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60年代後半、バイエルン・ミュンヘンの監督チック・チャイコフスキー
はあるMFにポジションの変更を勧めた。それは、特定のマークを
持たないスイーパーだからこそ出来る斬新な役割だった。
イタリア語で「自由の人」と名付けられたこのポジションに命を
吹き込んだこのドイツ人の若者は、後世のサッカー戦術を大きく
変えることになる・・・。
フランツ・ベッケンバウアー。
西ドイツサッカー史上にさん然と輝く70年代最高の
スーパースターである。
ビッグ4と呼ばれる存在でこそないがその偉大さは4人の誰と
比べても遜色がない。
ベッケンバウアーは「リベロ」のポジションを定着させた業績に
おいて、サッカー戦術を語る上でかかせない存在である。
それと同時に、運命の女神を常に味方につけ、サッカーに
携わる者として数限りない栄光に包まれている。
選手時代・監督時代を通じて、かかわったW杯では3位より下
に落ちたことは一度もない。
選手時代に限っても、W杯優勝1回、準優勝1回、3位1回、
欧州選手権優勝1回、インターコンチネンタルカップ優勝1回、
欧州チャンピオンズカップ優勝3回、欧州カップ・ウィナーズ・
カップ優勝1回、
監督時代はW杯優勝1回、準優勝1回と、考えられるありと
あらゆるタイトルを手にしており、果たしてそのピークがどこに
あるのか考えるだけでも困難である。
バロンドールも2回受賞しており、これは96年に同じドイツの
ザマーが受賞するまでDFとしては唯一の快挙であった。
守備の選手として名を残すほとんど唯一のスーパースターでも
あり、おそらくサッカーファンに10人の歴史的名手を選ばせたら
DFは彼ただ一人であろう。
リベロとして名高いベッケンバウアーであるが、少なくともデビュー
して3年間はMFとして過ごしていた。出場したW杯でも、3回の
うち2回は中盤でプレーしている。
非凡な攻撃センスを持っていた彼は64年に19才でバイエルン・
ミュンヘンにデビューし、1年後には代表メンバーに名を連ねている。
66年には決勝まで進み、イングランドと対戦、ボビー・チャールトン
のマークを命じられたがもし彼がこの役割を辞して攻撃に専念して
いれば西ドイツの攻撃力が半減することもなく、「母国」が初の栄冠
に輝くこともなかったろうといわれる。
MFという役職においても彼はそれほど傑出した逸材だった。
彼のプレーは優雅で気品にあふれ、限りなく繊細だった。
そのするどい目は敵のいかなるスキも見逃さず、またたく間に
ゴールチャンスを演出した。
フィールドに出た彼は、スポーツマンの肉体と試合を読む
コンピューターのような頭脳を持っていたが、その奥には
何者も侵すことができない鋼のような精神力が宿っていた。
70年の大会では、W杯史上屈指の名勝負といわれるイタリアとの
準決勝に破れたが、この試合で肩を脱臼したベッケンバウアーは
西ドイツが二人の交代要員(当時)を使いきってしまったため交代
できず、脱臼した腕を身体の前面にしばりつけて想像を絶する
痛みをこらえながら、全力でプレーした。
まさにゲルマン魂の権化といえる。
ベッケンバウアーはこの大会まで4番だったが4年後再び戻って
きた時には彼の新しいポジションに移動するとともに背中には
5番をつけていた。
この背番号は彼の代名詞となり、オランダの14番に並び長く
人々に愛される特別な数字となったのである。
リベロの位置に「就任」したベッケンバウアーにはまさにそこが
天職に思えた。
その深いポジションまで追ってくるマーカーはいなかったし、
フィールド全体を見渡すのにそこほど理想的な場所もなかった。
以来彼は決してポジションを変えようとはしなかった。
それは、ありあまる才能の浪費だと非難されたが、それが事実
であるにもかかわらずいっこうに彼は耳をかさなかった。
ベッケンバウアーにとってはこの位置こそが年々込み合ってくる
現代サッカーの中で唯一こころやすらぐ場所であり、思いどおり
にプレーできる仕事場であった。
まさに「自由の人」となったベッケンバウアーはまずはバイエルン・
ミュンヘンにおいてその地位を確立した。
そこにいても彼の目は曇らず、チャンスとみるやするすると攻め
あがって相手の頭上を越える正確なチップキックで攻撃陣を操った。
彼の技術は完ぺきで、たびたびゲルト・ミュラーの頭にピタリと
合わせて得点を演出した。
相手が危機を感じて寄せてきても、そこに新たなスペースが
生まれるだけの話だった。
彼はバイエルンと西ドイツという二つのチームを自在に操り、前者
には73ー74シーズンから3年連続欧州チャンピオンズカップを
もたらし、後者には72年の欧州選手権優勝をプレゼントした。
ゲームメークを担当したネッツァとのコンビで圧倒的な強さを発揮
して欧州を制圧する。
いつしか人は彼をこう呼んだ。
カイザー。西ドイツの「皇帝」。
彼はこの称号をひっさげ、74年、地元で開催される3度目のW杯
にのぞんだ。
そこで彼は、永遠のライバルともいえる痩身のオランダ人に
あいまみえることになる。
奇しくも、予選リーグの東ドイツ戦に負けたことで西ドイツの運命
は大きくかわった。
クライフ率いるオランダと決勝まで当たらなくて済んだし、
この敗戦に業をにやした選手らがベッケンバウアーに
つめよってこう言ったのだ。
「我々は優勝したいんだ」
それは、統率力のない監督、ヘルムート・シェーンから一介の
選手に過ぎないベッケンバウアーへ事実上の全権が移行する
ことを意味していた。
ベッケンバウアーに対する選手たちの信頼は絶大で、以後、
彼がフィールドの上からすべてを統率した。
オランダとの決勝戦では、フォクツにクライフのマークを指示、
おおかたの予想を裏切り、新時代のサッカーを封じ込めた。
彼はここに悲願のW杯をかかげた。
その行く手をはばむものは、誰一人いないように思われたものだ。
だが。
ベッケンバウアーは、決してクライフにはかなわなかった。
この年、代表でW杯、クラブで欧州チャンピオンを制したにも
関わらずバロンドールの栄冠はクライフの手に渡った。
「わたしはこれ以上何をすればいいのか」とベッケンバウアーは
嘆いた。
徹底したリアリストであった彼は、クライフのような、見るもの全て
を興奮させる攻撃サッカーとは正反対の立場にいたのである。
指導者としてもそろって超一流だった二人だが、クライフが
アヤックスやバルセロナで攻撃のスペクタクルに重点をおいて
いたのに対し、彼が「史上最も退屈な王者」と形容された90年
イタリアW杯の西ドイツを率いた事実はあまりに対象的だった。
そのかわり、どこかツメの甘いクライフに対し、ベッケンバウアー
は鉄の意志で必ずタイトルをものにした。
それはそのままオランダとドイツの特質として代表チームに
受け継がれている。
ベッケンバウアーの悲劇は、彼以上のカリスマが彼の率いる
チームには決して存在しなかったことだ。
ネッツァやマテウスといった天才たちですら彼の威光には決して
かなわなかった。
それでこそ独裁者。それでこそ皇帝。
彼はいつも一人で考え、一人で決断した。
彼の導くところ必ず栄光が待っていた。
だがそれが本当に正しい方角なのか、ベッケンバウアー本人も
決して知ることはなかった。
西ドイツ代表監督は代々コーチから昇格した人物が務める習慣
があった。
「皇帝」はコーチ経験を持たない初めての監督だった。
この起用は大バクチだったが、ベッケンバウアーは見事にその
務めを果たした。
そのサッカーの中身はどうあれ、彼は監督として最高の仕事を
なしとげた。
そのチームがたとえ平凡でも、ベッケンバウアーがフィールド全体
を支配する唯一無二の「皇帝」であったことは誰にも疑う余地は
ないであろう。
リベロの代名詞ベッケンバウアーはバウアーという名前で登場する。
彼がひとたびフィールドに足を踏み入れればGKが何人いても
かなわないほどの安堵感が得られることだろう。