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70年代「爆撃機」という名で知られたストライカーがいた。
その物騒な名前は「バティ・ゴール」のような豪快さを意味
していない。
ペレのようなファンタジーも持ち合わせなかったし彼をマーク
した日本人のあるDFは釜本の方が恐ろしかったとコメント
する始末である。
しかしその名はさん然とサッカー史上に輝く。星の数ほど
ストライカーはいるが彼と同じ才能に恵まれた者は一人も
いない。
西ドイツ、ノエレリネーンから離陸したその男はその名も
ゲルト・ミュラーという。
人は彼を「20世紀最高の点取り屋」として認知する。
ゲルハルト「ゲルト」ミュラーは1945年11月3日に
生まれている。
ずんぐりとした中背の体格の少年は生まれたときから
サッカーひとすじに育った。
他のスポーツをやるなど考えてもみなかったがこの凡庸
きわまりないように見える少年が特別な才能を持っている
ことに気づいた大人は少なかった。
太っている子供は多かれ少なかれゴールの前に立たされる
ことが多いものだ。残酷だが、痩せている子供に言わせると
彼らは走り回るには役立たずなので自分に最もふさわしい
ポジションにいるべきだった。
ミュラーもそうだった。彼の隣人はゴールポストだった。
しかし他の少年と違っていたのはそれが敵のゴールの側
だったことだ。
彼はペナルティ・エリア内から殆ど動かなかった。
彼は不思議な第六感を持っていて明らかにどこにボールが
やって来るかを熟知していたらしい。
彼はゴールを決めて決めて決め続けた。
それが彼の仕事で、それだけしか仕事がなかった。
要するに幼い頃から点を獲る以外に何の役にも立た
なかったのだ。
父親を15才で失くしたため繊維工場で働きながら家計を
助けており16才の時、彼はTSVノルトリンゲンの門を叩く。
友達からスパイクを借りて2ゴールを決め入団にこぎつけ
まずはユースチームで実力をつけるはずがチームのあげた
年間204ゴールのうち197ゴールを一人で挙げたのが
認められトップへと昇格してたちまち46ゴールを決めた。
激しい争奪戦のすえ、彼を競り落としたのは
バイエルン・ミュンヘンである。
だが、ズラトコ・チャイコフスキ監督は明らかに彼がお気に
めさなかった。
短足でずんぐりとした身体は食事療法でも治らずかえって
太ももが丸太のようにふくらむ始末だった。
「私のサラブレッドたちに、小さな象を加える気はない」
チャイコフスキはこう公言してはばからなかった。
地域リーグに降格しそうな低迷ぶりにもかかわらずミュラー
は無視され続けた。
彼が出場機会を得たのはレギュラーの選手がケガをして
欠員が出来たためだった。
彼は同い年のベッケンバウアーと共にトップに昇格し残った
2番と13番のユニフォームについてどちらがどっちの番号を
とるか相談した。
ミュラーは迷わず不吉な背番号を手にした。
「今日から僕にとっては幸運の数字さ」
デビュー戦で2ゴールを決めた彼はそのままレギュラーの座
を勝ち取ってしまった。
その実力は縁起などものともせずひたすらゴールを量産する
ことによって信頼を勝ち得ていく。
彼の「爆撃機」の異名は誰よりも多く敵のゴールを撃破した
事実に由来している。
「ゲルティのリトル・ゴール」という揶揄は彼のただ押し込む
だけの単調なシュートを皮肉ったものだが記憶に残るような
素晴らしいゴールが少ないのも特徴だった。
その体格にもかかわらず打点の高いヘディングは目を引いた
がとりわけ特筆するようなテクニシャンではなかった。
彼はどこにいても、どんな体勢でも身体のどの部分を使って
でもゴールを決めた。
当然それらは美しいとはいえなかった。
ただただ数が多かった。それだけだった。ドイツの得点タイトル
をほとんど総なめにしブンデスリーガ427試合で365ゴールを
記録。
2位の選手は200点にも満たなかった。
ドイツカップでは64試合で79ゴール。欧州クラブ・カップで
74試合で66ゴール。
代表として62試合で68ゴール。
特に代表でのレコードは見ての通り一試合1得点を越える
スコアでありこれはペレですら達成できなかった偉業である。
公式戦通算ゴールでも、達成不可能とされたウーベ・ゼーラー
の551ゴールを更新する582ゴール。得点王は通算で7回。
欧州リーグ最多得点王に与えられる
ゴールデン・ブーツを2度も受賞している。
これらはドイツ国内で今も「不滅のレコード」として残る。
また、これほどのキャリアを持つ男のクラブが全盛を極めない
わけがなくバイエルン・ミュンヘンは国際的な強豪として国内
でリーグとカップを4回ずつ制するとともにチャンピオンズカップ
では73ー74シーズンから3連覇を達成、カップ・ウィナーズ・
カップにも優勝した。
タイトルはすべてベッケンバウアーと重なっているが
「バイエルンの成功はすべてゲルトによるものだ」という
「皇帝」自身の言葉はこの怒涛の記録を前にすれば素直
にうなずけることだろう。
当然ながら彼の才能はW杯でも発揮されている。
70年メキシコ大会ではフォンテーヌの13点に迫る勢いで
ゴールを量産したがチームは3位、ミュラー自身は10点で
終わり大会得点王という個人タイトルだけが残った。
この活躍を受けて西ドイツの選手としては初のバロンドール
を受賞している。
74年、地元での大会前にはちょっとしたいざこざがあった。
ミュラーのバルセロナ移籍を妨害した協会側に腹を立て優勝
を置きみやげに代表から引退するとほのめかしたのである。
予言は実行された。
奇しくもクライフ率いるオランダを下した決勝ゴールが
西ドイツ国際試合100ゴール目となった。
胸のトラップで大きくボールを弾き出しふりむきざまに決めた
ボレーシュートは「爆撃機」の真骨頂だった。
彼はこのゴールでW杯通算得点記録を14点にのばし偉大
な先人であるフォンテーヌを越えることに成功した。
こうして西ドイツは見事に優勝を飾ったが太っちょのゲルト
は二度と代表には戻ってこなかった。
この時まだ彼は28才だった。
彼は金のために晩年アメリカでプレーすることを決意し
全財産を処分してフォート・ローダーデールに加入、翌年
にはスミス・ブラザーズに移籍している。
アメリカ時代の2年間では40ゴールを記録してそのまま
ユニフォームを脱いだ。36才だった。
彼はアメリカに骨を埋めるつもりだったが結果的に彼が
そこに留まったのはたった3年間だった。
84年、ミュラーはふらりと故郷に戻ってきた。
アルコールが彼の身体を蝕んでいて没落の記事が新聞を
賑わせた。
絶望的なまでに質素な暮らしが待っていてかつての栄華
など見るかげも無かった。
彼がそこからはいあがったのは友人たちの力である。
彼らはなにくれとミュラーに気をくばりアルコールと縁を切ら
せて仕事を与えた。
ミュラーは見事に立ち直りガリンシャの二の舞いになること
なく今はバイエルンのユースでコーチの職についている。
何人もの有望な若手が巣立つグラウンドの傍らで彼に
こう尋ねてみよう。
「第2のミュラーと呼べる選手はいますか?」
すると彼は肩をすくめて答えるだろう。
「ひとりもいないさ」
本来なら聞くまでもない。
そんなことは我々が一番よく知っている筈だ。
「爆撃機」ゲルト・ミュラー。史上最高のストライカー。
ゲルマンの最終兵器、ミュラーはミューレンという
名前で登場する。
貴方は必ずこの言葉を口にするだろう。
「我々の成功はすべてミューレンによるものだ」と。