第16回 ロジェ・ミラ
     

   1990年の出来事を思い出してみよう。

  我々の脳裏に浮かぶのは一人の黒人の驚異的なジャンプ・ヘッド
  とコーナーフラッグの傍らでの軽妙なダンスに違いない。

  この二人は同一人物ではないが背負っていた国旗は同じだった。

  戦術が守備的になり過ぎエキサイティングな要素に欠けたW杯
  にあって「不屈のライオン」の快進撃は確かに世人の目を引いた。

  パフォーマンスを披露した選手の本職はダンサーではない。
  ストライカーである。

  アフリカの未来を連れてきたその男は
  アルバート・ロジェ・ムー・ミラ、通称ミラ。
  今なお、アフリカン・サッカーの太陽として崇められる。

  ミラは1952年5月25日、ヤウンデに生まれた。
  のちに人口1200万人という小国の首都になる都だがこの時は
  まだフランスとイギリスの植民地だった。

  政治的な問題が幼い彼にどういう思想をもたらしたのかはわから
  ないが名前の「ムー」という言葉は純粋なブラック・アフリカンで
  あることを示しており両親が彼に託した民族の誇りを見てとる
  ことができる。

  彼はアフリカで最も賢明であることで知られた部族、バココ族の
  血を受け継いでいた。

  両親の期待は、おそらく彼らの想像もしなかった領域で将来に
  実現されることになる。

  ミラは少年時代、カメルーン第二の都市ドアーラのチーム
  「レオパール・デ・ドアーラ」にて本格的にサッカーに足を踏み
  入れたがミラのような巨大な才能を受け入れるにはあまりにも
  器としては小さかった。

  彼は国内の強豪、トンネレ・ヤウンデにスカウトされ次第にその
  才能の全貌を明らかにしてクラブ名通りの「稲妻」のような活躍
  を見せ始める。

  74年のシーズンはまさに躍進の年でカメルーン・カップにて優勝、
  だがこれはほんのプロローグに過ぎず翌年にはアフリカ・カップ・
  ウィナーズカップを勝ちとり第三世界最高のストライカーの座を
  欲しいままにし76年にアフリカ最優秀選手に輝いたことでより
  いっそう輝きを増した。

  その光は海の向こうにまで届いたらしい。フランスのチームが
  彼に関心を寄せ始めまずはバランシエンヌという小さなクラブ
  で欧州でのキャリアがスタートした。

  だがこの3年間はどう考えても失敗であった。
  純粋なアフリカ系黒人がプレーするには環境がまだまだ整って
  はいなかった。

  これには言葉・食事の問題やホームシック、さらには時として
  露骨な黒人差別も含まれる。

  79年にはASモナコに移ったが本領を発揮できないのは
  相変わらずで時として彼の才能の奥深さをかい間見せること
  はあってもそれが信頼に足るものだということを証明すること
  は難しかった。

  モナコに在籍した1シーズン(79ー80)ではフランスカップの
  優勝を味わっているが監督に重宝されなかった彼が仲間と
  ともに美酒に酔ったかどうか疑わしい。

  彼が本来の自分を取り戻し始めるのはバスティアに移籍して
  からである。
   
  地中海に浮かぶコルシカ島のこのクラブにて彼は主力として
  チームを牽引し昨年同様フランスカップを勝ち進みプラティニ
  率いるサンティエンヌを決勝で破った。

  ミラは決勝ゴールを蹴り込んで自身にとって本当の優勝を
  成し遂げた。

  するするとDFの間をトップスピードでかい潜ってキーパーすら
  もかわして得点を決めたのである。

  この見事な得点はあらゆるサッカーファンの目を引き以後ミラ
  という名前は注目するに値する才能として認知され始めた。

  この時点で、フランスでの運は明らかに彼に傾いておりそれは
  代表チームに戻っても健在だった。

  82年には世界の祭典スペインW杯に出場、グループリーグで
  敗退し得点もなかったがペルー、ポーランド、イタリアと戦って
  すべて引き分けで終えたのは新参者にとっては悪くない成績
  であろう。

  84年にはアフリカ選手権にてカメルーンを優勝へと導きこの年
  にプラティニの去ったサンティエンヌに加入、2部に落ちた名門
  を1年で1部へ送り返した。

  86年にもアフリカを制しておりこの頃には大陸内に敵は
  いなかったといっていい。

  ミラの実力がカメルーンのすべてだったわけではないがその
  少なからぬ部分を負っていたのは間違いない。

  彼は86年から、モンペリエの一員として3シーズンを過ごす。

  アフリカ最高のストライカーの旅はフランスだけで11年を費や
  して終わりを迎えようとしていた。

  だが少なくとも、サッカーの本場の強国にあって誰もが彼の
  真価を理解し、喝采を贈ったことに彼は満足していた。

  ミラは既に37才であり、さすがに老いには勝てず肉体も衰えて
  いてあとは静かに暮らしながら好きなサッカーを趣味で続けれ
  ればいいと思っていた。

  まさか自分が2年後、最高の舞台で最高の脚光を浴びようとは
  まったく想像もしていなかったに違いない。

  ミラの優れた点とは何だろうか。176センチ72キロ、上背から
  来る高さでないのは確かだ。

  彼がスーパースターたりえたのは本能的というしかない
  ゴールへの嗅覚である。

  彼はいなくてはならないところにそこにいて決めなくてはならない
  場面でゴールを決めてみせた。

  ストライカーの仕事は一瞬で決まるものだが彼はその典型だった。

  フィールド上から「消えた」と思いきや抜け目なくボールを操って
  敵陣に迫り正確なシュートで枠内を襲うのである。

  激しくマークしているつもりでもセンタリングの上がった先には
  必ず彼がおりコブラのような狡猾さをもってゴールを奪うのだった。

  何人に囲まれていようが一瞬のうちにシュートへ持っていく
  テクニックは群を抜いていた。

  それは、後の「後輩」たちのようなパワープレーではなくあくまでも
  駆け引きの巧みさであり豊富な経験で磨かれた天性のカンと
  並外れた集中力によってもたらされたものだった。

  彼のこの大選手としての資質はありていにいってフランス人以外
  では欧州の一部の識者しか知るところのないものだったが90年
  のイタリアW杯にてそれは世界全土へと、最も衝撃的な形で
  伝播される。

  フランス領レニュオン島にあるサンピエロワーゼというアマチュア・
  クラブにて半ば引退同然の身だった彼をイタリア行きの代表
  チームに呼び寄せたのはスポーツ大臣ジョセフ・ファフェである。

  ミラを加えないと解雇すると脅された代表監督の
  バレリ・ネポヌニアチはその決定に従うしかなかった。

  脅迫まがいの、というよりは脅迫そのものだがまっとうでない
  経緯で連れて来られたにしてはミラのプレーには切れがあった。

  とはいえ年齢的に90分を戦うのは難しく彼は局地的に
  「スーパー・サブ」として使われることになる。

  この起用は大正解であった。

  大会直前に38才の誕生日を迎えたとはいえミラの集中力は
  ささいな時間で途切れることはなかった。

  幾多の大舞台を経てきた経験はハートこそ熱く燃やせども、
  頭の芯を静かに冷やして自身の力を最大限に発揮する準備
  を整のわせた。

  初戦のアルゼンチンを沈めたのはオマン・ビイクの驚異的な
  ジャンプ・ヘッドである。

  これは歴史を塗り代える大番狂わせだったがこのゴールが
  アフリカのパワーの象徴ならミラのそれはサッカー本来の
  技巧のそれであった。

  ルーマニアとの第2戦において彼は姿を現した。ゲームを支配
  していながら点を獲れない展開でミラは見事に仕事をやって
  のける。

  59分に出場し、76分に右足でゴールを叩き込むとコーナー
  フラッグに駆け寄り、小刻みに腰を振って部族に伝わる歓喜
  の踊りを披露した。

  この「マコサ・ダンス」は10分後にも見られミラの活躍で2ー1
  の勝利を手にしたカメルーンはアルゼンチンをさしおいて予選
  リーグを首位で抜ける快挙を達成する。

  決勝トーナメント初戦、南米のコロンビア相手にも彼は容赦
  しなかった。

  前半をしっかりと守り、ミラの投入を待つ。
  それはもはや立派な一つの作戦だった。

  さすがにコロンビアは手ごわかったが延長に入ってミラの左足
  が火を吹く。

  オマン・ビイクからパスを受け左サイドでDF二人を置き去りに
  するとGKイギータの肩口を抜いてネットに突き刺した。

  その2分後には、再三ゴールから飛び出すことで有名なイギータ
  の逆手をとってボールを奪い無人のゴールへと流し込む。

  5試合で4度目のマコサはカメルーンがアフリカ勢として前人未踏
  のベスト8へ進出することを意味していた。

  残念ながらイングランドの壁の前に破れ去ったが
  「我々はもうアウトサイダーではない」
  の言葉がアフリカン・サッカーの未来を代弁していた。

  カメルーン、ナイジェリアのみならずアフリカ各国の送り出す名手
  たちの活躍を見れば今ではそれが真実であることを疑う者は
  いないであろう。

  ミラの物語はそこでは終わらない。
  彼は4年後、アメリカW杯にも顔を出しゴールを決めてマコサを
  踊って見せた。

  42才にして記録されたこの得点はW杯史上最年長得点として
  残り少なくとも今の時点で誰にも破られていない。

  「集中力さえ発揮すればペレのプレーに近づくことさえできる」
  ミラの言葉が真実味を増す。

  W杯で記録した印象的な5得点によって彼は21世紀にも長く
  その名を残すことだろう。

  史上最高のスーパーサブ、ミラはメラという名前で登場する。

  Jリーグで彼の歓喜のダンスがサポーターに届けられる日も
  近いに違いない。