世紀よりも以前、四世紀のころ、那智勝浦にインドの僧侶ら7人が漂着する。その一行のなかの「裸行(らぎょう)上人」が那智の滝で修行して、如意輪観音の霊験を得て、滝のそばに庵を結んだのが青渡岸寺の始まりと言われています。
天から降り注ぐ大滝。つまりこの那智の地は、滝によって天と繋がっている聖地ということなんでしょうね。
この滝で修業中の裸行上人に天から神が降臨するがごとく、如意輪観音が目の前に降りてきたのだろうか…
その後神仏習合の修験道道場となり、平安時代には西国三十箇所の一番の札所として発展をとげるのでした。
現在の本堂のすぐ横には熊野那智大社の拝殿が建つ。これほどまでに「神仏習合」を感じさせるお寺はめったにないと思う。


海へ向かう者

青渡岸寺の南に位置する、那智勝浦の海のそばにある「補陀洛山(ふだらくさん)寺」。目の前には雄大な太平洋が広がる。
かつてこの海の向こうに「補陀落山(ふだらくさん)」と呼ばれる観音菩薩の浄土があると信じられていて、小さな船に経典とわずかな食料を積んで船出していった僧たちがいた。まさに「生きたままの水葬」。
貞観10年(868)の慶龍上人をはじめとして、25人の僧がこの地から船出して観音浄土を目指したという。この補陀洛山寺には25名の名を刻んだ碑があるという。
桃山時代にこの地を訪れたあるキリスト教宣教師が、本国への報告に「渡海する者はおおむね明るく、暗さは一切感じられない。そして渡海船の船底には、小さな栓が設けられていて、それを抜くことにより自ら海中に沈んでいくという…」という記録を残している。
自ら浄土へ向かい、そして永遠の「生」を得るというのか…
井上靖の短編小説「補陀落渡海」はこの補陀落信仰を題材にした物語で、渡海が決まった住職の心の葛藤を見事に描いたもので、私はこの小説を読んで当時の人々が憧れた浄土に続くこの海を是非見てみたいと思うようになってきました。



海の彼方から来た裸行上人。海の彼方にある浄土へ向かう者たち…
天から落ちてくる大滝…
神の宿るとされてきた熊野の山…


まさに山・滝・海、この全てが観音浄土の入り口といえる熊野那智。

いつかは行ってみたい…

復元された「補陀落山渡海船」。
中央の屋形に僧が入って沖に流されると言う。

那智勝浦の夕日。
この夕日を見て、観音浄土に思いを寄せ、船出していった人々がいたのでした。

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熊野の山々。
かつて上皇たちはこの地を目指して御幸を重ねた。

「那智の大滝」。
まさに天と地を繋がっている聖地。




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