
ブラジルサッカー史上にさん然と輝く巨人として我々はしばしば
ペレとともにガリンシャという名前を耳にする。
彼は事実上すでに歴史の彼方にあり今では彼がどんな選手だった
かを語ることすら忘れられている。
若くして鬼籍に入ったことが彼の伝説に色を添えているだろうこと
を差し引いてもあの「神様」に肩を並べるプレイヤーとして評価
されるガリンシャとは一体なにものだったのか。
これはペレというサッカー選手の理想形とは180度異なる特異な
存在であれど、才能というものの持つ絶対的な重みを知らしめた
一人の異端な天才の物語である。
ブラジル人プレイヤーの多くがそうであるように「ガリンシャ」という
のもまたニックネームである。
1933年10月28日に生まれマヌエル・ドス・サントスという本名を
持つ少年に山岳に生息する小鳥、ミソサザイを意味する名を与えた
のは誰だか知らないが彼の多すぎる兄弟のうちの一人だった。
ガリンシャは子供の頃この鳥をパチンコで撃ち落とす腕前に関して
決してほかの誰にも負けたことはなかった。少年はペトロポリス
郊外のパウグランデの出身だったが6才の時にポリオ、俗に言う
小児マヒにみまわれた。
ガリンシャの家はとても貧しく医者にかかる金などは持ち合わせて
いなかったため一人の無名の若い医者が無料で手術を施した。
結果、彼の背骨はSの字状に歪曲し両足が同じ方向にねじ曲がった
うえ左足は右足より3センチも短かくなった。ほかの人々にとっては
平面であるはずの大地も人生の困難さを表すような坂道に感じら
れるありさまだった。
しかしガリンシャは、どういう神のいたずらかそのハンディを微塵も
感じさせないドリブルの天才だった。
17才の時に彼は友人に連れられてボタフォゴのサッカースタジアム
に赴きトレーナーに入団テストを受けさせて貰えるように頼んでいる。
彼にあてがわれたのは当時のブラジル代表であり現在でも伝説の
DFとして名高いニウトン・サントスだった。
トレーナーは、生まれて初めてシューズを掃いたこの少年が飛び
上がって故郷に逃げ帰ることを期待していたが実際にはまったく
そうはならなかった。
少年のドリブルに翻弄されて何度も尻餅をついたのは南米にその名
を轟かせている筈の名選手の方で何回やってもその身体に触ること
すら出来ない彼はしまいには音をあげてトレーナーにさっさと契約を
すませてしまうように勧めた。
彼いわく「こんな男を敵に回してはたまらない」。
これはガリンシャが生涯対戦したすべてのDFの本音だろうし
褐色の悪魔の誕生秘話としては十分なエピソードであろう。
ガリンシャは満足な教育を受けたことがなく知的障害の相さえ見ら
れていたがそんなことは問題ではなかった。彼が右ウイングとして
ひとたびボールを持つや敵の誰もそれを奪うことが出来なかった
からだ。
のろのろとした緩慢な動作から繰り出される急激なダッシュは
どちらに彼が抜けるかわかっていても止められなかった。
信じられないようなテクニックは真に驚異的でその技巧をことの
ほか恐れたDFたちはガリンシャが身体を少し動かすだけで簡単
にフェイントにひっかかかった。
この男の前では、戦術やシステムなどは全く無意味だった。
彼はたった一人で何もかもをぶち壊してしまった。
ガリンシャに関する逸話には少々誇張されたものもあるが
ブラジル人は今でもそれを熱っぽく語ってやまない。
「ガリンシャが右肩を落とすだけでDFがふっとんだ」
「ボールを地面に置いたままダッシュしつられて動いた相手を
尻目に歩いてボールのところまで戻った」
「GKまで抜いておきながらわざわざもう一度戻ってDF陣ごと
再び抜き去ってゴールした」
これらの逸話から伺えるのは、圧倒的な力を見せつけようとする
無邪気な暴力性であるがクリーンで相手を尊重することを忘れ
ないペレならば決してこういう方法をとりはしなかっただろう。
そしてこれこそがペレとガリンシャの違いであり
神と悪魔との最大の違いでもある。
ただしガリンシャがその技巧によって常に相手の尊敬をも集めた
ことを忘れてはならない。
W杯で対戦したソ連代表は、試合後ブラジルの宿舎を訪れ
こっそりとガリンシャを取り囲んで笑ったという。
「やっと、あんたを捕まえることが出来たぞ」
フィールドで彼に触れることすらかなわなかった選手たちは彼の
技術に感服したあと手放しで彼を誉め称えた。
ガリンシャが時に「ペレ以上」と評価されるのはいかにも
ブラジル人らしいこんな一面に由来している。
ガリンシャが最も輝いたのは62年チリW杯でのことである。
4年前の優勝にも貢献はしていたがペレが負傷してのち世界は
この悪魔の偉大さを思い知った。
この大会でのガリンシャは絶好調で得意のドリブルのみならず
バナナのように曲がり落ちる鋭いフリーキックを披露し空中戦
でも大柄なDFを寄せつけなかった。
チリのサッカー誌は彼の活躍を以下のように報じている。
「彼は一体、どの惑星からやって来たのだろうか?」
彼がいなければブラジルの連覇は決してなかっただろうがそれと
気づかずガリンシャは大きな代償を支払うことになる。
この大会でヒザを負傷した彼はその傷を癒す時間も与えられない
ままボタフォゴによって欧州のあちこちに連れて行かれた。
世界遠征がひっきりなしに続き、休むことは許されなかった。
パリでプレーを拒絶して暴れだしたりもしたが結局は金の亡者の
手によってフィールドに送り出された。
流行歌手のエリス・スアレスに恋をしたことも不幸だった。
なりふりかまわぬ恋慕は周囲のひんしゅくを買い前妻と離婚するに
時を同じくして彼はコリンチャンスへと移っているが幼い子供たち
6人の養育費は彼一人が稼いでいくには余りに膨大な額だった。
ヒザは悪化の一途をたどり彼は徐々に平凡な選手に成り下がって
いった。
それでも昔日の栄光をいつか取り戻すことが出来ると信じていたが
全盛期ならたとえ足を縛っていてもやすやすと置き去りに出来た
三流のDFに手こずりむかしの雄姿を知らない子供たちに嘲笑
されたのちそれがもはや幻想でしかないことを絶望的に悟った。
ガリンシャはやりきれない感情を酒で紛らわすようになり70年に
フラメンゴで現役を引退、彼が立ち直ることを願ってやまない友人
たちは彼のために飲食店のオーナーという座を用意したが経営に
失敗し無一文同然の身となり親友ですら愛想をつかして彼の前
から姿を消した。
1983年1月20日、
金もなく、看取る者もなく、アルコールの瓶をかかえたまま哀れ
にも撃ち落とされて墜落していくミソサザイのようにガリンシャは
独りぼっちで眠るように死んだ。
49才の短かすぎる生涯だった。
彼がセレソンとして参加した66年W杯のハンガリー戦はガリンシャ
の代表としての最後の試合だったが60試合に及ぶ国際戦歴
(非公式のものを含む)のうちこれが初の敗戦だったことは真に
驚くべきことだ。
強いブラジルの象徴だった彼は死後、背番号7番と共に伝説となった。
ブラジルは天才ドリブラーを泉のように次々と輩出するが褐色の
悪魔を越える存在はおそらくこの先一人も登場することはない
であろう。
右サイドの魔法使い、ガリンシャはガンジャという名前で登場する。
世界を驚愕させた悪魔のような技術をぜひ貴方自身の目で
確かめて欲しい。
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