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「日本帝皇年代記」について

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 二〇〇四年と二〇〇五年に相次いで発表された「『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介」(「山口隼正」長崎大学教育学部社会科学論叢vol.64, 2004)という研究報告があります。
 「入来院家」というのは「鹿児島県」の旧家であり、「鎌倉時代」にこの地に「地頭」として移り住み、その後「当地」で地位を高めた存在となっていったわけですが、「入来院文書」というものを残したものです。それらは現在「東京大学史料編纂所」にて所蔵されています。
 しかし、この「史料」には「欠番」があり、「史料編纂所」で改めて「入来院家」にて捜索したところかなりの部分が残されていることが確認され、その中に「日本帝皇年代記」という史料があったものです。
 この「年代記」の内容を上記「山口」報告により、今般「ネット検索」で閲覧・確認した結果、以下の点について気がついたので、列挙し検討してみます。

1.「年代記」の中の「白鳳十年」(庚午)の項に「鎮西建立観音寺」とあって、「観世音寺」の「創建年」が「六七〇年」であると言う事が述べられていますが、これは「古賀氏」などにより明らかにされつつあった「観世音寺」の創建時期について、更に「補強」されたこととなると思われるものです。
 ところで、同様に「六七〇年」(白鳳十年)を「創建年」と記す「勝山記」もそうですが、ここでは「観音寺」というように「本来」の「観世音寺」という名称ではなく、「唐」の「太宗」の諱「李世民」の「世」が避けられている表記となっています。それに対して、同じ「年代記」中の「和銅二年」の条には「詔筑紫大宰府観世音寺…」とあり、ここでは「世」が避けられていません。これは当然、避けられていない方が「古い史料」から採ったもので、避けられている方が「新しい史料」から採ったものと判断されます。(「記事の時系列」とは逆になるわけです)それは「鎮西」という用語でも判ります。
 この「日本帝皇年代記」中では「寺院」の創建は必ず「創建者」が書かれており、それに該当するのが「鎮西」という用語ですが、これは後の用法においても「大宰府」を示すものであり、「観音寺」という表現と共に、後代的表現と思われますが、より内在的には「九州倭国王権」の意思というものが「鎮西」という用語に現れているとも考えられと考えられるものでもあります。
 
 このように、この「年代記」は「新旧」各種の資料を校合していると思われますが、現行「日本書紀」は見ていないのではないかと疑われる部分がいくつかあります。それは例えば「壬申の乱」の記述を見ると理解できます。
 「天武天皇」の部分の「白鳳十二年」(壬申)の欄外上部には以下のようにあります。

「或記云、天智七年東宮出家居士乃山之時、大友皇子襲之、春宮啓伊勢国拝、大神宮発美濃・尾張之兵上洛、大友皇子発兵而於近江之国御楽之皇子遂被誅畢、その後東宮還大和州即位云云」

 この記事は「壬申の乱」の描写であると考えられますが、その依拠した資料について「書紀」ではなく「或記」という表記になっており、明らかに「書紀」が念頭に入っていない(あるいは見ていない)ことが知れます。内容も「書紀」と異なり、「出家」して「山」にいたところを「大友皇子」に「襲われ」、「伊勢神宮」に知らせたところ、「伊勢神宮」(大神宮)が「尾張」「美濃」の軍勢を派遣したとされています。「大友皇子」も「近江」の「御楽」で最後を迎えるとされています。
 また、その直前の「白鳳十一年」(辛未)にも以下のような書き方がされています。

「白鳳十一年」(辛未)「役行者上金峰山、…天智之皇子出家入吉野宮、此義未審」

 この文章の末尾に「此義未審」つまり、「詳細不明」と書かれているわけですが、「壬申の乱」は現行の「日本書紀」を見ると「内容」が最も詳しく、最も行数を割いて書かれており、これを「未審」という一語で済ますことは本来出来ないはずです。 
 「帝皇」の「年代記」を書こうとする人物が「書紀」を見ないとか知らないとか、或いは知っていても「或記」というような表記、表現を「書紀」に対して使用するというようなことは全く考えられるものではなく、この「年代記」の中で上のように「書紀」の存在が希薄であるのは、この記事の原資料となったものが「現行書紀」が編纂される「以前」のものであるという推測が可能であると思われます。

 また、この「壬申の乱」について古代において異説があり、伝承に混乱があったことは「年代記」中の以下の二つの記事でも分かります。

「白鳳十九年」(乙卯)の条「或云此年大友皇子起叛逆」
「朱雀元年」(甲申)の条「依信濃国上赤雀為瑞、去年十一月受禅、不受出家居吉野山、大友皇子事也…」

 上の二つの資料は相互に全く食い違っており、しかもその二つとも「白鳳」の欄外の記述とも異なっています。このように、「壬申の乱」が「壬申」ではない年次に起きたものという複数の「説」或いは「伝承」があったことを示すものです。

 また、この「年代記」の「原資料」が「書紀」はもとより「続日本紀」をも参照していないと云うことは以下の記事からもいえます。
 「続日本紀」によれば「大宝律令」の撰定とその公布に関しては「大宝元年」(七〇一年)のこととされているわけですが、「年代記」中では「大化三年」(丁酉)の条に記載されています。

「大化三年」(丁酉)の条「八月一日帝即位、定律令、参議始随官位定衣服云々」

 この「条」は「西暦」では「六九七年」であり、「文武即位」の際に「律令」が公布されたことを示すと思われます。
 ところで、「木簡」の解析などから「七〇一年」に「評制」から「郡制」へ移行されている事が判明していますが、この「移行」が「完璧」であり、全国一斉に「郡制」に移行したことが知られます。これは「前もって」準備があって然るべき事実であると考えられていたわけですが、「律令」の公布そのものが「七〇一年」より以前であるとすると、非常に納得のいく話であると考えられます。
 「律令」が公布され、それに基づき「行政制度」が変更され、実施(施行)されるというのは順序として整合的であり、実態として「六九七年」は「公布」、「七〇一年」は「施行」という事であったと見るべきでしょう。

 また、「命長六年」(乙巳)「或本大化元年、六月帝即位…」とあり、ここでは「蘇我」を打倒した「大化改新」についての記事が一切ありません。「大化の改新」も「壬申の乱」も「八世紀」新日本国にとっては重要且つ画期的な出来事であったはずであり、これらのことが明確・詳細に記されていないということを考えると、この「年代記」が参照した「原資料」(「現行」の「日本書紀」の以前の「記録」、「日本紀」や「日本紀」の更にまた「原資料」となったもの)には、「大化の改新」もなければ、「壬申の乱」もなかった、と言う事となると考えざるを得ません。

2. また「和銅三年」(庚戌)の条に「三月従難波遷都奈良」とあり、これはあたかも「平城京」の前の「キ」は「難波」にあったかのようです。この記事は「現行書紀」にある「六八六年」(朱鳥元年)のこととして書かれている「難波宮殿」の「焼亡記事」と明らかに「矛盾」するものですから、「書紀」の「火災記事」に対する「疑いの念」を起こさせるものです。
 考古学的には「前期難波宮」が「火災」にあったのは間違いないと考えられますが、それが「六八六年」のことであったのかどうかは「不明」であり、実際の火災の年次は異なっていたという可能性も考えなければなりません。それと関連していると考えられるのが「藤原宮」の完成が非常に遅かったという事を示す「木簡」の記録です。
 「藤原京」発掘から出土した「木簡」についての解析から「宮殿完成」は「七〇四年」以降であると言う事が確認されています。更に「平城京」の遺跡から「藤原京」から運び去られた材料が大量に発見されており、平城京の建設の過程で藤原京は解体されたこととなります。しかし、「平城京」の完成が「七一〇年」であるとすると「藤原京」時代は圧倒的に短期間であることとなり、「本当に」「宮殿として使用されたのか「キ」は「藤原京」であったのか、重大な疑問が出てきます。もし「藤原京」が「未完成」のまま「解体」され、その施設資材が「平城京」建設に転用されたとすると、「宮殿」は使用されなかったこととなりますが、その時点付近で「宮」(京)として使用されていたのはどこであったのかと云うことになります。「飛鳥宮」では「首都機能」が貧弱であり、ここでは官僚達が公的業務をこなすことは出来なかったものと思われますから、集約的に官僚統治機構が備わっていたのはこの当時「難波京」しかなかったと思われます。 そうすると「火災」にさえ遇わなければ、「難波京」はそのまま存続していたものと思われ、「火災記事」に疑問が生じます。その場合この「平城京」完成時点での「首都」機能は「難波京」にあったということとなるものと思われ、それを示すのが「年代記」の記事であると言う事となるのではないでしょうか。

3.また「諱」が記事として付加されるのが「継体」以降であるということも注目すべきでしょう。
 「継体」以降「諱」が付加されるようになりその太子である「安閑」以降は「尊」という尊号も付加されるようになります。以降を見てみると「崇峻」と「推古」では「尊」号が付加されなくなります。その後「舒明」でまた復活し「皇極」の「姫」号を経ますが、「孝徳」で「諱」として「軽」と「天萬豊日尊」が併記されます、これは「天智」に受け継がれ「諱」として「葛城」と「中大兄天命開別尊」が併記されます。そして「天武」以降「尊」号は付加されなくなるという経過をたどります。
 これらを見ると、「継体」の代に「諱」が付加されるようになるということに重要なポイントがあるでしょう。一般にこれは「磐井」と同時代であり、その「磐井」が「墳墓」の様子を記した「風土記」の記述から考えて「律令」が施行されていたことを窺わせるものであり、それはその「磐井」の王権の強さが前後比類ないことを示すものということになるでしょう。彼と同じ時代と考えられる「継体」で「諱」が付されるようになるのは、「磐井」の権力についての事実の換骨奪胎ではないかと思われます。なぜなら「磐井」の墳墓といわれる「岩戸山古墳」についての「風土記」の記述から考えて、彼の時代に「律令」が施行されていたという可能性が高く、そのような強い権力と「諱」が付加されるというのは関連して事象であると考えられるからです。

 ちなみに「書紀」では「基本的」には(「神武」を除き)どの天皇にも「諱」が付されていません。唯一「仁賢」だけに「諱」と「字」が書かれています。それによれば『どの天皇にも「諱」も「字」もないがこの天皇だけにあるのは「旧本」に拠った』とされています。

「億計天皇。諱大脚。更名大爲。自餘諸天皇不言諱字。而至此天皇。獨自書者據奮本耳。字嶋郎。」

 しかし「神武」には「諱」があるわけですから、この「記事」とは矛盾しているわけであり、その「旧本」段階では「神武」には「諱」がなかったか、「神武」そのものがいなかったかいずれかと思われます。いずれにしろ「仁賢」段階で「諱」が始まるということには当然意味があると思われます。
 この「仁賢」は「書紀」の代でみてみると「武烈」の父でありその「武烈」と「継体」とはほぼ同時代と言えますから、この「諱」表記の初出時点は「日本帝皇年代記」と「書紀」でほぼ同時とも言えるものであったことが知られます。

 「諱」というものが「本名」が生前中は明らかにされず死後公表されるというものであることを考えると、この時点付近で「王」の「実名」というものを口にするのがはばかられる「崇高さ」というものを「王権」が身につけたことを示すと考えられ、王権の強度がそれ以前に比べ格段に上がったことを示すと考えられます。つまり、「王権」の神聖性が高まったことにより「王の実名」は口にすることができなくなったことを示すものと思われるわけです。このことと上に見た「律令」施行とは深く関係していると考えられ、いずれも中央集権的制度とそれを実施・施行できる権力の強さを示すと考えられます。
 「磐井」との戦いの後に「諱」が発生するという意味は、「磐井」の持つ権威の高さとの対応であるということも考えられるでしょう。

 ところで、この「諱」とよく混同されるものに「諡」(おくりな)があります。これは「死後」贈呈されるものであり、制前の業績その他を踏まえた上で決定されるもので、「和風」と「漢風」があり、当初は「和風諡号」だけであったと思われます。
 この「諡号」については「元正」の時に「諡号」については「土地名」を付加し、その下に「朝庭馭宇天皇」とするだけでよいと遺詔しています。
 
冬十月丁亥条」「太上天皇召入右大臣從二位長屋王。參議從三位藤原朝臣房前。詔曰。朕聞。万物之生。靡不有死。此則天地之理。奚可哀悲。厚葬破業。重服傷生。朕甚不取焉。朕崩之後。宜於大和國添上郡藏寳山雍良岑造竃火葬。莫改他處。謚号稱其國其郡朝庭馭宇天皇。流傳後世。…」

 このように「諡号」については「死後」定められる性質のものであり、「生前」から既に名付けられていた「本名」である「諱」とは全く異なるものです。

 「舒明天皇」のところでは「諱」の他に「号田村帝」とあります。この「日本帝皇年代記」の天皇記事の中に「号名」表示があるのは「舒明」だけであり、また文章中では「帝」は一般的に「天皇」を意味する用語として使用されているものの、「諱」や「号名」として使用されているのはこの「田村帝」という表記だけです。
 この「舒明」の時代はちょうど「隋書倭国伝」に登場する「倭国王」「阿毎多利思北孤」の「太子」とされる「利歌彌多仏利」の時代に重なっており、彼は諸々の理由により、始めて「帝」を名乗った人物と考えられ、また「聖帝」「大雀皇帝」と称された「仁徳」と重なる人物であることを考え合わせると、その「利歌彌多仏利」と重なる「舒明」だけが「帝」という「称号」を持っているとされていることは象徴的なことではないかと思われます。

4.また、この「年代記」に現れる「九州年号」を以下に記します。(「年号」の次は「年数」、続いて「元年干支」です)

「大化」(六年)(乙未)/朱鳥(九年)(丙戌)/朱雀(二年)(甲申)/白鳳(二十三年)(辛酉)/白雉(九年)(壬子)/常色(五年)(丁未)/命長(七年)(庚子)/僧要(五年)(乙未)/聖徳(六年)(乙丑)/仁王(六年)(癸未)/和縄(五年)(戊寅)/定居(七年)(辛未)/光元(六年)(乙丑)/願転(四年)(辛酉)/告貴(七年)(甲寅)/端正(五年)(己酉)/勝照(四年)(乙巳)/鏡常(四年)(辛丑)/賢称(五年)(丙申)/金光(六年)(庚寅)/知僧(五年)(乙酉)/師安(一年)(甲申)/蔵和(五年)(乙卯)/兄弟(一年)(戊寅)/法清(四年)(甲戌)/貴楽(二年)(壬申)/明要(十一年)(辛酉)/僧聴(五年)(丙辰)/教倒(五年)(辛亥)/正智(五年)(丙午)/善記(四年)(壬寅)

 これらの年号配列は「二中歴」ものとは微妙に異なっています。「二中歴」では「仁王」が「十二年」(六二三−六三四)続きますが、「年代記」では「六年」だけでその後は「聖徳」になります。この「聖徳」は「山上堂由来書」「園城寺伝記」などいくつかの史料に記事が散見されるものですが、「正木氏」の研究により「利歌彌多仏利」の「法号」ではないかとされているものです。しかし、ここでは明らかに「年号」として処理されていると見られます。
 また同様に「法号」と考えられている「法興」以下の別系列(「始哭等」)はここでは全く姿を現さず、確かに「年号」ではなかったという可能性が非常に高い事を示唆するものと言えます。それと関連すると思われますが、「法興寺」の創建についても何も書かれていません。(この「法興寺」は「元興寺」とは別とは思われますが、その「元興寺」についても創建年次が書かれていません)
 「勝照三年」(丁未)の記事では「(物部)守屋」を「誅」した後の記事は「四天王寺」が建てられたと云うだけで「法興寺」については書かれていないのです。
 このことも含めた特に「聖徳太子」に関わる事柄が多く書かれていると考えられ、寺院建立も「太子関連」が多いのですが、「蜂岡寺」(広隆寺)の他「橘寺」についても「太子」の講読に対する天皇の感激の結果であるとされています。

「光元二年」(丙寅)「七月太子着袈裟坐獅子座、講勝鬘経講己天両花大三尺也、帝大喜則其地建伽藍、今橘寺是也…」

 しかし、「常住していた」とされる「斑鳩寺」については何も書かれていませんし、「光元三年」(丁卯)(六〇七年)の事として、「妹子」を遣隋使として派遣したとされている同じ年次で「法隆寺」の建立は書かれているものの、「焼亡事件」には何も触れられていません。
 これらのことを通じていえることは、かなり早い段階の史料を見ながら書いているようであり、現行「書紀」や「続日本紀」の記述と食い違う点が多々あることです。これは明らかに「独立史料」であり、「書紀」や「続日本紀」に依拠した二次資料とはいえないこととなります。


(この項の作成日 2012/08/28、最終更新 2013/12/22)

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