第7回 スタンリー・マシューズ
   

    まだサッカーが神話だった頃の話である。

    まだ映像技術と記録文化が未発達だった頃の話である。

   人々はスタジアムに我先にとおしかけ彼らのヒーローの
   一挙手一投足を目を皿にして見守った。

   それらは伝説となって残った。

   人間業とは思えないような彼らの逸話が真実であったのか
   どうか確かめる術はない。彼らが現代サッカーの包囲網の
   なか同じことをなし得るかどうか知ることもできない。

   しかし同じ時代、星の数ほど同僚がいる中で誰ひとりやり
   遂げることの出来なかった伝説を築きあげた人物がいる
   としたら、やはり彼は偉大である。

   今ではみな彼を
   「サー」スタンリー・マシューズという尊称で呼ぶ。

   マシューズは1915年2月1日に生まれている。

   父親のジャックは床屋を経営していたが元々はフェザー級
   のボクサーとしてならしており明らかに自分の身体を
   いじめるのを日課にしていた。

   息子が貧弱な男に育つことを恐れたのかそれとも
   トレーニングのよい相棒として歓迎したのかジャック
   は毎日の鍛錬に息子をかかさず付き合わせた。

   毎朝6時にはかならず起床して走り込みや、器具を使った
   訓練を毎日毎日繰り返す。後に驚異的な体力で知られた
   少年の基礎はこうして着実に積み重ねられていった。

   将来大成する人物は子供のころに才能にまつわる逸話
   をいくつか持つものだがスタンリー少年もそれは同様で
   のちに点取り屋を職業にするわけではないにも関わらず
   一試合のうち一人で8ゴールを決める活躍を見せた。
  
   しかもポジションは今でいうMFだった。

   初めて入団したクラブは地元のストーク・シティである。
   15才の時だった。ポジションは
右ウイングに変わった。

   ストーク・シティは2部のチームだったが17才のマシューズ
   がプロ契約した翌年彼自身の手で(足でというべきか)
   1部へと昇格した。

   19才にしてイングランド代表に選出されたことからも
   いかにその才能が傑出していたかがわかろうものだ。

   彼は47年、32才で移籍するまで地元でプレーしたが
   彼の実力をもってしてもタイトルには縁遠かった。

   まだ時代は選手が頻繁に籍を移す事を許していなかった。

   マシューズは職人的な右ウイングとして40・50年代に
   無敵を誇った。その
ドリブルは誰もが呆れかえるほど
   鋭かった。

   おそらく、彼以上にいろんなことの出来るFWは当時も
   ごまんといただろうが右サイドを着実に切り崩して
   正確なセンタリングを上げるという点において彼以上
   の働きをする者は一人もいなかった。

   彼がドリブルで通るところはいつでも転んだDFたちが
   累々と横たわっていた。立っているものは呆然とその
   後ろ姿を見送るばかりだった。

   右のライン際から内側に切れ込むと見せかけて右足の
   アウトで外側へとすり抜ける。

   「マシューズのフェイント」とは種明かしをすれば何でも
   ない技術にすぎなかったがわかっていても止められない
   ことこそが本当の問題だったのだ。

   世界各国の猛者も彼のドリブルには手を焼いた。

   W杯を制した西ドイツのコールマイヤーですら走り去る
   マシューズの影さえ捕まえられなかった。

   「ドリブルの魔術師」
という異名は彼に限っていえば
   単なる事実だった。

   後年彼は、ボール扱いの秘訣についてこう答えている。
   「ボールを愛するようになれば、彼女は必ず答えてくれる」

   もし愛情と技術が正比例するのならマシューズほどボール
   を溺愛した選手もまた他にはいなかったのだろう。

   華々しい活躍を見せたマシューズだが在籍したチームが
   強豪ではなかったためクラブ・タイトルには常に縁遠かった。

   32才で移籍したブラックプールで彼は初めてそのチャンス
   を得た。

   世界最古のトーナメント戦であるFAカップ決勝に進んだ
   のは移籍2年目となる48年だったがマンチェスター・
   ユナイテッドの前に破れ去った。

   再び決勝にまで進んだのは51年である。この時すでに
   36才だったが今度はニューキャッスルの前に涙を飲んだ。

   おそらく年齢的にも、彼自身3回目のチャンスがあろうとは
   夢にも思わなかったに違いない。

   だがそれはやって来た。マシューズは38才になっていた。

   相手はボルトン・ワンダラーズだったが終了まで残り20分
   の時点で1ー3、逆転するには絶望的なスコアであり
   またもやマシューズはFAカップで優勝できない運命にある
   のかと誰もが思った。

   しかしここから彼のドリブルが冴え渡った。

   スタン・モーテンセンという素晴らしいFWが同僚にいたこと
   も救われた。

   絶妙なセンタリングを立て続けに2度通して計3ゴール。
   FAカップ決勝史上初めてのハットトリックは残り3分で2点
   を記録したものだった。

   延長戦でビル・ペリーのゴールをアシストしたのもマシューズ
   自身である。

   4ー3という奇跡の逆転劇に観客は酔いしれ自分たちの
   ヒーローがタイトルを獲得したことに喜びこの一戦を
   「マシューズの決勝」と呼んで誉め称えた。

   欧州年間最優秀選手賞、俗にいう
バロンドールが始まった
   のはマシューズが現役のうちに受賞させようという意図に
   よるものという説がある。

   彼がこれを受賞したのは56年、41才の時だが彼自身が
   ユニフォームを脱ぐのは9年も先の話であった。

   イングランド代表として彼は54試合に出場し11得点を挙げ
   ているがトム・フィニーというライバルがいなければもっと
   その数を増やしていただろう。

   7才若く、両足の使えるフィニーが左サイドに回ることで
   どちらを使うべきかという論争に終止符が打たれた。

   彼らのコンビネーションは素晴らしかった。

   クリストファー・ヒルトンはその著書の中で「マシューズと
   フィニーのコンビは記憶のプリズムを通してさえも傑出
   している」と語る。

   だがマシューズの栄光を語るときぶら下げたメダルの数
   を数えるような真似は全く意味がない。

   彼のプレーは人々を魅了した。それで十分だった。

   55年にモザンビークに遠征したさい彼がボールを操る
   のを食い入るように見ていたボールボーイは後に「黒豹」
   と呼ばれ恐れられるストライカーになった。

   61年、マシューズはわずかな移籍金で古巣に戻り
   ストーク・シティを再び1部へと昇格させる。

   4年後、彼はエリザベス女王から呼び出されサッカー選手
   として初めてナイトの称号を与えられた。

   エジンバラ公はこう言った。
   「スタンリー、あなたは伝説です」

   それは事実だった。2ヶ月後、彼の引退試合が行われた。

   マシューズのためにディステファノ、プスカシュ、ヤシンら
   そうそうたるメンバーが顔を揃えた。

   50才になった彼はここでも西ドイツのシュネリンガーを
   翻弄し続け、のちに「あと2年はやれたのだから、やるべき
   だった」と語った言葉が事実であることを証明した。

   マシューズは33年間の現役生活において一度もファウル
   をおかさなかった
真のジェントルマンだった。
  
   引退後、地元のボート・ヴェイルの総監督に就任したが
   あまりにも制約が多いのに嫌気がさし1年半で辞して
   アフリカを指導して回っている。

   彼が生涯獲得したタイトルはFAカップたった一つ。

   「だがね」マシューズは言う。
 
   「あの試合は『モーテンセンの決勝』というべきだ。
   点を獲ったのは彼なんだから」

   スタンリー・マシューズはどこまでも紳士だった。

   このような人物が歴史を飾ったことをサッカーを愛する者
   は誇りに思うべきであろう。

   ブラックプールの魔法使い、マシューズはマリッシュ
   という名前で登場する。

   彼がタイトルに縁遠かったことを嫌うのは考えものだ。

   右サイドでの魔法は彼以外では決して見せることが
   できないのだから。