「4年前な」
   ぼそぼそとつぶやくように須並は語り始めた。

   「・・・起きてるか、スギ?」
   「聞いてますよ」杉下は答えた。

   ホテルはひっそりと静まりかえり
   彼らの他に誰かが起きている気配もない。

   「覚えてるだろ」
   「・・・あれですか。はい」

   「当時応援していただろう。お前も」
   「ええ」杉下は正直に頷いた。

   「やっぱり、がっくり来たか」
   「・・・来ました」

   「恨んだろうな」
   「・・・・」

   「どうだ?」
   「・・・すいません」

   「お前は正直だ」須並は笑い出した。
   「そりゃそうだろう。俺だって腹を立てるぞ。
   インターナショナルカップ出場を目の前にして
   たった一つのファウルでふいにされたんじゃあ」

   「でも、その時は僕もプロでしたから」
   杉下は顔を上げて、まっすぐ須並を見つめた。
   「スナさんが一番つらい筈だと思いました」

   「とりつくろわなくてもいいぞ」
   「本当ですよ。愛国心ではスナさんが一番ですから」

   「その事なんだが・・・」
   須並が声のトーンを落としたが
   杉下には何だか彼が面白がっているように聞こえた。
   「俺が、日の丸を本当に愛してると思うか?」

   しばしの沈黙があった。杉下が口を開いた。
   「どういうことです」

   「言った通りだよ。俺は日本代表を裏切ってる」
   杉下は須並を見つめた。

   うっすらと自嘲気味の笑いを浮かべてはいるものの
   その様子はふざけているようには見えなかった。

   「それは・・・一体・・・」
   イカサマでもしていたという事なのか。それとも・・・
   杉下にはまったく理解出来なかった。

   須並が再び静かに口を開いた。

   「4年前のあれがあって俺は日本に戻った。
   その時の騒動は知っているだろう。
   まるっきりA級戦犯の扱いだった。たった一度のミスでな」

   「ええ・・・」

   「俺のHPは、抗議のメールでいっぱいだった。
   テレビでもやいのやいのとやじられた。
   確かに俺はミスをしたし、そのせいで負けた。
   だがチームが思ったようにうまくいかなかったのも事実だ。
   サッカーでは何があるかわからん。特に本番では」

   杉下は自分たちのことを思った。

   格下相手にギクシャクして
   ベテランの手を煩わせた彼らは
   本来の実力が出せず、全く精彩を欠いた状態だった。

   「自分が悪いという事実から逃れることは出来ないが
   それを全部しょいこめるほど俺は神経が図太くもない。
   プロらしくない、潔くない態度だな。 
   お前さんにはわからんかもしれんが」

   「わかりますよ」
   杉下は力強く繰り返した。「それはわかります」

   「・・・とにかく、俺は全てが嫌になった。
   むろん俺を擁護し、応援する声もあったさ。
   激励のメールや手紙もたくさん来ていたし
   チーム関係者の中にも
   何くれと気を使ってくれる人は多かった。
   行きつけの食堂のおばちゃんまで
   俺を元気づけてくれたりな。
   だが当時の俺には『頑張って』という言葉は
   うつろにしか響かなかった。
   日本代表なんぞ、と考えたよ。
   俺が今まで熱を上げて来たこと、それに何の意味がある?
   果たしてその見返りを得ることは出来たのか?
   あの日の丸から?あの君が代から?」

   杉下は黙ったまま聞いていた。

   グラスの中の赤い液体を、須並は一気に飲み干した。
   「中途半端な奴の、日本によせる愛国心は
   漠然とした好意でしかない、そう思わないか」

   「スナさん・・・」

   「俺はそのことに気づいた。
   砂漠の国の真剣勝負では
   俺の愛国心などは何の役にも立たなかった。
   ただただ、ミーハーな感情に溺れていただけだ。
   それを理解した瞬間、することが無くなった。
   サッカーを続ける意義さえ見失ったよ」

   「・・・・」

   「それからは荒れっぱなしだった。
   クラブにも顔を出さず、ずっと家に閉じ篭っていた。
   酒で気分を紛らわせたりな。どん底は1週間続いた。
   もっとも、それだけしか続かなかったという方が正解だが
   一体何故だと思う」

   杉下が暫く考えて、口を開こうとした時
   須並はゆっくりと手をかざして電話ボックスを指差した。

   「娘さ」
  
   その声はこころなしか震えていた。

   「初めて生まれたんだ・・・俺の娘だ。
   俺は父親になった・・・だから・・・」


   杉下はさっき漏れ聞いた会話をぼんやりと思い出していた。
   彼女は今年で4才になる。その名は、確か。

   須並はそのまま涙声で話し続けた。

   「・・・難産だった。
   嫁さんも病弱だったから
   無事生まれるかどうかはわからなかったんだ・・・。
   じっさい前に一度流しているしな。
   だがようやく・・・出来たんだ。30にして。
   未熟児だった。体重がひどく少なくて
   出てきてもなかなか泣かなかったらしいよ・・・。
   でもそんな事はどうでもいい。
   無事に生まれてくれりゃあこっちのもんだ。
   あとは、その子を幸せに出来るかどうかってのは
   親の責任じゃないのか?
   つまり俺の頑張り次第ってことじゃないか。なあ?」

   「陽子ちゃんという名前は」
   杉下は静かに言った。「スナさんがつけたんですか」

   「聞こえてやがったのか」
   須並は鼻をすすりあげた。
   「畜生・・・いかんな。こういうキャラじゃないんだが」

   「スナさん」

   「名付けたのは家内さ。病院のベッドで言われた。
   『あんたは日の丸馬鹿なんだから』って。
   そうだな、と思った。ふっきれた。そうだ。
   俺に取り柄が、何か生きる価値があるとしたら
   それはサッカーと、日本代表だけなんだ。
   それ以外のことで娘にいばることなんか
   父親として胸を張れることなんか俺にはないんだって。
   それからさ・・・俺はフィールドへ舞い戻った。
   監督とオーナーには真っ先に土下座したよ」

   「素敵な女性ですね」
   「何、誰が?」

   「奥さん」
   「なに、口うるさい。クリスチャンだから」

   「そうなんですか?」
   「お前は結婚しないのか」

   「彼女はいますが、今のところは・・・」
   「早く済ませた方がいいぞ」

   「矛盾してますよ。言ってることが」
   「うるさい。なあ、知ってるかスギ。
   嫁さんに聞いたんだがな」

   「何です」
   
   「キリスト教徒が、銅像に向かって祈るだろう。
   だが偶像崇拝っていうのは厳禁なんだそうだ。
   で、彼らは何をやっているのかと言うと
   彼らは、つまりうちの家内もだが
   マリアさまやイエス・キリストの像を通じて
   神様に祈りを捧げてるんだそうだ。
   今では俺も同じ立場さ。
   入信したという意味じゃなくて・・・
   つまり、つまりなスギ」

   「ええ」

   「つまりは、今では俺はあの、赤い丸の向こうにある
   一番大事なもののために戦っている。それが」

   須並は言葉を切り、大きく息をして言った。
   「俺が日の丸を愛していない、一番の理由だ。
   ・・・わかるだろう」


   杉下の記憶の中を、さっそうと左サイドバックが駈けていた。

   皆はこう噂した。
   彼は地獄から戻り、一回り大きく成長した。
   見ろあの楽しそうなこと・・・。

   なんと頼もしく見えること・・・。


   「スギ。お前は、日本が好きか」
   須並は尋ねた。杉下は大きく頷いた。

   「ええ。大好きですよ・・・」

   「俺もだ。この年になるまで、
   いっぱいいろんなものをこの国から貰った。
   あったかいサポーターや、友人や、
   親や兄弟、妻や娘。サッカーそのもの。
   今やってるのは恩返しだよ。
   日本代表をベルギーに連れていくこと。
   ほんの些細なことだが
   それで少しでも貢献できたら安いものだ。
   もっとも俺はそれしか出来ないんだが。
   ・・・なあスギよ」

   「はい」

   「誰にだって、負けられない理由ってのはあるわな」

   「・・・はい」

   「それは愛国心かもしれないし
   家族を想う気持ちかもしれないし
   宗教かもしれないし、プライドかもしれない。
   だけど戦えば、必ずどっちかが負けるわな。
   ゲームってのは、よくも悪くも
   そういう線引きをするこった。
   俺は最近思うんだが、 
   本当に大切なのは勝ち負けじゃなくて
   ただ自分の大切なもののために
   精一杯力の限り戦うことじゃないのかねえ」
 
   「そうかもしれませんね」
   杉下は素直に共感した。

   「自分が戦うのは・・・いいですか、話しても?」

   「聞かせてくれ・・・」
   須並は目を閉じた。

   杉下は一言一言を
   自らに言い聞かせるように語り始めた。

   「日本人だからっていうのを、言い訳にはしたくない。
   その一念です。
   サッカー選手に限らずとも
   我々日本人はコンプレックスの塊ですからね。
   いい加減にしろって時々思うんですよ。
   外国人に臆する必要などありはしない。
   彼らは人間だし、自分たちもまた人間ですから。
   僕は、うじうじしている奴が大っ嫌いなんです。
   そいつらを太陽のもとに引きずり出して
   ひっぱたいてやりたい。
   日本のサッカーが世界に届けば
   彼らは考えを改めるかも知れない。
   少なくとも、もう言い訳は効かなくなりますよ。
   何せ、サッカーの下手なジャポネーセが
   国際舞台で大活躍するんですからね。
   これって爽快でしょう?スナさんはそう思いませんか?」

   須並は低い声で笑った。
   「珍しい意見だな。それは」

   「むしろ、怒りですかね。エネルギーは。だからですよ。
   僕は、スナさんにはかなわない」

   「おやじさんの次にな」

   「またそれですか!」

   「奥村は、どうも他人に興味がないようだ。
   河本もお前と似たようなものか」

   「奴の真意はわかりませんよ」

   「揃いも揃って、変わった奴らばっかりだな」

   「恐れいります」

   「スギよ」
   「はい?」

   「俺は来年、サッカーをやめるぞ」
   「・・・・」

   「ベルギーにも行かない」
   「そうでしたか」

   「驚かないのか?」
   
   「『ベルギーに連れていく』という表現が
   変によそよそしく聞こえたので」

   「・・・かわいげのない奴だ」

   「残念です。スナさんの実力なら
   世界でも十分に通用するものを」

   「馬鹿。お前たちのチームで俺の出番があるか」

   「そうでしょうか。今日の試合を見る限りでは
   個人的にそれには賛成しかねますが」

   「ないんだって。だいたいタイとかカザフスタンに
   てこずっててどうする。
   今日プレーしてみて驚いたぞ。
   こいつら、今はまごまごしているが 
   本気だしたら俺なんかついていけないなって。
   現に今日の試合でみんな目の色が変わったろう。
   もう大丈夫だ。本大会でも揺るぐことはない。
   お前たちは磐石だよ。一枚岩だ。年寄りのでる幕はなし」

   須並はソファに深々と腰をかけ直した。
  
   「さすがに・・・疲れた」
   そう言ってゆっくりと目を閉じた。

   少しためらったあと、杉下は慎重に声をかけた。
   「スナさん」

   「何だ?」

   「一つ聞いていいですか」
   「いいとも。言ってみな」

   「おやじさんのことなんですが」
   「ああ?うん」

   「僕はその人の名前すら聞いていません。
   よろしかったら教えて貰えませんか?
   その、スナさんの尊敬する
   日本最高の左サイドバックの選手を。
   日の丸を誰よりも愛した、その男の名を・・・」


   「都並敏史だよ」

   目を閉じたまま、彼はこともなげに答えた。

   「今まで知らなかったのか?」


   「ああ!」杉下は思わず笑い出しそうになった。
   知らずに声が弾んだ。「あの人が!」
   白髪で軽快な喋りをする解説者だ!!
 
   杉下自身、直接マイクを向けられたことが何度もあった。

   日本代表の試合に彼は必ず姿を見せる。
   彼は観客席ではなく、今では放送席から
   我々を、日本代表を見守っているのだ。

   確か須並は自分にこう告げた。

   『サッカーを通じて知り合った』と。
   日本代表をこよなく愛した男二人の出会いは
   それ以外では確かに不自然過ぎて考えられない。

   「彼は地獄にあっても、絶対に日本を見捨てなかった」
   須並のそれは、淡々とした口調だった。

   「負けるよ。お前も、俺もな」

   「そうですね。誰も彼にはかなわない・・・」
   杉下は素直にそう言った。答えは無かった。

   「スナさん?」
   杉下は立ち上がった。

   彼は落ち着いた寝息をみとめた。腕時計を見た。
   夜明けまでにはあと1時間というところだ。

   その頃には誰かが起きて来て
   須並の目を覚まさせるだろう。

   「短い時間ですが、僕も休みます」
   杉下は静かにそう言った。

   「僕は貴方を尊敬していました。
   できればベルギーで一緒にやりたかった。
   とはいっても、貴方の意志は固いのでしょうが・・・」

   ロビーの中央で須並の方に向き直った。

   独り言のつもりで彼は暗がりに向かって話し続けた。

   「しかしスナさん、貴方は本当に満足なのですか。
   貴方が夢に見ていた世界の表舞台は
   もう目の前に開けているのに。
   御厨は確かに有望なサイドバックです。
   若いし、才能ということでいえば
   河本にも匹敵する逸材でしょう。
   でも彼には経験が絶対的に不足している。
   スナさんの今の実力をもってすれば
   御厨を抑えてレギュラーを獲得することは
   おそらく十分に可能なはず。
   なのに貴方はそうしない。
   おそらくそれは、貴方なりのけじめのつけ方なのだと思う。
   だけど貴方は本当にそれで満足なのですか。
   笑ってブラウン管の前から
   我々に声援を贈ることが出来るのですか。
   貴方は本当にそれでいいのですか。
   決して後悔しないという自信はおありなのですか・・・?」

   「ばかやろう」
   闇の中から抑えた声が返ってきた。

   「後悔だらけだ。俺の人生は・・・」

   辺りは静寂に還った。

   杉下は黙ったまま立ち尽くした。

   彼は偉大なる先達の、最後の言葉を噛みしめており
   その重さに暫くの間、動くことが出来なかった。

   「優勝しますよ・・・スナさん」

   彼にはそれだけを言うのが精一杯で
   暗がりにむけて深々と一礼したあと

   音を立てずにゆっくりと振り返って退室した。


   (本選にのぞむ日本代表ですが・・・)
   (ええ)
   
   (須並が抜けましたね)
   (ええ。彼の存在は大きかったですね。
   誰よりもハートを持った男でしたから)
   
   (どうでしょう。やはり上位進出は難しいでしょうか)
   (そうでもないと思いますよ)
   
   (ほう。その根拠を教えて下さい)
   (杉下を始めとするイレブンの、
   何と言うか目の輝きが違いますね。
   彼らは須並君の遺志を十分にくみ取ったようです。
   期待できますよこれは。太鼓判押してもいいです。
   ね、太陽はね、沈んだままじゃないですよ。
   いつかまた昇るんです。みんなで信じましょうよ。 
   彼らがやってくれることを信じましょうよ。 
   優勝するかもしれませんよ。・・・本当ですよ。
   その可能性は十分にあります。
   彼らが決勝に出てね、そうですね、
   私の大好きなブラジルと当たって
   勝ってくれたら、もう言うことないですよ。
   そうでなくともね、一つでもいい。多く勝って欲しい。
   とにかく私はね、解説者としてではなく
   純粋にいちサポーターとして
   彼らの活躍に声援を贈るつもりです・・・)


   真の喜びというのは遅れて出てくるものだ。
   止まない歓声の中、フィールドに立ちつくしたまま
   ぼんやりと杉下は考えていた。

   「杉下さん!」

   女性レポーターが
   涙で顔をくしゃくしゃにしながら走り寄ってきた。

   「今のお気持ちを、どうか!!」
   杉下は差し出されたマイクを手にした。

   だがいつものように言葉は口をついて出なかった。

   まだ自分が何を成し遂げたか
   本当にわかってはいないのだと彼は考えた。

   歴史的な快挙だった。

   だがしかし、自分のどこに語るべき事柄があるだろう。

   おそらく須並なら、うまく喋れるのかもしれない。

   だが自分には無理だ。少なくとも今のところは。

   「上には上がいるんですよ」
   とりあえず彼はそう答えた。

   レポーターが怪訝そうな顔をした。

   「それは・・・杉下選手、
   ブラジルはまだまだレベルが上だったと
   解釈してよろしいのでしょうか?」


   その時、杉下の脳裏にあるイメージが飛来した。

   彼は若かった。まだ髪に霜が降りておらず
   おそらくは現役時代のままの姿で
   青いユニフォームに身を包んでいた。

   「アイ・ラブ・ジャパン」
   彼はマイクに向かってこう囁いた。

   それはどこか懐かしく、心温まる光景だった。
   (あなただけは・・・)
   ひとり目を閉じて、杉下は語りかけた。
   (もしかして予期してたのかな、この瞬間を)


   20××年7月29日、
   ベルギー・インターナショナルカップにおいて
   ブラジルを破った日本は世界一の座に輝く。

   須並哲が駈け抜けた最終予選から
   ちょうど365日が経った、真夏の日のことである