(ここですね)
   思い出したくもない場面が再び大映しになった。
   画面左上の時計は既に90分を過ぎている。

   日本の左サイドの奥深くに
   草色のユニフォームが駆け上がった。

   一人のDFが彼にタックルを仕掛ける。

   だが素人の目にも明らかなほどタイミングは失われていて
   アサイランは「わざとらしくゆっくりと」倒れた。

   主審が笛を吹き、ためらうことなくPKスポットを指差した。

   (ペナルティエリアのわずか中ですよ。不用意ですね)   
   
   「ハッ」彼は鼻で笑った。

   (注意力が足りないんですよ)
   (もう30ですからね。体力ないし)
   (やはり○○を呼んだ方がよかったのでは)
   (いくら何でもこのタックルは酷すぎますよねえ)

   テレビでは、評論家たちがより集まって
   よってたかって彼を断罪していた。

   彼は自分のやったことを正当化するつもりはないが
   「部外者」たちにそんな事を言われる筋あいも無かった。

   あの極限状態のぎりぎりの苦しさは
   経験した者でないと理解できる筈はない。

   そう思うと、そのいずれのコメントにも吐き気を覚えた。

   (PKが決まります)

   サウジの選手が抱き合っている。
   ブルーのユニフォームががっくりと芝の上に倒れ込む。

   (日本代表、これで2大会連続の予選敗退です。
   この先世界の舞台に再び戻れるのは
   果たしていつのことになるのでしょうか)
   
   白髪の解説者が軽快に話し出した。
   (これは日本サッカー全体の問題で、決して彼一人の・・・)
   
   彼は、乾いた声で高らかに笑い出した。
   そして、不意にむくむくと沸き上がった激情にまかせて
   手にしたリモコンを思いきりブラウン管に叩きつけた。

   荒々しく肩で息をしながら
   はずみで音声の途絶えた画面を睨みつける。

   自分の呆然とした顔がアップになるのを長めながら
   彼は自身のふがいなさを許せないかのように
   強く拳を握り締めながらギリギリと歯を食いしばった。


   杉下竜次は、話上手で有名である。

   この日も試合後にマイクを向けられると、淀みなく喋った。
   その答は完ぺきそのものだった。

   まずサポーターと関係者に感謝の言葉を贈ると
   試合を振り返り反省しつつ本大会への抱負を丁寧に述べた。

   キャプテンの奥村は口下手で有名だったし
   河本にしても喋りが特別達者ではなかったので
   日本代表の広報係は杉下という
   暗黙の了解すら成り立っている始末だった。

   だが残念なことに、人々にとって最も印象的だったのは
   彼のいわゆる優等生的な弁論ではなく
   アジア予選直前に代表復帰して
   タイミングを熟知したオーバーラップで試合をリードした
   34才のベテランの言葉だった。

   須並哲はマイクに向かってひょうひょうと話したものだ。

   「12年ぶりのインターナショナルカップですね」
   「アイ・ラブ・ジャパン」

   「サポーターに何かひとこと」
   「センキュー」

   上には上がいるなと杉下は感服した。

   ホテルに戻ると嵐のような会見ぜめが待っていた。
   無数のテレビクルーが、彼らを引きずり出しては
   カメラに向かって決まりきったセリフを吐かせた。

   アウェーでの一ヶ月の連戦は
   慣れようにも慣れるものではない。

   ましてや中東の蒸し暑い気候ではなおさらのことだ。

   それでも、皆さすがにプロ然としたもので
   疲れを見せることなくリポーターの質問に答えていたが
   7つ目を数えた番組がようやく終了するころ
   さすがに三々五々自室に引き篭って休みはじめた。

   翌朝には、再びこの騒ぎが始まるのかと思うと
   さしもの杉下も音を上げそうになった。

   本選へ進めるという事実はいくばくかの慰めにはなったが
   まだ実感には乏しかった。

   真の喜びというのは遅れて出てくるものである。

   それに目標は上だ。ベスト16か、あるいはもっと・・・

   「ああ、元気だよ」
   ロビーの電話ボックスから漏れ聞こえるのは須並の声だ。

   「俺の活躍を見てたか?はは。陽子は。
   寝ちゃったって。そうだろうな。まだ4つだからな・・・
   言っといてくれ。父ちゃん頑張ったって。
   日本はベルギーに行けますって。わかんないだろって。
   わかるよ。何言ってるんだよ。俺の娘なんだもの」

   先ほどまで臨時の会見場と化していたロビーには
   もはや現地時間でも深夜遅くなったせいか
   人影はほとんど無くなっていた。

   わずかに彼と須並が残るばかりである。

   杉下はぐったりとソファーに腰をかけていたが
   須並は元気そのものだった。

   インタビューを難なくこなした挙げ句
   電話で知人に連絡まで入れる念の入れようである。

   「奥さんですか」
   杉下はボックスから出てきた須並を捕まえて話しかけた。
   彼はにやりと笑っただけだった。

   「寝ないのか、スギは?」
   「興奮してまして」それは本当だ。

   「試合の夜は、眠れないたちなんです」
   「それじゃ、祝杯でもあげるか。二人でさみしいが
   まあ誰もいないよりはいいだろう」

   杉下は言った。「スナさんもお疲れでしょうに・・・」
   誰が何と言おうと今日の試合のヒーローは彼である。

   奥村や杉下、河本という屈指のタレントをようして
   史上最強と噂されるチームであってみれば
   アジアを勝ち抜くのは当然と思われていたが
   練習試合では格下相手に思わぬ苦戦を続けた。

   彼らの弱点は若さから来る経験の不足である。
   それを補ったのが須並だった。

   周囲が思ったほど出番はなかったが
   後輩たちに何くれと気を使い、チームの盛り上げ役に徹した。

   予選最後の中国戦は1ー0だったが
   彼のおかげで最も危なげない試合運びを続けた。

   しかも須並には4年前の因縁があり
   それだけに杉下と並び最もよくマイクを向けられたのである。

   だが端目から見たところ、疲れた様子はまったく無かった。

   これぞプロだと杉下は脱帽した。

   須並は笑ったまま、くいっと杯をあおる仕草を見せた。
   
   「アルコールはだめですよ」杉下はかぶりを振る。
   「鬼茂に殺されちまう」

   「あいつは案外と口うるさいからな。
   スギも相棒視されて、若いのに大変なこった」

   「慣れましたよ」
   「ビールでいいかな」

   「スナさん。本当に・・・」
   「冗談だって。イスラム教圏では酒はご法度。
   飲んだら逮捕されます」

   「そうなんですか?知りませんでした」
   「嘘だよ。野菜ジュースだな。わびしいが栄養満点。
    トマトを入れて貰おうか。日の丸の色だ。
    二人ぶん頼んでこよう。お前も飲むだろう?」

   「スナさん」
   杉下は思わず立ち上がった。

   おどけて駆け出した須並が振り返る。

   「何だ?好き嫌いはよくないぞ」
   「本当に・・・スナさんは好きなんですね」

   「ああ。トマトは昔から・・・」
   「日本ですよ。日本代表です」

   杉下は、母国を愛することに関しては人後に落ちなかった。

   スペインで活躍している彼は
   自分が日本人であるということがいかに特別か
   しっかりと身にしみてわかっていたから。

   だが須並はどうだろう。

   彼は母国からは出ていかなかったが
   常に日の丸の熱で身を焦がしていた。

   ことあるごとに代表への熱意を口にし
   自分が離れている時ですら常にその行く末を案じていた。

   世界を相手にする時、その熱意がどれほど頼りになるか
   杉下は熟知していた。

   自分は何のために戦うのか。日本。祖国のためだ。
   ただし、須並哲にはどうしてもかなわないのだが。

   「日の丸か」須並はニヤリと笑った。
   「だが、おやじさんには負けるぞ」

   彼の口癖だった。
   「おやじさん」の顔も名前も杉下は知らなかった。

   だがその生い立ちは須並より幾度も聞かされている。

   杉下が生まれる前に活躍した選手であり
   最もハートの熱い男として知られたらしい。

   だが杉下にはあまり現実感がなかった。

   須並より上、というのがどうしても想像できなかったからだ。

   「それって、スナさん」
   杉下はつぶやいた。「貴方のことじゃないですか」

   もしかして須並の創作なのかもしれないな。
   杉下は彼の後ろ姿を見送りながらぼんやりとそう考えた。


   (プロに入って、サッカーが縁で知り合ったんだ)
   須並は「おやじさん」との出会いをそう説明する。
   彼は須並と同じ東京都の出身だった。

   Jリーグ誕生前というから随分と時代は遡る。

   その頃アマチュアの日本リーグが開催されていたが
   実力がともなっておらず
   一般的な人気は皆無に等しかった。

   代表チームに熱い声援を贈るサポーターなど
   ほとんどといなかったと言っていい。

   だが彼だけは別だった。

   1961年生まれの彼は「日の丸小僧」を自称し
   身の回りの持ち物すべてに日の丸を書き込み
   母親に頼んで日の丸のワッペンを体操服に縫いつけたりした。
   
   中学に上がって「右翼」と揶揄されたが
   純粋に日本代表を愛する彼は気にもとめなかった。

   自分が観戦することの出来る試合は
   必ず駆けつけて力まかせに応援した。

   本人はヴェルディの母体となった読売クラブの出身で
   若い頃から将来を嘱望されたプレーヤーであり
   都立深沢高校3年時にはプロ契約を済ませ
   サッカーをやりながら金を貰えるという
   理想の環境に胸踊らせていたのだ。

   その頃の読売クラブは、名選手ラモスが全盛期にあり
   レベルの高い南米型のサッカーで有名だった。
   
   レギュラーを獲得するには苦労が相次いだが
   読売を代表するトップ選手になっても
   他の選手たちと彼を隔てていたものは、代表意識だった。

   彼は19才にして日本代表に選出され
   本物の日の丸を身につけることになるが
   当時の代表はレベルが低く
   所属する読売クラブの方が高度なサッカーを展開しており
   事実同僚の戸塚哲也はポジションを奪われることを恐れて
   召集を辞退する始末だった。

   彼はそのリスクをじゅうじゅう承知していながら
   あくまで代表選手に固執する。

   その存在は、日本のサッカーに静かな革命を起こしていった。

   彼が優れていたのは、サイドバックというポジションに
   新たな光を与えたことである。

   とにかくそれまでの日本のサイドバックは守備一辺倒だったが
   彼は果敢にオーバーラップして攻撃に絡んだ。
   「黄金の中盤」ようするブラジルが好きだったこともあり
   彼の攻撃参加への意識は徹底していた。

   今でこそ当たり前のようにこうした動きが要求されるが
   当時の日本では斬新だったのだ。

   効果的に攻め上がることで試合のリズムを生み出す。

   正確なセンタリングは彼の一番の武器である。
   それは読売でも代表でも発揮された。

   守備面での能力も出色している。もともとあがり症だったが
   徐々にそれを克服して熱いファイターに変貌を遂げた。

   彼のタックルは、ボールもろとも相手ごと吹き飛ばすような
   気持ちのこもったものが多かった。

   マラドーナ、クライフ、リベリーノといった
   超一流のプレーヤー相手にも臆することはなかった。

   むろん当時の日本代表では
   まともに渡り合うレベルにすら無かったが
   数多い国際経験を積むことで
   俗にいう「マリーシア」も積極的に身につけていく。

   国内では彼は決してそれを使わなかった。

   海外のレベルの高いサッカーと戦う時に
   それは真価を発揮した。

   その内の一つには
   序盤からファウルまがいの激しいタックルを浴びせて
   相手の恐怖心をあおるとともに
   序盤ということでカードを出されることはまずないという
   絶妙な駆け引きがある。

   審判の位置を確認しての小さなファウルなど
   彼にとっては日常茶飯事だった。

   サッカー先進国ではこうした陰のやり取りも
   サッカーの中に含まれている。

   おそらく、日本代表の歴史において
   彼ほどこの事実を熟知し
   意図的に利用した選手はないだろう。

   ポルトガル語でマリーシア、
   スペイン語でマーニャというこれらのテクニックは
   日本の倫理観からは姑息にうつるが
   世界と互角に向き合うためには必要な技術だった。

   この類の駆け引きは決してサッカーの本質ではない。

   それを忘れなかったからこそ
   90年代を迎えても彼は第一線のサイドバックだった。
   以上の肉体的資質、センス、繊細さを考えても
   彼が傑出した選手であったことは想像に難くない。

   日本は97年についに世界への切符を手に入れる。

   結局、彼はそれに間にあうことは出来なかった。

   93年のアジア最終予選が彼にとって
   3度目にして最後の世界への挑戦となった。

   あと5秒耐えることができれば
   アメリカ行きが実現する筈だったが
   彼は22人のメンバーに含まれながら
   一度もカタールのステージに立つことは無かった。

   最終予選直前で彼の左足を疲労骨折が襲い
   彼は最後までそれに悩まされ続ける。

   これで日本代表の全てが狂ったといっても過言ではない。

   あらゆるプレーヤーが試されたが
   彼ほどバランスよく守備と攻撃をこなし
   左サイドの切り札になれる選手は存在しなかった。

   彼は日本に報いるために万策を尽くして出場を目指した。

   左足にボルトを入れ、麻酔を何本も打ち
   激痛にのたうりまわりながらもわずかな出場機会に掛けた。

   選手生命すらも脅かす無謀行為。

   それは狂気とも呼べる執念だったが
   結局叶わぬ夢だった。

   試合に出場できなかった彼は
   ドーハのショックから立ち直るのに1年を要した。

   フィールドに帰って来られただけでも奇跡的だった。

   彼はその後も代表復帰を果たしたが
   99年とうとうユニフォームを脱ぐ。

   彼の明るく屈託のないキャラクターは
   誰よりも人々に愛されていた。

   その前年には日本が遂に檜舞台に登場している。

   3戦全敗のほろ苦い世界デビューを
   彼は一体どのような気持ちで眺めていたのだろうか。

   (つづく)