第3回 ジーコ
    

    日本には八百万(やおよろず)の神がおり八百万とんで
   1番目の神はブラジルからやって来た。
  
   その男はZの頭文字で知られる。

   比類なきサッカーへの愛情で尊敬を集めるその男を人は皆
   ジーコと呼んで誉め称える。

   アルトゥール・アンツネス・コインブラが生まれたのは1953年
   3月3日のことである。

   ジーコという名前の由来は諸説あるが従兄弟のリンダが愛情
   を込めて「アルトゥジーニョ」と呼んだものが「アルトゥジーコ」
   を経て「ジーコ」に変わったと本人は自伝の中で述べている。

   父親ジョゼは洋服の仕立て屋だったが過去アマチュアチーム
   で慣らした名GKだった。保証のないプロの身分をジョゼは
   嫌っていたが結果的に4人の息子のうち3人までがその世界
   に身を投じた。
  
   だとすれば確かにジーコはサッカーの血を受け継いだらしい。

   ブラジルの多くの少年同様ボールを蹴り始めたのがいつだか
   全く覚えていないが幼いながら草サッカーの助っ人として
   あちこちに顔を出し数え切れないゴールを決め続けたことは
   確かだ。

   知人に連れられてフラメンゴの入団テストを受けたときあまり
   にチビで痩せているのでコーチはいぶかしんだがテクニックと
   ゴールセンスが誰にも負けないことを証明するのに時間は
   かからなかった。

   マラカナンへの道はこうして開かれ彼は後に多くの栄光を
   もたらすことになるがそこに行き着くにはいくつもの苦難を
   乗り越えねばならなかった。

   プロである二人の兄のアドバイスは財産だったが彼は彼自身
   の
強い精神力でこれらを克服していくことになる。

   16才のジーコを待ちうけていたのは綿密な肉体の改造計画
   であった。

   才能に疑いはなかったが150センチにわずか40キロという
   身体は問題だった。これはコインブラ一家の伝統といえる
   もので兄のエドゥーも体格を理由に代表入りを拒まれていた。

   全身12ヶ所に渡る細密なデータが収集されホルモン注射や
   食事内容などが練られ外科手術で歯の噛み合わせや頬の
   しこりを矯正しさえした。

   ジーコは孤独なウェイトトレーニングを黙々と消化したが
   誘惑の多い思春期の年の少年は文句一ついわなかった。

   失ったものは確かに大きいが得たものの方がはるかに
   大きかったとジーコは言う。

   この経験は彼が
「サイボーグ」と揶揄される原因になったが
   その素晴らしいプレーに触れるたび口さがない人々はひとり
   ひとり少なくなっていった。

   もはや誰も、ペレ以来の才能のかたまりが登場したことに
   疑いを持つものはいなくなっていた。

   そして20才でトップにデビューした彼は伝説の階段を
   猛スピードで駆け上がっていった。

   ブラジルの10番のイメージはペレというよりジーコによって
   完成されたという方が正しい。ペレは破格のゴールゲッター
   だったがジーコは
中盤のエースだった。

   彼は攻撃のすべてをつかさどった。
  
   その目は敵のスキを一瞬たりとも見逃さず矢のようなスルー
   パスを前線に送ったし巧みなドリブルから繰り出すシュートは
   確実に枠を捕らえた。

   試合の中で自分が何をすればいいか彼ほどわかっている選手
   もいなかったうえ自在に変化する状況にもすぐに順応すること
   ができた。

   代名詞のフリーキックは飽きるほど繰り返した練習のたまもの
   だという。

   ジーコの記した教本の中には驚くほど当たり前のことしか
   書かれていない。
  
   「ただ、ひたすら練習すること」


   実際にどこまでが才能でどこまでが努力だかはわからないが
   美しいアーチを描く必殺のフリーキックを見るたび人々が感嘆
   の声をあげて拍手を送ったのは事実だった。

   その魔法の種明かしがどうであれそこはジーコだけがたどり
   着いた領域だった。

   彼は生涯二つの伝説のチームを率いている。

   一つはフラメンゴだ。疑いもなく最強のチームだった。
  
   79年から3回連続でリオデジャネイロ州選手権を制し80年には
   全国選手権からリベルタドーレス杯優勝、翌年のトヨタカップに
   南米代表として臨んだ。

   対するリバプールは楽勝モードだったがジーコのパフォーマンス
   に触れて顔色を変えた。

   DFの頭上を越える絶妙なアシストで先制、FKからのシュートが
   GKのミスを誘って2点目、とどめは右足アウトでのノールック
   パスをFWに通して3点目。

   文句なしのMVPで世界一の称号を手にした彼はさらに翌年
   もっと大きなタイトルに挑むことになる。

   サッカー選手なら誰もがあこがれる、W杯という魔物だった。

   ブラジル史上優勝しなかったのに伝説となった代表チームは
   一つしかない。

   それが
「黄金の中盤」を構成する82年のカナリア軍団だった。

   ジーコをはじめとする4人は贅沢なほど才能に恵まれていた。

  
 ソクラテスは「医師」の名で知られる頭脳派をもって任じる
   名選手だったし
トニーニョ・セレーゾは惜しみない動きで攻撃
   と守備を行ったり来たりした。

   最後に加わったのが
ファルカンでASローマにて「鷹」の愛称で
   親しまれる万能な選手だった。

   単なる足し算ではない相乗効果に裏打ちされた破壊力は抜群で
   変幻自在のパスワークがもたらす攻撃は芸術的ですらあった。

   彼らはイタリアのロッシのハットトリックによって準決勝にも残らず
   姿を消したがブラジル国民は彼らを熱狂的な拍手で迎えた。

   圧倒的な優勝候補という下馬評を裏切しはしたが破れても彼ら
   への評価は覆ることがなかった。

   人々はそれが王国の生んだ芸術だということを知っていた。

   「黄金の中盤」は一大会かぎりで姿を消し86年メキシコ大会、
   ジーコはヒザの負傷をおして参加したが彼らを準々決勝で迎え
   うったのは4年前の彼らに勝るとも劣らない傑作、「魔法陣」の
   名で呼ばれる中盤をもったプラティニ率いるフランス代表だった。

   PK戦でジーコのW杯は終わりをつげたがこの試合は史上最高
   の名勝負として知られる。

   もし4年前にこの対戦が実現していたらどうなったか我々は想像
   の中でしかそれを味わうことができないがどちらが勝利するに
   せよ至高のゴールを決めて勝つことは間違いないであろう。

   ジーコは83年からイタリアのウディネーゼの一員となった。

   彼以外に主力選手がいないという状況で孤軍奮闘、僚友の
   ファルカンとトニーニョ・セレーゾが在籍するASローマ相手に
   決勝ゴールをあげウディネーゼ史上初のローマ相手の勝利
   を演出した。

   プラティニと最後まで得点王争いを繰り広げわずか1ゴール
   少ない19得点で涙を飲んだが出場した試合は6試合も
   少なかった。

   欧州ではタイトルに恵まれなかったため実力にもかかわらず
   不当なほど低い評価を受けているが我々は知っている。

   ブラジルに戻り、スポーツ大臣の職を辞してまで日本リーグ
   2部の住友金属に入団、弱小に過ぎなかった鹿島アントラーズ
   を強豪に育てた実績を我々は知っている。

   ジーコはサポーターには文字どおり家族同然に接しチーム
   メイトから特別扱いを受けるのを嫌っていた。

   彼の教えるサッカーは当たり前で合理的な内容だったが彼に
   かかるとそれは
魔法となった。

   誰にでも出来ることだと彼は言う。

   誰にでも出来ることではないと我々は思う。

   我々は彼を
神様と呼ぶ。ペレ以上だとすら時に考える。

   ジーコはこう答える。
   「ペレは、私などよりはるかに多くのゴールを決めている」

   しかし、中盤の選手でありながら生涯831得点を記録し
   ブラジル代表として89試合で66得点することはジーコ以外
   ほかの誰にもできることではない。

   ブラジル人と日本人はその事実を誰よりもよく知っている。

   王国サッカーの結晶、ジーコはジードという名前で登場する。

   喜ぶべきである。彼の恩恵を受けられるのは
   何も鹿島アントラーズばかりでは決してないことを。