どれほどサッカー音痴の少年でもペレとマラドーナだけは 知っている。 この事実が、ディエゴ・マラドーナの偉大さを物語っている。 その圧倒的な才能という点において共通しているにも関わらず 二人の明暗を分けているのは、寛大な人間性において誰から も尊敬されたペレとは異なりマラドーナは彼に与えられる賞賛 の声と同じくらい罵倒や侮蔑、嘲笑や失笑の対象になったこと である。 20世紀、100年におよぶサッカー史の中で彼ほどの天国と 地獄を味わった男はいない。 それでも、マラドーナの名声が地に墜ちた現在でさえ彼が 見せた数々のマジックに心踊らせる人は多い。 我々はしばしばこう考える・・・。 「果たしてこの先誰が、あれほどサッカーの快楽を 与えてくれるというのだろうか?」 サッカーの神というものがいるのかどうかわからないがその 「神の子」という名前が象徴するように確かにマラドーナは 彼、あるいは彼女に愛された。 神がとりわけ溺愛したのはその左足だった。 彼以外のサッカー選手が足でボールを愛すのに対し、 マラドーナはボールのほうから愛された。 その左足は、常人には想像もつかないようなあらゆるタッチ が可能であり、彼自身がそう命じなければ決してボールは 放れなかった。 「ピタリと吸い付いてはなれない」とは彼のためにあるような 形容である。 その信じられないテクニックばかりではない。 攻撃に関するたぐい稀なるセンス、ゴールゲッターとしての 圧倒的な決定力、チャンスをこじあける芸術的なパス、 試合の流れを一瞬で読み取りそれと同じスピードで自らの ほうにたぐり寄せるゲームメイク、そして、誰にも止めること ができないドリブル。 彼の世代のみならず、ほかのどの時代を見渡してもこれらを 彼ほど高次元で(ほとんど神の領域で)成し遂げたプレイヤー は存在しない。 彼の映像は数限りなく残っているがそれらの一つ一つが彼の 並外れた才能を証明している。 ディエゴ・マラドーナは60年、アルゼンチンはブエノスアイレス州 ラヌス郊外、ディエゴ・マラドーナ・シニアの8人兄弟の5番目の 子として生まれた。 貧乏以外の何物でもなかった一家にとってはサッカー選手と して大成することが貧困から抜け出す手段であり彼が愛して やまない兄弟の何人かもプロのサッカー選手に身を投じている。 仲間たちと「ロス・セボジタス(小さなタマネギ)」というチームを 結成してプレーしていたマラドーナは、優秀なメンバーが揃って いたこともありチームごとアルヘンチノス・ジュニオルスに買い 取られた。 タマネギの中で最も早く目を出したマラドーナは15才の時、 背番号16をつけてリーグ戦にデビュー、翌年には早くも水色 と白の縦縞のユニフォームが与えられる。 この頃になるとマラドーナはアルゼンチン中に知られた人気者 になっていたが、その急激すぎる成長を危惧したメノッティ代表 監督は78年の自国開催のW杯に彼を呼ぶことを控えた。 マラドーナ自身も国民もこの決定にはおおいに不満を抱いた。 それでも79年の日本ワールドユースにのぞんだマラドーナは 後に反目しあうことになるラモン・ディアスとのコンビで圧倒的 な強さで優勝をかち取る。 このとき世界は初めてマラドーナのプレイに注目したが後の 狂騒から考えて、それはまだほんの序の口にすぎなかった。 166試合で116点というリーグ記録を残し、マラドーナは ボカ・ジュニオルスに移籍し、この年、本来なら2回目となる はずだったW杯に出場。 与えられた背番号は「10」。 エース以外はアルファベット順に背番号をつけるこの国で 22才のマラドーナはすでにエースだったが、若く血の気の 多かった彼はブラジル戦でバチスタにファウルして退場処分 になった。 彼が本当の活躍を見せつけるまで世界はあと4年 待たなければならなかった。 スペインのバルセロナに渡った彼はケガに苦しみ、スペイン・ カップをもたらしたあとナポリに移籍した。 ナポリは、アルゼンチン移民の故郷であり故郷の名に恥じない 安息をマラドーナに与えた。 いまなお「マラドーナのクラブ」として思い起こされるのはナポリ に他ならず、実際彼が加入したことでクラブは名門と化した。 マラドーナの左足は2度のスクデットとコッパ・イタリア、UEFA カップをもたらしたがマラドーナが同地を離れるや否や斜陽化 し、今期とうとうセリエCへと転落した。 ナポリが昔日の栄光を取り戻すことはもう二度とないだろう。 86年のメキシコは、リネカーの活躍や「黄金の中盤」と「魔法陣」 の対決など、話題にはことかかなかったにもかかわらず 「マラドーナの大会」として記憶されている。 それは、とりわけ重要な2つのゴールに基づいていた。 「神の手」と本人が表現した疑惑のゴールは、後々ゴール前 でFWが不当に手を使うたび「彼はマラドーナではない」と 言われる解説者の常套句になった。 もう一つは彼の卓越した技術を示す好例であり、サッカー史に 永遠に語り継がれる偉大な記録となった。 自陣からGKを含む5人を抜き去ってゴールしたマラドーナは この瞬間、伝説となった。 おさまらないのは彼にやられたイングランドだったがリネカーが マラドーナの得点を上回りタイトルを獲得したことで少しだけ 溜飲を下げた。 アルゼンチンは西ドイツを破り、マラドーナは高らかに ジュール・リメ杯を掲げた。 だが、このとき歯車はひそかに狂い始めていた。 90年イタリア大会において、圧倒的な優勝候補だったにも 関わらずイタリアは3位に終わった。 マラドーナを愛していた国民は、イタリアとアルゼンチンが決勝 で戦い、マラドーナが1点とるもののイタリアに優勝してもらい たいと思っていた。 だが、イタリアの息の根を止めたのは他ならぬ彼のパスで、 しかも場所はナポリのスタジアムだった。 同地の人間を自分たちのサポーターにつけようと画策した事実 が明るみに出たことによってナポリおよびイタリアと、マラドーナ の不和は決定的になった。 翌年、ドーピングテストでコカインが検出、彼は15ヶ月の出場 停止処分を受け逃げるようにこの国を去ってスペインに渡る。 絶不調でセビリアサポーターを失望させたマラドーナは アルゼンチンに戻って再びボカのユニフォームを着た。 この時点で彼が国際舞台に復帰することは絶望的だったが、 94年のアメリカW杯でカムバックする。 ギリシア戦で一級品のゴールを決めたマラドーナはTVカメラに 向かって吠えた。 だが、それは最後の火花だった。 再びドーピング検査で陽性の反応を出した彼は大会から締め 出され、まだ十分に輝きを残す身ながら人々から「抹殺」されて しまった。 彼は、彼と彼の才能を愛してやまない人々を世界中で裏切り 続けてきた。 その後も奇行を繰り返したマラドーナはたびたび新聞の三面 記事をにぎわせた。 彼の魔法に魅せられた人々は眉をひそめ、悲しい気持ちで 昔日の雄姿に思いをはせた。 だが、ヒーローは二度と戻ってくることはなかった。 サガン鳥栖の前身・PJMフューチャーズでプレーした ウーゴ・マラドーナは、同チームで決して10番をつける ことはなかった。 「これはいつか来る兄貴の為のものだ」 この発言はファンを喜ばせたが、マラドーナはついに日本には やってこなかった。 もし弟思いの彼がこのユニフォームを着ていたら果たして 立ち直ることができただろうか? マラドーナの悲劇は、彼の人間性がその才能ほどに成熟して いなかったことに起因している。 ペレにはそれができた。だが、マラドーナにはできなかった。 今だに彼に憧景を抱くファンは後を絶たない。 胸を踊らせた記憶は色あせることなく、我々は二度と現れること がないだろう「神の子」の出現を今だに待ち続けている。 悲劇の英雄マラドーナは、マルドラド Dという名で登場する。 天才は再びフィールドに戻ってくる。 それを見守ってやれるのは、他ならない我々だけであろう。 |