第17回 ヨハン・クライフ
   

    1950年代はじめ、オーストリアの専門家ヴィリー・メイスルが
   開発した「渦巻き」理論は、同等の能力を持った11人が渦を
   巻くように激しくポジションを入れ換えながら攻撃と防御を行う
   という戦術だった。

   この戦術は20年後、
「トータル・フットボール」として世界を驚愕
   させることになる。

   しかし、その渦巻きの中心にいたのは他の10人と同等の資質
   どころかありとあらゆる才能全てを兼ね備えた、
稀代の天才児
   
だった。

   ヨハン・クライフはオランダ史上最高の選手であるだけではなく
   世界のサッカー史上、最も偉大な選手の一人として傑出した
   存在である。

   ペレ、クライフ、マラドーナ、ディステファノらはビッグ4と呼ばれ
   その業績を称えられるが、サッカー戦術の進歩にも貢献したと
   いう意味では他の3人を凌駕しているとさえいえるかもしれない。

   そのクライフの栄光の人生は彼の母親の頑張りから始まっている。

   アヤックスのクラブで掃除婦として働いていた彼女はクライフが
   まだ12才のときに何としてでも彼をユースの部にいれてほしいと
   クラブのコーチ陣に頼み込んだのである。

   これがサッカーの歴史を変えるきっかけになるとは彼女も予想
   だにしていなかったに違いない。

   17才でトップにデビューしたクライフは、コーナーキックがゴール
   前に届かないほど非力な少年だったが、優秀なコーチ陣のもと
   その豊かな才能をじょじょに開花させていく。

   クライフは当初センターフォワードで、そのポジションですらペレ
   に匹敵するほどの才能を見せたが「第2のペレ」ではなく、
   「第2のディステファノ」への道を歩ませたのが71年からアヤックス
   を率いたルーマニアの名将ステファン・コバチであった。

   グラウンドのいたるところに出現し、GK以外のありとあらゆる
   ポジションを難なくこなす。

   アヤックスはこの年から欧州チャンピオンズカップ3連覇を達成した。

   だが、世界が決定的にクライフの偉大さを知るのはまだ先の話
   である。

   1974年W杯西ドイツ大会、クライフ27才の時であった。

   得失点差でかろうじて予選を突破したオランダは、大会数ヶ月前
   に監督の交代劇が起きる。

   主力選手のリタイヤもともなって、ミケルス監督が選択したのは、
   65年からアヤックスに浸透させてきた新時代のサッカーだった。

   後に「トータル・フットボール」と呼ばれるこの戦法は選手どうしの
   激しいポジションチェンジと果敢なボール狩り、積極的なオフサイド
   トラップが特徴で、オランダは次々に強豪をしとめていった。

   ニースケンスとともに、その中心にあったクライフは最初センター
   フォワードの位置にいながら少しもじっとしていることなく、ウイング
   から攻撃的MF、ボランチ、センターバックとありとあらゆる仕事を
   完ぺきにこなしていった。

   その体力もさることながら、驚異的なのはそのテクニックで
   「クライフ・ターン」と呼ばれる立ち足の後ろを通す独自のフェイント
   を駆使し、腰から下のボールは足だけで難なくさばいてみせた。

   大会のダークホースにすぎなかったオランダはまたたく間に
   優勝候補にのぼりつめ、前回優勝のブラジルを準決勝で一蹴。

   華麗なジャンピングボレーで王国をしとめたクライフはペレの
   いない大会にあって彼のあとを継ぐスーパースターとして認知
   された。

   それは確かに一つの時代の終焉を意味していたのである。

   決勝で、永遠のライバルともいえるベッケンバウアー率いる
   西ドイツに破れたオランダは同時にその限界も露呈した。

   マンマーカーのフォクツにクライフを抑えられ、彼なしでは機能
   しないチームだということを自ら証明してしまったのだ。

   皮肉なことに、「渦巻き」理論はその当初の思惑とは裏腹に、
   圧倒的な才能を持つ天才を必要とする戦術として具現化して
   しまった。

   しかも、驚異的な体力とスピードというアスリートとしての資質
   が全員に要求されたのだ。

   この「トータル・フットボール」は80年代後半、アリゴ・サッキに
   よってACミランで新たな血を吹き込まれる。

   だが・・・それはまた別の物語である。

   クライフは73年から、ミケルス率いるバルセロナに入団し、
   同地で
「エルサルバドール(救世主)」として称えられていた。

   レアル・マドリードを5-0で一蹴し、このカタルーニャのチームに
   栄光を取り戻したクライフは
バロンドールを3回受賞した初めて
   の選手となった。

   後に米国に渡り、2チームを渡り歩いて帰国、ユニフォームを
   脱いだのは84年、37才のとき、アヤックス最大のライバル・
   フェイエノールトが最後のクラブとなった。

   しかしクライフの栄光はこれだけでは留まらなかった。

   アヤックスの監督に就任したとき、必要な資格試験を受けて
   いなかったがその実績はそんなことを問題にもしなかった。

   ヨーロッパ・カップウィナーズカップで古巣を優勝させるともう一つ
   の古巣・スペインのバルセロナに赴き国内リーグを4連覇、そして
   92年に悲願の欧州チャンピオンズカップを制覇する。

   指導者としても超一流のクライフはアヤックスでファンバステン、
   バルセロナでグアルディオラらを見いだしストイチコフやロマーリオ
   などの問題児らも統率して、自らが現役時代に体現したような
   攻撃的サッカーを見事に現代に蘇らせてみせたのである。

   ここにクライフは、選手としてでなく指導者としてもサッカー界に
   名を残すことになった。

   これは、あのペレですら出来なかった偉業である。

   何事にも万能だったクライフは何の酔狂か、2枚のシングル・レコード
   も出しているがさすがの天才もこればかりは才能に恵まれなかった
   ようである。

   その息子ジョルディもサッカー選手になり、非凡な才能を発揮して
   はいるがさすがに偉大すぎるほど偉大な父を越える事は難しそうだ。

   稀代の天才児クライフは、グラーフという名で登場する。
   (ジョルディはグラーフJrとして登場)

   彼のような才能を自分のクラブに迎え入れることこそ
   サッカーファンにとっての最高の名誉ではないだろうか。