第5回 フェレンツ・プスカシュ
   

   サッカー史を語る時決して避けて通れない伝説のチームがある。

   21世紀を目前にした今ではまったく考えられないが50年代の
   ハンガリー代表は
「マジック・マジャール」の異名をとった自他
   ともに認める世界最強のチームだった。
  
   驚異的な得点力を誇った彼らは4年間に渡って無敗だった。

   その中心にいたのがフェレンツ・プスカシュで欧州が世界に
   送り出した偉大なる天才として記憶される。

   新しいファンには名前すら耳なれないこの男をペレやクライフと
   同じ世界の住人だと言い切っても決して過言ではないだろう。

   ばかりか、それは真実以外の何物でもない。

   プスカシュは1927年4月2日ハンガリーの首都ブダペストで
   生まれている。

   父親は地元クラブ、キシュペストの監督を務めており「サッカー
   は芸術である」という強い信念を持っていたが自分の息子が
   一生その領域に足を踏み入れないだろうという確信に似た
   諦めも抱いていた。

   幼いフェレンツはまったく怠け者で練習をひどく嫌ったばかり
   かどんなボールも
左足だけでさばこうとしていたからだ。

   後に彼は、左足があまりに優等生なのでその主張を聞かず
   にはいられないんだと話しているがこのジョークがまったく的
   を得ていたことは明らかだった。

   彼はしばしば右足がまったくボールに触れない試合すら経験
   しているが信じられない破壊力と技巧を誇る片足があれば
   不出来なつれあいの出番がないのは明白だった。

   その優秀性をアピールするかのように父親のクラブで16才
   にしてレギュラーを獲得し左のインサイドレフトで地位を確立、
   翌年にははやくも代表に名を連ねて宿敵のオーストリアを
   破っている。
  
   以後彼は11年間に渡り代表の顔となるが47ー48シーズン
   に32試合で驚愕の50ゴールを記録したその翌々年には
   軍部が設立したホンベドにチームごと吸収されてしまう。

   人々はプスカシュを
「走る少佐」と呼んで歓迎し彼もそれに
   答え、7シーズンに5回の優勝を飾っている。

   容易に想像がつくが、この呼び名はハンガリー人にとっては
   聖人のそれに近いものであったことだろう。

   52年のオリンピック優勝よりも彼らを強く世界に知らしめた
   のはその翌年、90周年を迎える英国サッカー協会の記念試合
   聖地ウェンブリー・スタジアムにてイングランドを6ー3で破った
   試合であろう。

   ホームで同国代表が初めて土をつけられた試合でその斬新な
   システム・戦術と素晴らしい個人技を披露したハンガリーに
   詰めかけた観客は声を失い惜しげもなく「マジック・マジャール」
   の名を贈った。

   当時FWは5人おり、マンマークの守備が基本であったが彼らは
   その盲点を見事についてみせた。

   ハンガリーのFW陣は中央と両サイドが引き気味になり上空から
   見ると「M」の字をかたちづくっていたのだがセンターフォワードの
   ヒデクチがするすると下がりマーカーを引き連れてゴール前に
   スペースを作ると「黄金のヘッド」と呼ばれた珠玉のストライカー、
  
 コチシュとプスカシュが次々と飛び込んできてゴールを脅かした。

   ウイングの
チボールブダイも危険な選手だった。マークにいけば
   後ろにスペースが空いてインサイドのプスカシュたちに仕事場を
   与えてしまうしかといって自由にさせれば簡単にセンタリングを
   許してしまう。

   揃いも揃って季代の名手たちだった彼らには「母国」の選手たち
   もなすすべがなかった。半年後の再戦では雪辱を果たすどころか
   7ー1というさらに屈辱的な敗北を喫している。

   50年6月以来、27戦0敗4引き分け。一試合の平均得点が4点
   を越えるというそれはまさに
魔法だった。

   彼らはこの勢いをかったままW杯に乗り込む。54年スイス大会
   の栄冠は彼らの頭上に輝く筈だった。

   しかし運命の女神は別の答を用意していた。

   西ドイツは戦後の復興もままならない弱小国で選手のほとんど
   はプロですらなく本来なら問題にならない相手の筈だった。

   実際グループリーグで当たった時には8ー3のスコアで一蹴
   している。

   ただしプスカシュが手痛いファウルを浴びてリタイアしたのは
   誤算だった。

   それでもマジャール人たちは突き進み
「ベルンの死闘」と言わ
   れたブラジル戦を制し王者ウルグアイをもねじ伏せてファイナル
   へ駒を進めた。

   無敗記録は依然として更新中、プスカシュも負傷をおして
   西ドイツ戦に出場した。

   開始早々2つのゴールを奪ったのはいいものの圧倒的に試合
   を支配していながらなぜかそれ以後ゴールには嫌われた。

   25本のうち13本もの決定的シュートを放ちながら一度もネット
   が揺れることはなかった。

   ゲルマン人たちは効率よく3点を奪取しプスカシュは終了直前に
   同点となるゴールを左足で決める。

   だがそれはオフサイドだった。笛が鳴った。

   「我々の日ではなかった」
とプスカシュは語った。

   最も大切な試合で無敗記録が途絶えたのはまったく皮肉という
   ほかはなかった。

   56年、ハンガリーの民衆が蜂起して革命が起こった時プスカシュ
   たちは遠征のまっ最中だった。

   亡命が認められるかどうかわからなかったが彼は帰国を拒否
   して、受け入れ先のクラブを探し始めた。

   ところが、いかに実績が華々しかろうとも自らが走るよりボール
   に走らせろという信条を持った169センチ82キロという太り過ぎ
   の30才は商品としては明らかに魅力に欠け過ぎていた。

   救いの手を差し伸べたのは王者レアル・マドリードでプスカシュ
   は素直に感激して体重を落としてチームのために全力を尽くす
   ことを誓った。

   レアルの判断は正解だった。

   プスカシュは支配欲の強い
ディステファノをたてこの気短かな
   キングの信頼を得ることに成功した。

   スペインリーグで4度の得点王、リーグ優勝6回を飾り60年の
   チャンピオンズカップ決勝ではチームの7点をディステファノと
   二人だけで挙げてみせた。(プスカシュは4点を記録)

   スペインで彼は
「小さな大砲」と呼ばれて親しまれ65年チリW杯
   では国籍を取得してスペイン代表としても4試合に出場している。

   バロンドールの受賞こそかなわなかったが全盛期と変わらない
   プレーぶりで第2の故郷の人々も熱狂的に彼を誉め称えた。

   だが、年齢を重ねるにつれブダペストの思い出が彼を捕らえて
   離さなくなった。

   皆が「小さな弟」と呼んでかわいがってくれた町。

   父と初めてサッカーボールを蹴った町。

   それはW杯以上にかなわない夢のように思えた。

   彼は引退して監督業に乗り出し71年にギリシアのパナシナイコス
   をチャンピオンズカップの決勝にまで導いている。

   際限なく太った彼は終始機嫌がよさそうに見えたがブダペスト
   のことを一日たりとも忘れたことはなかった。

   神様の罪滅ぼしだったのかどうかはわからないが今度の夢は
   92年にかなえられた。

   65才になったプスカシュは正式な手続きを経て生まれ故郷の町
   に35年ぶりに帰った。

   国を棄てた英雄を待ちかまえていたのは罵声でも石のつぶて
   でもなく、救世主に贈る
祝福の嵐だった。

   だがそれも決して驚くにはあたらない。

   いったいどれだけの選手が84試合83得点という記録を残す
   ことができるだろうか。

   プスカシュはハンガリー人の誇りだった。

   そしてそれは、彼のプレーに心奪われたすべての人々にとっても
   同じことだろう。

   魔法のハンガリー人、プスカシュはプストスという名前で登場する。

   マジック・マジャールの代表は彼一人だが半世紀前、霧のロンドン
   で披露した魔法を今度はJの舞台で存分に見せてくれることだろう。