(1よりつづく)

   奥村辰彦は、とどのつまり理性の人である。

   天才プレーヤーに波があるのは
   不確実な本能に全権を委ねるからであった。

   それはきまぐれで、大いなる武器となることもあれば
   自らの足を引っ張る足かせともなる両刃の剣だった。

   奥村のプレーが安定していたのは
   自らの経験が築き上げた「法」に忠実だったからだ。

   彼はプレーの全てをコントロールし続けてきた。

   しかし全てのゲームがそうではなかった。

   彼が理性をもってゲームを支配できなかったのはたった一つ、
   11年前のベルギーでの最も重要な一戦。

   決勝のブラジル戦。日本人いわく「ブリュッセルの死闘」。

   あの大会において絶好調だったのは奥村だけだった。

   主力は軒並みケガを負っていたし、
   御厨を始めとする若手はおしなべて萎縮していた。

   結果的に彼らが優勝を飾れたのは、
   河本や杉下を中心とした強力な愛国心の団結であったが
   奥村は個人的にこういう暑苦しい感情は大嫌いだった。
   
   例えばゲルマン魂などとは言うが
   勝負に懸ける執念は何もドイツ人の専売特許ではないし
   ブラジル人以上のテクニックを持つ日本人も数多い。

   最終的に選手の質は個人へと還元されていくものだし、
   ある民族を誇りに思うことは、
   他民族を必要以上に軽視することにもつながりやすい。

   過剰なナショナリズムこそ彼の嫌った両刃の剣であった。

   あの決勝の舞台にたった22人の選手のうち、
   日本人またはブラジル人である前に
   奥村辰彦という個人であるという自覚を持つのは彼だけだった。

   ただ、彼の名誉のために言っておくが、
   大会を勝ち進むごとに仲間が団結していくさまを眺めるのは
   彼のようなバイプレーヤーにとってこの上もない喜びだった。

   河本や杉下という本当の才能を光り輝かせることができるのは
   万全の体調を誇る自分だけだということも
   奥村は心の底から承知していた。

   それは彼のいつわらざる感情であったろう。

   試合が始まっても、特に気負うものは何もなかった。

   代表に過剰な思い入れの無い彼にとっては、
   いつもの試合と変わらない筈であった。

   しかし、自分の調子がいつもとは違うことに彼はすぐ気づいた。

   彼の心の中の声は、圧倒的に攻められているにもかかわらず
   前に出ろと再三に渡って告げていた。

   何故そんな気がするのか、彼には全くわからなかった。

   セオリーに従えばここは守りの一手だ。
   サイドバックの御厨は経験が浅かったし、
   前半を少なくとも無傷で折り返せば勝機は見える筈だ。

   いつもの彼ならそうした。しかしそれは逃げのように思えた。

   前に出なければいけない。
   彼のコンピューターが弾き出したまったく原因不明の答え。

   前に出なければいけない。早く出なければいけない。
   奥村は悩んで結論を出した。一世一代の賭けであった。

   彼は自らの本能の命じるままに飛び出した。

   成り行きに身をまかせたのは、後にも先にもこの時だけだった。

   杉下がフリーになるのが見えた。一点目が生まれた。
   まったく河本と杉下らしいコンビネーションだった。

   奥村は胸をなでおろした。

   視界の端に、河本をじっと見つめるロベルトがちらりと写った。

   奥村は御厨に、ロベルトが後半飛び出してくると予言した。
   こうなったら奥村は自分自身の本能と心中する気だった。

   もし失敗したらチームを道連れにしてしまう羽目になるが
   奥村は90分間、その事実に目を背け続けた。

   この予言はずばりと的中した。

   御厨の鋭いカウンターを食らったブラジルは、
   不用意なサイド攻撃を控え中央突破に集中し始めた。

   後半25分に、ローマンの個人技から1点を失ったが
   いかにブラジルとはいえ、中央の攻めに固執すれば
   百戦錬摩の奥村の術中から逃れられるわけはなかった。

   彼は一生ぶんの言葉を費やしてDFに的確な指示を送った。

   ほれぼれするほど見事な統率に若いバックスはよく答えた。

   決定機が生まれたのは40分を過ぎてからだった。
   一瞬のカウンターから、
   原田が敵のペナルティエリア内で倒されたのだ。PKだった。

   奥村はGKを一目見るなり、右に飛ぶと直感で思った。

   彼はキッカーの杉下にそう告げた。
   杉下が理由を聞いてきたので適当に答えた。

   奥村自身にもわからない答えの導きを
   他人にうまく説明できるはずもなかったからだが
   少なくとも杉下の固さを取ることには成功した。

   果たしてGKは彼の思った通りに飛び、
   日本を世界一に導くゴールが左隅に力強く決まった。

   残りの5分を彼らは死にもの狂いで耐えた。

   ホイッスル。歓喜の声。ずっしりと重い優勝カップ。
   そしてチームメイトの涙。息苦しい抱擁。

   その後のことははっきりと覚えていなかったが、
   なぜあの試合に限って身体の内側から声がしたのか
   のちのち考えても彼にはまったくわからなかった。

   抑えつけられた本能が極限状況で頭をもたげたのかもしれないし
   人知を越える何かの力が働いていたのかもしれない。

   だが、あの経験を教訓にしようにも、
   彼がその後いくら重要な試合を経験しようと
   あの日のように直感が冴え渡ることは
   それから先もう二度となかったのであった。


   あれから11年が過ぎた。奥村は39才になっていた。

   4年前に古巣に戻ってきた彼はニューイヤーカップに臨み、
   アントラーズにタイトルをもたらすべく必死にプレーしたが
   最後の夢は準決勝でついえた。

   御厨率いるガンバ大阪のラインコントロールは見事の一言で、
   全盛期の奥村自身のプレーを見る思いだった。

   敗れた彼はほぞを咬んだまま壇上に上がり、
   そのまま引退セレモニーで慣れない挨拶をしたあと
   華やかな舞台を嫌ってそそくさと逃げるように退場した。


   「奥村君、ちょっといいかな」
   奥村はロードワークに出ようとしていたところを
   兼子に呼び止められた。

   兼子は小脇に小さなバッグを抱えていた。

   「取材には応じませんよ」
   引退したからか、もう慣れたためかだいぶ口調は柔らかだった。
   そっけなさは相変わらずだが大した進歩である。

   「今日はそれだけが目的じゃないんだが、
   君、小学校に新しい本を返したそうじゃないかね」
   
   奥村の借りたままだった本は既にぼろぼろだった。
   絶版なので探すのに苦労していたのだが、
   近ごろ再版が出たので
   罪償いのつもりで3冊を母校に寄付したのである。

   今になって奥寺にスポットが当たるのも妙な話だが
   しかし何故そんなことまで知っているのだろう。

   また小学校に出かけて聞き込みでもしてきたのだろうか。

   「あんたって人は・・」
   奥村の唇から、彼には珍しい激情が次々と流れ出た。
   それは抑えようとしてもどうしても止まらなかった。

   「あんたって人は、何だって僕にばかりつきまとうんだ。
   もういい加減にして欲しい。
   僕は自分自身が賞賛に値する選手だったなんて思わないし
   あの大会のことにしてもそうだ。
   あれは完全な手違いだった。
   僕自身の都合でチームを危険にさらしてしまったんだ。
   あんたがたは何も分かっちゃいない。
   あれはむしろ恥じるべきなんだ。
   あのプレーを白日のもとに世間に出せるものか。
   僕はごめんだ。あんたの顔を見るのも嫌だ。
   帰れ。頼むから帰ってくれ。
   そして二度と僕の前に姿をあらわすな」

   兼子は動じた様子はなかった。
   彼はゆっくりとバッグを開けると一冊の本を取り出した。

   「黙っているつもりはなかったんだが・・・」
   それは奥村の見慣れた本だった。

   「僕の初めての著作だ」


   その本のタイトルは
   「孤独なコンピューター 奥寺康彦」とあった。
   著者の名前は「兼子竜人」。


   「カネコ、下の名前はタツヒトと読む。
   君の名前にも似ている。光栄なことだが」
   無言の時間が過ぎた。
   
   奥村は呆然とただその表紙を眺めていた。

   「それでは僕は・・・?」
   
   初老のライターはからからと笑った。そして言った。
   「最近になってようやく過去の著作にスポットが当たり出した。
   この本を作った時はまだ本当に若かった。
   少なくとも君が思うより苦労はしとるんだよ」

   再版になって注目を浴びたのは奥寺では無かったのだ。

   奥村はチームメイトが
   最近売れっこの、と形容したことをぼんやり思い出した。

   兼子が奥村の肩を優しく、やわらかく叩いた。

   「この本より立派な記事にしてみせる。
   取材を受けて貰えんかね」

   奥村は黙ったままだった。

   「君の記事にあこがれて、プロを目指す少年もいるだろう」
   やはり答えはない。
   「第二の奥村の芽をつんでしまうつもりか?」

   「僕はそれに値する選手ではありません」

   奥村がようやくそう答えると、
   兼子は「アア!」と不意に叫んで髪の毛をかきむしり、
   奥村に人指し指を突き付けた。その手がワナワナと震えた。

   「君は・・・もし、君の記事が書けたらだが・・・」

   兼子の声は心の底からの怒りに満ちていて、
   単語をしぼり出すようにはっきりとこう言った。

   「君は確かに才能には恵まれてなかったかもしれない。 
   しかし君は君より優れたプレーヤーを
   何人も抜き去って来た筈だ。
   麻野美喜雄は有能な選手だったが
   才能を浪費したあげく凡庸なプレーヤーに成り下がった。
   奥寺は公平に見てトップクラスのDFだが、
   君のように日本を栄光に導くことはなかった。
   さらに言おうか。河本と杉下は天才だったが
   君よりもずっと早く選手生活を終えている。
   二人とも君よりもだいぶ若いにもかかわらずだ。 
   君はドイツでチャンピオンになり、
   日本を世界の頂点にまで押し上げ、
   あまつさえ一流のまま40才まで現役を続けた。
   これだけの実績を誇る者がつまらないわけがあるか。
   賞賛に値しないわけがあるか。
   君の人生は恵まれていた筈だし、
   それはすべて君の努力が引き寄せた代償なんだ。
   いいかね、君に何か欠点があるとしたら
   君ほど、自分のすごさを
   全くわかってない選手はいないということだ。
   今まで君がやって来たように、
   いつか誰かが奥村辰彦という存在を追い抜くだろう。
   君にはそれをしっかりと見届ける義務があると僕は思う。
   その覚悟がないと君は決して
   選手だった自分を諦め切れないんじゃないか。
   僕にはそんな気が強くするんだが。どうだ」

   奥村は御厨のことを思った。
   
   彼の知っている若い日の後輩は
   若さが取り柄だけの荒削りな選手に過ぎなかった。

   「そう・・・なんでしょうね。きっと・・・
   あなたの言うとおり、僕は・・・諦めが悪い・・・」

   日課であるロードワークを続けないと落ち着かないのは
   心のどこかでまだ選手として未練があるからではないのか。
   潔くない後悔が残っているからではないのか。

   「君に渡すものがある」
   兼子はバッグから小さな包みを取り出した。

   「河本から預かってきた。
   本当は引退式の後に渡すはずだったが
   誰かさんがさっさと帰ってしまったおかげで
   出しそびれたらしい。
   河本本人が渡すべきだと僕は思うが
   奴もC級ライセンスに向かって勉強中だと言う。
   面と向かうと照れくさいとも言った。柄でもない」

   奥村は包みを開けた。
   中に入っていたのは、小さな銀製のプレートだった。
   それにはこんな言葉が刻み込まれていた。


   奥村 辰彦さん

   あなたがいなければ われわれの世界一はなかった
   あなたがいなければ 日本の現在はなかった
   あなたがいなければ 日本の未来もなかった
   あなたがこういう言いかたを嫌いなことは知っているが
   これがあなたに対する われわれの正直な気持ちです
   世界最高のプレーをありがとう
   世界一をどうもありがとう
                 
   ベルギー・インターナショナルカップ   日本代表一同


   奥村は思わず目頭を押さえた。

   「老兵は死せず ただ去りゆくのみ」
   兼子がつぶやいた。

   奥村は嗚咽をもらしながら頷いた。

   「そうだ・・・そう、僕は・・・
   僕の役目は終わったんだ・・・
   僕はもう去るべきなんだ・・・
   これでいい・・・これで、僕は次へ行ける・・・
   僕の選手生活は無駄じゃなかったって
   これからも堂々と胸を張れる・・・
   だが・・・何て・・・何てこった・・・
   あの時、本を読んでボールを蹴った、
   あの時のことはつい昨日の出来事のように思えるのに・・・」


   図書館に一人の選手の本が並んだ。
   いつかきっとそれを読んだ少年が
   彼のプレーにあこがれて、その背中を追い越すだろう。

   奥寺康彦がそうだったように。

   奥村辰彦が、そうだったように。