1994年7月17日、ブラジル対イタリアのW杯決勝戦が行われた。 うだるような猛暑の中、最も優秀なパフォーマンスを見せたのは バッジオでもロマーリオでもなく、24時間前に古傷の手術を 終えたばかりの34才の、一人の大ベテランの選手だった。 フランコ・バレージ。 近年のイタリアが生んだ最も優秀なDFでアズーリの精神的主柱、 優れたキャプテンである。 卓越した戦術眼を誇り、常に冷静に最終ラインをコントロールした。 彼はチームの「頭脳」であって「心臓」であった。 それは、イタリアのものであると同時に常にACミランのものでも あった。 というのも、彼はどんなことがあってもこのクラブから離れること はなかったからだ。 それは、13才の時、兄が落ちたユースのテストにうかった時 から始まった。 自分の実力に自信がなかったにもかかわらず、相手に対する チェックのかけ方や、ボールを奪ってからのゲームの組み立て 方はユースの首脳陣をおおいに満足させた。 明らかに少年は他とは違う非凡な才能を持っていたからだ。 18才でトップに昇格すると、60年代最高のミランのDF・ロッコ によってディフェンスの何たるかをたたき込まれていく。 バレージはみるみるそれを吸収して、常に的確にゲームを読める 能力を身につけ、20才にして最終ラインの統率を任されるよう になる。 のちに彼の代名詞ともなるリベロへの「就任」である。 80ー81年シーズン、八百長事件の制裁でチームがセリエBに 降格させられてからも彼はクラブのために全力でプレーした。 22才になる頃には、彼の左腕にキャプテンの腕章があった。 その若さにも関わらず、彼には十分その資格があったからだ。 オランダ・トリオとバレージを要したチームは史上最強の軍団 へと変貌していった。 マラドーナ率いるナポリの失速と入れ換えにACミランがセリエA 当主の座におさまった。 バレージがトップに昇格してから、チームは6回リーグ優勝、 チャンピオンズカップ3回、トヨタカップ2回優勝、 欧州スーパーカップ3回優勝と、文句のつけどころがない。 優秀なオランダ人たちの活躍もさることながら、名将アリゴ・サッキ 監督のもと、鉄壁のディフェンスラインを指揮したバレージの奮闘 ぶりはきわだっていた。 ミランの強さの秘密はまぎれもなくこの男にあった。 3人のオランダ人が去っても、ミランの黄金時代は去らなかった。 だが、バレージがユニフォームを脱ぐと同時にクラブは苦難の道 に入ったのだ。 そのポジションから、ベッケンバウアーと比べられることも多いが、 「皇帝」自身が彼の実力を認めているにもかかわらず、バレージ が攻め込む姿はあまり見られなかった。 それは、ミランではそうする必要があまりなかったからだ。 チームのために何ができるかバレージほどわかり尽くしている 男はいなかった。 彼は94年の大舞台で、そのことを証明することになる。 暑かった。 ブラジルもイタリアも、明らかに精細を欠いていた。 それでも試合は終始ブラジルのペースだった。 大会最高のツートップといわれたロマーリオとベベトが、 何度も決定機を演出した。 だが、彼らのボールがネットを揺することはなかった。 イタリアのサポーターが息を飲んだ瞬間、いつもそこにその男 がいて、ブラジルの攻撃をぴたりぴたりと止め続けた。 猛暑。手術後の影響。何よりも若くはない年齢。 それらのすべてを跳ね返して、経験と読み、それだけで勝負 し続けた。 それは、世界最高の舞台で老将が見せる最後の意地だった。 ありとあらゆる逆境を背負いながら代表暦81試合の中で最高 のパフォーマンスをしてみせた。 人々はその男が、いつもは目立たないその男がどれほど 優れた選手であったのかを思い知った。 彼の執念は、延長を含む120分の間、決してブラジルに ゴールを許さなかった。 だが試合終了のホイッスルがなったときバレージは、立って いられないほど疲れきっていた。 バレージが残した数少ない後悔の一つが最後の PK戦でのミスキックだった。 だが、それを恥じる必要がまったくないほど決勝での活躍は 素晴らしかった。 彼は代表を退き、この後ミランで3年間プレーして引退した。 引退後も彼は同クラブの要職にある。バレージのミランへの 忠誠心は、今後もひるがえる事は(半永久的に)なさそうである。 バレージはバンチという名で登場する。 クラブが彼の忠誠心をかち取るかどうか、 それは貴方の経営一つにかかっているのだ。 |