


まだ少年だったエドソン・アランテス・ド・ナシメントをその名前
で最初に呼んだのは、彼のクラスメイトだった。
ところが、この名前がどういういきさつでついたものか、本人も
当の級友もまったく覚えていないという。
確かなのは、その名前で呼ばれるたびに彼が決まって怒った
ということだけである。
だが、その感情はすぐに捨て去らなければならなかった。
というのも、ほどなくして世界中が彼をその名で呼んだからだ。
今では誰もがこの男を、「ペレ」という名前で知っている。
ペレは1940年10月23日、ブラジルのミナス・ジェライス州
トレス・コラコエスでサッカー選手の父のもとに生まれた。
父はドンジーニョの名前で知られるそこそこの選手で、ペレ
の最初の監督になり、後にそれ以上の熱意で彼の支持者
になった。
ペレが初めて蹴ったボールは、古い靴下を束ねてつくった
粗末なものであったがサッカーを何より愛していた少年には
どうでもよかった。
きちんとした試合をプレーしたのは10才の時で、3年後には
初めてのクラブ、バウルに入団している。後にサントスとN.Y.
コスモスが代名詞となるペレだが、このバウルに所属したこと
の意味はことのほか大きかった。
彼はここで人生唯一の警告による退場を経験する。
監督のワルデマルはドンジーニョの友人で、少年の激しやすい
感情にすぐに気がついた。
彼はペレに自制心というものを教えたが、愚かな指導者たち
がたびたび行うような型にはまった教育を施して、そのすくすく
と伸びる才能を抑えつけるようなばかなまねは決してしなかった。
(公平にみて、この経験がなければ後の「神様」は誕生して
いなかったかもしれない)
15才で名門サントスから誘われた後はとんとん拍子だった。
1、2軍混成チームの人数が足りないことがわかり人数合わせ
に呼ばれた試合で4点を叩き出した彼はそのまま一軍に上がり、
あっという間に代表入りした。
このとき彼はまだたったの16才であった。
ペレとW杯は切っても切りはなせない関係にあるが、彼が他の
どんなスタープレイヤーとも異なっているのは「ペレのW杯」と
呼ばれる大会をつごう二つも持っている事でこの点に関しては
ほかの誰も彼にかなうことがない。
サントスで一年間に53ゴール(!)をあげたあと膝を故障した
ペレは、58年W杯には呼ばれないと思っていたがその才能を
見込まれてスウェーデンに連れていかれた。
大会序盤は欠場したが、4試合目のウェールズ戦でゴールを
決めるとたちまち彼の中のエンジンがかかった。
準決勝のフランス戦では26分でハットトリック、そして決勝の
スウェーデン戦で伝説のゴールを決めてみせた。
左からのクロスを胸でトラップし、DFをかわしもう一度浮かした
ボールの落ち際を右足で叩いた。
この大会はブラジルの4ー2ー4の革新的システムと悪魔と
恐れられたガリンシャのデビューも重要だったが何より人々
の目に焼き付いたのは、そのちっぽけな少年だった。
彼はまだ17年しか生きていないにもかかわらず、古今東西、
あるいはそれまでの歴史を紐といても彼以上のテクニックを
持った選手は存在しなかったのだ。
そしてそれは、(ご存じのように)今でもなお真実である。
初めて大会の様子を伝えるテレビ中継の白黒映像においても
ハッキリと「黒人」であることが確認できるにもかかわらずペレ
は世界中で賞賛と尊敬を受けるヒーローになった。
(これは非常に重大な事実を含んでいる)今でもこの評価は
変わっていないが(おそろしいことに)
このことは彼の偉大さを示すほんの一例にすぎない。
何かを学習するには、4年という時間があれば十分だろう。
この頃までには、なぜペレはああもやすやすと得点すること
ができるのかという命題に結論が与えられていた。
「要するに、彼はそういうふうに生まれついているのだ」
これが結論だった。人々はそれ以上考えることを放棄した。
何より観客は小難しい問題に悩むより彼の才能を十分満喫
することのほうを望んだし、彼を迎え打つ選手だちにとっては
考えるだけ頭が痛かった。
そのゴールへのアイデアがどこからでてくるのか誰も答を
知らなかったばかりでなくあきれたことに彼以外の誰かには
到底不可能なテクニックで事もなげにそれをやり遂げてみせた。
それもまだ身体がひ弱とでも言うなら溜飲も下がったろうが、
ペレは憎らしい程タフでしばしばGKがジャンプしても届かない
ボールに追い付き頭の一振りでネットを揺らすのだった。
彼はしかも単なる「点取り虫」ではなく、的確に試合の流れを
読む目を持っていて、1秒もあれば次に誰がどこに走ってくる
か見当がつき相手を見もしないで決定的なパスを送った。
一言でいうなら「文句のつけようがなかった」。
むろん各国のDFは、国の威信の為あきらめることは許されず
不本意ながら(そう信じたい)、ペレをしばしば暴力で止めた。
それでも62年はまだガリンシャが助けてくれたが66年は
手厳しく、情け容赦のないタックルが彼を襲い傷ついたペレ
はチームドクターの肩を借りて退場した。
この大会、ブラジルはグループリーグで敗退したが決勝
トーナメントで待っていたであろうもっと過酷な仕打ちの
ことを考えると身震いがする。
彼にとってはまだこれでよかったのかもしれない。
(ブラジル人の前では、死んでも言えないが)
70年、彼は29才で円熟の極みにあり、トスタンやリベリーノ、
ジェルソンらをようしたこのチームは同国歴代最強のイレブン
として記憶されている。
圧倒的な強さ(4-1)でイタリアを倒したブラジルはジュール・リメ
杯を永久保持する最初の国となった。
これらはすべてペレがもたらしたものといったら言い過ぎだが
彼がいなければ成し遂げられなかったのは事実であろう。
74年までサントスでプレーしたペレは33才で引退する。
だが、サッカーの神様(雲の上にいるほうだ)はまだ彼に安息
を与えなかった。
1年後アメリカの北米リーグに参加を決めた彼はN.Y.コスモス
の一員になり、ブランクなどものともせず記念すべき初の年間
最優秀選手に選ばれた。
この時、この「不毛の地」にサッカーの楽しみを伝導して
いなかったら94年の大会は果たしてありえただろうか。
アメリカのみならず、ペレは常にサッカーの伝導師だった。
サントスで世界を巡業したさいには両国の兵士が彼のプレー
を見たいというただその為だけにビアフラとナイジェリアが
2日間休戦したという。
77年、彼は今度こそ本当にユニフォームを脱いだが
ジャイアンツ・スタジアムには7万5646人の観衆が
詰めかけ、彼との別れを惜しんだ。
引退後も彼は忙しかった。
もっとも、ユニセフ親善大使などの少々サッカーから縁遠い
仕事ではあったが。
この事実は、ペレが優れた選手であったというのみならず
人間としても非常に尊敬できる人物だったことを示している。
彼は有名になっても少しも気取らず、実直で、神様が彼に
与えてくれたものを返すためだけに尽力している。
現在は94年からブラジルのスポーツ大臣の要職についており、
その素晴らしい選手時代のキャリアにもかかわらずサッカーの
監督だけはやったことがない。
この職業がいかに大変かということを熟知している彼は今後も
現場に戻ってくることはおそらくないであろう。
ペレの弱点とは(そんなものがあるとしてだが)いったい
何であろうか?
口さがない人々は彼の守備能力を問題にする。もしかしたら
攻撃力に比べて低いかもしれない。
だが、それが何だというのだろう。
彼のポジションはFWだったし、何より重大なことは、世界で
最も攻撃を愛するブラジルこそが彼の祖国だったことだ。
人々は彼のゴールこそを願い、彼はつごう1287回、その願い
をかなえた。
守るのは常に相手のチームであって、彼自身はそんなことを
気にする必要すらなかった。
ペレはサンパウロ州で9年連続を含む合計11回の得点王を
獲得しており、その記録に追い付くためには年間56ゴールを
休むことなくあげ続けないといけない。
記録だけですべてを語るのは愚かだし、彼の本質は決して
そこにはないがそれでもなお、この先ペレを越える者は一人
もいないだろう。
サッカー史上最も偉大なプレイヤー、ペレはその本名を
名乗って登場する。
貴方のクラブの「ナシメント」は、日本でどのような伝説を
刻むのであろうか。
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