第4回 ミッシェル・プラティニ
       
   「将軍」が颯爽と行く。
  
   フィールドの中を威厳たっぷりに走り回り、自ら優秀な戦士
  として敵のゴールを陥れ、優秀な二人の腹心を味方につけ、
  ブラジル人すら息を飲む美しい芸術をひっさげて。

  いったい80年代、彼にかなうMFが存在したであろうか。

  少なくとも欧州では彼は無敵だった。南米のジーコは彼に
  勝るとも劣らないがウディネーゼという弱小チームに籍を
  置いたのは不運である。

  ミッシェル・プラティニの実力は歴代のスーパースターの中に
  おいても傑出している。

  たとえライバルがいなかったとはいえバロンドールを3度受賞
  しているのは歴代たった3人、中でも3年連続という偉業には
  クライフとファンバステン、二人のオランダ人も及ばない。

  最高のゲームメーカーであり、最高のアタッカーであり、最高
  のフリーキッカーであったこの男のプレーはどのような麗句を
  並べても表現しきれるものではない。

  ゆえにフランス人は彼を「将軍」「ナポレオン」と呼ぶことに
  よってこの困難な命題から逃れているのである。

  最終的に唯一無二の呼び名が残ったという点では彼らの選択
  の賢明さに拍手が贈られるべきであろう。

  ミッシェル・プラティニは1955年6月21日、イタリア系の移民
  の子としてロレーヌ地方の小さな街・ジェフに生まれている。

  彼が3才の時にバロンドールを受賞したレイモン・コパは
  彼以前に「ナポレオン」と呼ばれた唯一の人物で現在でも
  プラティニに匹敵する評価を得ている人物だが彼もポーランド
  系の移民だった。
  
  98年に同国を初の世界一に導いたジネディーヌ・ジダンも
  アルジェリア系移民であり優秀なフランス人MFの奇妙な伝統
  
に続いている。

  それはともかく、プラティニが本格的にサッカーの道に足を
  踏み入れたのは11才の時だった。

  それまでは街頭サッカーに友達と興じる程度で父親も息子が
  クラブに入るのを快くは思わなかった。

  とはいえ人は変わるものである。息子の情熱がサッカー一筋
  になるにつれ昔アマチュアチームでプレーしていた父親は
  何くれとアドバイスをおくり彼の才能が次々と花開いていくの
  を見守った。

  やがて彼は17才になりロレーヌ地方で並ぶもののない才能
  として周囲に認知されるようになる。

  父親は地元の強豪、FCメツのテストを受ける手続きをするが
  それには意外な結果が待ち受けていた。技術やセンスは
  申し分なかったが成長期にあって急激に身体が大きくなった
  せいだろう、肺活量が十分に追い付いておらずあらん限りの
  息を測定器に吹き込んだにもかかわらず呼吸器官がプロに
  不向きと判断されて落とされてしまった。

  結果、プラティニは隣町のナンシーに籍を置き1年後にプロ
  としてデビューすることになる。

  これはFCメツのみならずフランスサッカー界全体の手落ち
  である。プラティニほど周囲から見て明らかな溢れる才能に
  適切な育成のプログラムも与えず17才まで放っておいたうえ
  ユース以下の代表にも選出しなかったのだ。

  プラティニ以後のフランスサッカーが衰退したのは明らかに
  この放任ぶりが原因であり98年の優勝はユース世代の育成
  に力を注いだ成果でもある。

  逆をいえば、プラティニは自分の力だけで世界の頂点に駆け
  上がったというわけで「将軍」の偉大さはこんなところにも見て
  とることができるだろう。

  ナンシーでプレーするプラティニの評判は次第にフランス全土
  へと広がっていった。

  21才の時には代表に選ばれフランスの将来を担う期待の星
  として注目された。

  トリコロールのデビュー戦はチェコとの親善試合だった。

  後に監督と選手の二人三脚で「シャンパン・サッカー」を完成
  させたアンリ・ミシェルに頼み込みゴール前のフリーキックを
  蹴らせてもらって見事にネットに突き刺した。

  彼のフリーキックは一部では「プラトッシュ」と呼ばれているが
  それは若い頃から既に彼の一部だった。
  
  成人してからは178センチ74キロと特別体格に問題を抱えて
  はいなかったが子供の頃に身長が低くて悔しい思いをした為
  電柱相手にひたすら練習を繰り返して個人技を磨いた。

  歴代の、誰でもいい、「フリーキック十傑」を選ぶとすれば彼が
  そこから外れることは決してありえない筈だ。

  日本的な表現をするならプラトッシュは「将軍」の腰に差された
  名刀だった。それは一瞬の煌きだが、鋭いカーブを描いて
  キーパーの決して手の届かないところへ曲がり落ちた。

  GKにとっては悪夢以外の何物でもない。

  そればかりではなかった。
 
  彼自身が「9・5番」と表現したように比類なきゲームメーカー
  の才能に溢れていながらストライカーとしても超一流だった。

  彼の頭脳は攻撃陣を自由自在に操ったが自分自身もその
  手駒の一つであるばかりかおそらくは最強の駒だった。

  彼がシュートレンジに入った時どのような屈強なFWよりも厄介
  な存在となり油断をすれば心憎いスルーパスが前線を襲うのだ。

  彼は79年、国内屈指の強豪サンティエンヌに加わり80ー81
  シーズン、フランスリーグを制覇、自身は得点王に輝きイタリア
  の名門ユベントスへと移籍する。

  フランスでのプラティニは天才にありがちな移り気が目立って
  いたがセリエAでの厳しい環境は妥協を許さない勝利への
  執着心と精神面のさらなる成長を促した。

  我が国の10番ではないが彼も自分に足りないものをイタリア
  で見つけたのである。

  ここで彼は本物のスーパースターとなった。

  イタリア人たちは、たとえ自分たちの遠い親戚とはいえ外国人
  にチームの主導権を握らせることを決して潔しとはしなかったが
  それでもプラティニの実力に触れるうち徐々に彼の指揮を受け
  入れていく。

  以後我々はしばしば「将軍」を思い出すとき白と黒のゼブラ
  思わせる縦縞のユニフォームをまとった彼を連想する。

  プラティニとユベントスは切っても切り放せない関係にあるが
  それは彼こそがこの名門に真の栄光を運んできたからだ。

  最初のシーズンに20ゴールで得点王を獲得したがこれが
  フロックではない証拠に3年連続で得点王に輝いてユーベの
  攻撃陣を牽引した。

  セリエAのような激しい守備で知られるリーグにあってMFが
  得点王になるというのは注目に値する。

  83ー84年にはリーグ優勝とともにカップ・ウィナーズ・カップ
  も制して彼自身初の欧州王者に輝く。

  バロンドール
が授与されたのはこの3年間でありプラティニが
  イタリアでどれほど充実したシーズンを送ったのか想像がつく。

  フィジカルは特別強くはないほうだったがそれすらも最高潮に
  達しており厳しいプレッシャーを楽しんですらいたようだ。

  後に本人はこの3年間が絶頂期であったことを認めている。

  このとき彼は希代の名チームの一員となって活躍しユベントス
  や自国の代表のみならず世界のサッカー史に名を残すことに
  成功した。

  それはもはや伝説で、おそらくこの先も他の二人とともに語り
  継がれていくことだろう。

  82年スペインW杯でブラジルはジーコ率いる「黄金の4人」
  送り込んだ。プラティニを筆頭とするフランスの中盤がときに
  4人として数えられるのはおそらくこれに対比したものであろう。

  しかし84年の欧州選手権ではジャンニーニ、86年メキシコW杯
  ではフェルナンデスと二度の絶頂期にメンバーを異にするため
  通常は不動のプラティニ、ティガナジレスの3人をして「三銃士」
  
ないしは「魔法陣」と呼ぶのが一般的なようだ。

  彼らがめざしたのは芸術的に勝つ攻撃サッカーである。

  素晴らしいメンバーが結集したこともあってブラジルのそれに
  劣らぬ夢のチームが完成した。

  まるでコルクの栓を次々と抜いていくように、小気味よくダイレクト
  パスを繋いでいく独自のスタイルを人は「シャンパン・フットボール」
  
と呼んで賞賛を贈った。

  84年の欧州選手権で彼らは爆発した。

  先頭に立っていたのは無論、プラティニである。5試合で9得点
  という驚異的な大活躍。

  デンマークとの開幕戦で決勝ゴールを決めたあとベルギーと
  ユーゴスラビア相手に連続のハットトリック、準決勝のポルトガル
  戦で決勝ゴール、スペインとの決勝戦では他ならぬ「プラトッシュ」
  で先制、優勝をもぎとった。

  要するに語るに陳腐なほどそれは「プラティニの大会」以外の
  何物でもなかったのだ。

  勢いは当然W杯にも持ち越されておりあのアンリ・ミシェルが監督
  として指揮をとるチームのもと2勝1分でグループリーグを勝ち
  抜き決勝トーナメントでイタリアを2ー0で難なく撃破する。

  ベスト8で激突したのはブラジルだった。

  「黄金の4人」は既にジーコとソクラテスを残すのみだったが
  侮れない最強の敵の一つなのは疑いがなかった。

  この一戦は、スタジアムの名前をとりのちに「ハリスコの芸術」
  名付けられる。

  欧州と南米の攻撃サッカーが火花を散らした名勝負中の名勝負
  として記録にも記憶にも残る。

  フランスはPK戦を制してベスト8に進んだが立ちふさがる
  ゲルマンの壁を崩せなかった。

  プラティニは3度W杯に挑戦したが彼ほどのプレーヤーとチーム
  をもってしても世界一を経験することは出来なかった。

  この偉業は「新しい将軍」によって達成されるまで実に12年の
  歳月を必要とするのである。

  W杯開催の前年、プラティニはユベントスを率いて欧州
  チャンピオンズカップの決勝をイングランドのリバプールと戦った。

  だがこの戦いは最悪で、彼に限らず誰もがやる気をなくしていた。

  会場となるブリュッセルの警察が暴動への対策を怠りフーリガンが
  暴れ出したのを止めることが出来ず試合前に死者38人、負傷者
  300人を出し「ヘイゼルの悲劇」としてサッカー史に汚点を残す。

  試合前のこの大惨事により誰もがプレーするのをためらったが
  結局彼らがフィールドに立ったのはタイトルへの情熱などではなく
  これ以上の暴動と悲劇を誘発しないようにという極めて現実的な
  配慮からである。

  試合は、プラティニのPKで決着がついた。

  ユベントスにとっては2年前、ハンブルガーを相手に涙を飲んだ
  念願の優勝であるがどうしようもない苦い勝利は勝利の喜びを
  決して引き起こさなかった。

  彼らはこのままトヨタカップにも出場して世界一のクラブの座に
  輝いたが「あの夜、サッカーに対する幻想を失った」その後では
  どうしても以前のように実が入らなかった。

  彼が国立競技場で決めたゴールをオフサイドと判定されたのに
  頭に来てふてくされて横になってみせた時既に彼は虚無感に
  支配されていたのだろうか。

  彼は87年までプレーを続けたがもう一度W杯を狙う気には
  どうしてもなれなかったらしい。

  不世出の英雄は、これ以上何も望まず翌年現役生活に別れを
  告げた。まだ33才という若さであった。

  98年に世界を制したジダンは折りにつけプラティニと比べられる
  運命にある。素人、専門家を問わず彼はまだ「将軍」には及ばない
  という意見は多いようだ。

  「ジダンは素晴らしいプレーヤーだ」ある記者は言う。
  「ボールコントロールは彼以上だろうしゲームメイクも負けては
  いないだろう。いくつかの点でプラティニを越えている。
  だが、彼にはたった一つ足りないものがある。」

  これは、プラティニを愛し、ジダンをも愛する多くのファンの
  共通した認識なのであろうか・・・?

  「それは、プラトッシュだ。」

  「将軍」プラティニはミシェルという名前で登場する。

  ペレが「世界最高の名手」と評した男のプレーぶり、
  ご自分のチームにてじっくりと味わって頂こう。