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連続「遣唐使」の内容構成の違い

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 この時の遣唐使団は、その前の遣唐使船が東シナ海を直接横断しようとして「遭難」したこともあり、より安全と考えられる「新羅道」という「新羅」経由でのルート(北路か)を経由しようとしたため、団の構成をより「親新羅」的にするために必要な人材を選抜したものと考えられます。
 「押使」という「高向玄理」を始め、かなりの数の「親新羅系」の人物が遣唐使中にいたのではないかと考えられ、当初より「親新羅」的人物が選抜されていると考えられます。
 それを示すようにこの時の遣唐使団とその前年の遣唐使団については「書紀」の表現が著しく異なります。以下に相違を示します。

1.「白雉四年」の遣唐使を派遣した記録には「日付」が書かれているのに対して、「白雉五年」の記録では「月」しか書かれていません。

2.「白雉四年」の遣唐使は、参加した人数が「百二十一人」「百二十人」と明確に記載されているのに対し、「白雉五年」の方には「概数」さえ記載されていません。

3.共に「二船」に分乗しているわけですが、「白雉四年」の方は各々の乗船者がかなり細かく書いてあるのに対し、「白雉五年」の方はまったく触れておらず、「誰」が「どちら」に乗っていたか、不明となっています。

4.また、この乗船者については、「白雉四年」側には「父親」の名前などの補足の記録があるのに対し、「白雉五年」には皆無です。

5.さらに、「白雉四年」の方は各々の船に「送使」がいるのに対し、「白雉五年」の方は「送使」がいないのか、書かれていません。

6.「白雉五年」の遣使の使者の冠位は「後の時代」の冠位が書かれており、この時代のものではありません。これを補足・修正するように「或本伝」という形で別の情報が記載されていますが、「白雉四年」の方の冠位は当時の冠位そのままが書かれているようです。

7.また、帰国した使者に対する対応も違います。「白雉四年」の使者が帰国した際には「唐皇帝」から贈り物をもらい、それを「倭国王」に進上し、「倭国王」から労をいたわられ、「褒美」を下賜されていますが、「白雉五年」の使者が帰国した際には、ただ「帰国した」という記事だけであり、功績が顕彰されていません。

8.「白雉五年」の遣唐使は「新羅道」を経由して唐に入国していますが、「白雉四年」の航路は「南路」という「東シナ海」を直接横断するルートを採用しています。

 以上のように「白雉四年」遣使が緻密な記録であるのに対し、「白雉五年」遣使は非常に「大まか」な記録になっており、これは「書紀」編纂時の参考資料の「多寡」の差があったものと考えられ、「白雉五年」資料が「希薄」であったことを物語っているようです。
 この二つの「遣唐使」が同じ「機関」により派遣されたとすると、資料の「不均衡」の説明が付きません。「伊吉博徳」の「言葉」として書かれた「細注」についても、「白雉四年側」だけに偏った情報であるように思われ、資料としてアンバランスであると思われます。
 このことは「八世紀」の編集者は「白雉五年」の「遣唐使」について十分な資料を保持していなかったことを示すと考えられ、その派遣の主体が「八世紀」の「王権」に直接つながるような存在ではないことを物語っているようです。
 「遣唐使」という重要な外交に関する記録が不十分な形でしか残っていないのは不審と考えられますが、それにはある理由が存在していたと考えられます。これは「六八六年」に起きた「難波宮殿」の火災事故が深く関係していると考えられます。
 この火災では「僧の公験」に関する書類が紛失し、そのことが、「聖武天皇」の「白鳳以来朱雀以前年代玄遠」という発言につながるわけです。このことは、この時「焼失」した「書類」はそれだけではなく「広範」に亘るものであり、その中には「宮廷内記録」「外交記録」などもあったものではないかと推定され、「書紀」編纂時に「近畿王権」資料が多く、「倭国王権」資料が少ないこととなっている原因となっていると考えられます。
 つまり、資料の豊富な「白雉四年」の遣使は「近畿王権」主体の遣唐使ではないかと考えられるのに対して、資料の稀薄な「白雉五年」の遣唐使は「倭国」(「筑紫」)勢力によるものという推察が可能ではないでしょうか。

 「難波」に副都を設けたことにより「近畿王権」の占める比重が大きくなったことが「遣唐使団」の中枢を占める事となったと考えられますが、「近畿王権」は「百済」からの渡来氏族が多く、そのためもあり「新羅道」(「北路」)を取ることを避けたものでしょう。
 そして、その結果の「遭難」となったものと推察されます。これに対応するため「筑紫」の「旧主流派」とも言える「新羅系氏族」を中心とした選抜メンバーにより後続の遣唐使団が急遽編成され、続けて発遣されたものと推察されます。
 「新羅」が「唐服」を着用して現れた際にこれに激怒し追い返した中心人物は「巨勢氏」と考えられますが、彼らは「百済系」」の渡来氏族と考えられ、彼らが中心メンバーとして「難波朝廷」内で発言力を増していたことが「遣唐使団」の構成にも影響を与えていたものと思料します。
 彼は「高向玄理」と同時期に同じ位階を持っていたものですが、その後「位階」に差が付き「高向氏」の上を行くようになります。それは「新羅系」と考えられる「高向氏」が「非主流派」になったことを示していると考えられるものです。


(この項の作成日 2011/04/28、最終更新 2013/07/10)

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