元日本代表FW・河本鬼茂の証言。

   「1点目の場面で何故あの位置にいたのか
   あれから再三に渡って聞かれましたけど
   (注:プレスをかけに戻らなければならない場面で
   前線に残っていた)
   まあ足がね、ケガしてましたから
   余力を残しておきたかったというのはあるんですが
   タツさん(奥村辰彦)が上がってくる姿が見えたんです。
   ブラジルが完全に押しているときのオーバーラップでしょ。
   あれが完全に逆をついた格好でしたね。
   マークの受け渡しがあいまいになって
   私のマークも外れた。だから敢えて残ってた。
   まあボールは竜さん(杉下竜次)に行きましたけど
   あれは自分も不意をつかれたカタチです。
   あそこにいる人の誰も予測できなかったわけですよ。
   あの人間違い無く計算してますよ。そういう人です」

   日本代表DF・御厨親典の証言。
   「決勝戦では斎藤(邦男)が(警告)累積で出れなくて
   自分が出ることになったでしょ。
   それで奥村さんが真ん中に入って、自分が左だったですが
   斎藤には悪いけどすっげえやりやすかったね(笑)。
   あの人についてハッキリ覚えてるのは
   自分、あの試合では久しぶりの出場だったので
   いま一つ攻め上がりのタイミングがつかみきれなくて
   ハーフタイムに相談したんですわ。奥村さんにね。
   そしたら後半始まってすぐロベルトが仕掛けてくるから
   開いたスペースに飛び込めって言われました。
   そしたら本当にロベルトが出てきたんで
   前に出たら目の前にパスがすうっと通ってきたんです。
   人間技じゃないすよあれ。何でわかったんだろうって。
   今でもどうやったのかサッパリわからない。
   よかったね。あの人が日本人で。マジで。
   間違って敵に回したら100回やっても勝てる気しないよ」

   元日本代表MF・杉下竜次の証言。
   「2点目のPKの時、タツさんがささやいたのは
   (キーパーが)右へ飛ぶぞっていうことです。
   飛ぶ方向に小刻みに足を動かすのがクセだって言うんです。
   タファーはブラジル国内でプレーしてて
   満足にビデオが集まってなかったんですよ。
   前日のチェックでもそんなことはわかってなかった。
   つまり試合中に(奥村が)見てたというわけですが
   あの人DFでしょ?ゴール前に来たのは2回ですよ。
   そんなとこまでよく見えてたなって。
   FWだって普通気づきませんよ。
   言葉悪いですが、人間じゃないって思いました。
   さすがコンピューターだって関心した覚えがあります。
   僕らなんかには絶対真似できないプレーですよ。
   あの人がいなければ3ー0で負けても
   決しておかしくない試合だったと今でも思っています」


   「奥村君、ちょっといいかな」
   兼子だった。奥村は嘆息した。

   何だってこの男は自分の練習の邪魔ばかりするのだろう。

   「今日こそ取材させてくれ給え」
   聞き飽きたセリフである。奥村は黙々と靴紐を結んだ。

   「インターナショナルカップ優勝の
   最後の主力選手もとうとう引退表明かな」
   兼子は歌うように言った。奥村は無視した。

   「ニューイヤーカップは勝ちにいくんだろう?」
   負けにいく馬鹿はいない。

   「ねえ、何か答えてくれよう・・・ほら」
   兼子は手のひらに収まるような
   マイクつきの小さなテープレコーダーを差し出した。

   「インタビューです。尊敬する選手は?はい」
   奥村はマスコミのたぐいが大嫌いだった。

   この口髭を生やした男に代表されるように
   親しくもないのにやたらなれなれしい人間が多かったからだ。

   チームメイトの話では、売れっこのライターらしいのだが
   奥村にしてみれば迷惑千万だった。

   奥村はとことん無視を決め込んだ。兼子がかまわず言った。
   「奥寺康彦?」
 
   奥村は顔を上げた。ニヤニヤ笑う兼子の顔があった。

   「誰ですって」

   兼子は得意そうに胸を張って言った。
   「奥寺康彦。君、小学校の図書館から彼の伝記を借りたまま
   まだ返してないんでしょ。つまりそれは彼に・・・アッ」

   奥村はかまわずに立って走り出した。

   そんな事まで調べていたのかと思うと
   呆れかえらずにはいられなかった。

   「絶対に取材してみせるぞ!!」
   兼子の捨て台詞が響いた。

   その時彼はもうずっと遠くにいてすでに姿は見えなかった。

 
   奥寺康彦は奥村のヒーローである。

   とはいえ、プレーする映像はほとんど見たことはなく
   あくまでも空想上の産物であった。

   Jリーグが始まる15年前に日本人として
   初めて海外とプロ契約を交わした記念すべき選手である。

   奥寺は奥村と同じ秋田県鹿角町の出身で、
   古河電工で抜群のスピードを持つFWとして名を馳せた。

   76年にブラジルのパルメイラスに2ヶ月留学しただけで
   本場のプレーのスピードに慣れ、見違えるような選手に変身。
   同年日本代表が参加したマレーシアのムルデカ大会で
   センターフォワードとして臨み、7点を入れて得点王になった。

   準優勝に輝いた日本の活躍は
   奥寺の成長によりゲームメーカーに下がった釜本との
   二人の存在がなければ決してなし得なかった。

   奥寺に最大の転機が訪れたのは77年である。
   代表チームが欧州遠征をしたさい、西ドイツの名将
   バイスバスラーにみそめられて口説き落とされた。

   25才という年齢と妻子がいることで散々迷ったが
   最終的には熱意に負けて海を渡っている。

   名将の目に狂いはなく、FCケルンの一員となった奥寺は
   1年目にいきなりリーグ優勝とドイツカップの2冠を達成した。

   だが彼の栄光は決してFWとしてのそれが全てではなかった。

   バイスバスラーが失脚すると奥寺は干されるようになった。
   彼はヘルタ・ベルリンからベルダーブレーメンを渡り歩き
   そのたびにポジションが変わったが
   経験から来る読みと戦術眼でMFからDFまでを難なくこなした。

   いつしか彼は「アジアのコンピューター」と呼ばれたが
   これは世界最強のブンデスリーガに単身渡ってきた
   アジア人に対しての最大級の賛辞だった。

   都合9年間、235試合に出場した奥寺は
   86年、本場の技を日本で披露するために34才で帰国した。

   だが悲劇的なことに、再び古河電工の社員となったものの
   彼の鋭すぎる判断力に周囲はまったくついていけなかった。

   パーセプション(予知的理解力)ギャップという現象であるが
   西ドイツでは徹底されていたパス・アンド・ゴーの基本が
   日本ではまったくおざなりにされていた。

   ボールを持っても回りのサポートは得られず、
   彼はたびたび孤立し、パスを敵に奪われた。
   奥寺が帰国してプレーしたのはたった2年間である。

   彼が最後の輝きを放ったのは
   天皇杯を棄権してまで臨んだアジアクラブ選手権だった。

   彼はサウジアラビアで、地元のアル・ヒラル相手に
   ハットトリックを決める大活躍を見せた。

   奥寺は国際舞台には滅法強かった。

   しかしそれにも限度があった。

   彼の能力をもってしても
   日本をW杯に導くことはどうしても出来なかった。


   奥村がサッカーを始めたのは、奥寺の伝記を読んでからである。
   中学にあがった彼は鹿島アントラーズのテストをうけ
   ジュニアユースチームに合格した。

   このチームを選んだのは単純明瞭で、
   アントラーが故郷と同じ鹿の角を意味していたからでもあり
   単純に家から最も近いせいもあった。

   だが、才能のある選手がごろごろしていたので
   ストライカーになる夢は早晩捨てなければならなかった。

   特に天才少年、麻野美喜雄の存在は決定的だった。

   以後奥村は、自分に才能があるなどとは決して思わなかった。
   自分に出来ないことを冷静に課題としてとらえ、
   着実にそれをクリアすることによって
   ゆっくりとだが確実に大選手への道をかけ上がっていった。

   彼に何か秀でたものがあったとすれば
   この身も蓋もない冷静な現状認識能力であろう。

   彼は余計な希望を持たなかったし
   過度の絶望で時間を費やすこともなかった。

   派手なプレーで脚光を浴びようなどとは思わず
   徹底して練習し、基本に忠実で正確なプレーをこころがけた。

   そんな奥村が一度だけ積極的になったことがある。

   20才の夏、彼は自費で留学に出かけた。行き先は

   ドイツだった。

   テストを次々と受けた彼は
   ドルトムントFCに合格してその一員となった。

   外国人としては異例の早さでドイツ語を覚えた。

   あまりおしゃべりでなく(ただの無口なのだが)
   真面目に練習に取り組む姿勢が大いに好感をよんだらしく
   1年余りで2軍のレギュラーになり
   2年たってからトップのサイドバックに定着した。

   奥村は常に敵と味方がどこにいるかをチェックしていた。

   最前線にいるFWに対してもそれは同じで、
   マークが外れるやいなや正確なロングパスで決定機を作った。

   適時生まれるスペースを彼は決して見逃さなかった。

   常に攻撃を考えるプレーは受けがよかったし、
   全力で試合に臨む姿勢はプロの鏡だと絶賛された。

   経験を積むようになると戦術眼も磨かれ、
   彼の中でのセオリーに従って
   堅実でミスのない守りでチームに大きく貢献するようになった。

   ドイツでの奥村への評価は絶大だった。

   彼は「東洋のコンピューター」という異名を貰った。
   奥寺と違い、彼は5年しかドイツでプレーしなかったが
   だからといって彼への評価が下がるわけでは決してなかった。

   奥村はその後イングランドに渡り、
   リバプールの一員となって働くことになる。

   あの思い出深いベルギー・インターナショナルカップは
   彼がまだ欧州でプレーしていた28才の時の大会だった。
   キャプテンマークをつけた彼は
   世界中から絶賛されたパフォーマンスを見せたが、
   その詳細を決して自らの口から語ろうとはしなかった。

   もともと口が重いことで知られた男だが、
   この日本にとっても記念すべき大会に関して
   全くといっていいほど口を閉ざしているのは
   いくら何でも奇妙だった。なぜか?

   世界中のマスコミが何とか吐かせようと試みたが
   誰一人として成功した者はいなかった。

   あれからすでに11年が経っている。
   その時代から彼に張りついて離れないのは
   もう既に一人しかいなくなっていた。

   その男は髭を生やした日本人だった。名を兼子と言った。

   「ねえ、今日こそ喋って貰うよ」
   奥村は露骨に嫌な顔をした。

   クラブのビュッフェにまで顔を出すとは
   いくら何でも非常識だと思ったからだ。

   図々しくも兼子は彼の隣りに腰をかけた。

   「僕は諦めないぞ。君の記事を書く。
   あの大会に参加した日本人選手で
   インタビューのとれてないのは君だけなんだ」

   奥村には、自分のような平凡な選手の記事を
   誰かがありがたがって読むなどとは信じられなかった。

   日本には倉元や三神など、
   もっと華のある若い有能な選手が多い。
   何もこんな39才の地味なベテランを取材せずともよかろうに。

   「あのPKのアドバイスだが・・・」
   相手をしないことにした。奥村は立ち上がった。

   「待ってくれ。逃げる気だな?」
   そのつもりだった。後ろから兼子の声が響いた。

   「ちょっと待て!待てって!なあ!
   少しくらい話してくれてもいいだろう!
   それとも何か。嫌な思い出でもあるのか?なあってば!!」

   奥村の脳裏に11年前のベルギーのスタジアムがよぎった。
   彼は目を伏せたまま小さくかぶりを振って、
   余計な思い出を振り払うように早足で歩き続けた。

   (つづく)