第14回 レフ・ヤシン
  

    ストライカーはチームの誉れであり、GKは花形のポジション
   と呼ばれる。

   両者は決定的な仕事をまかされたという点でどちらもよく似て
   おり、表と裏の存在だと言ってもいい。

   単にどちらのゴールに近いかの違いというふうにも言える。

   だが根本的に得点が興奮の源である限りキーパーは常に
   敗者であることが望まれる。

   キーパーの一度の失敗はとり返しのつかない事態を招く。
   そのため彼らは、たとえ寒風が吹きすさんでいようとボール
   が来たときには素早く反応しなければならない。
   決してうっかりにでも手を滑らせてはいけない。

   つまりキーパーとして成功するというのはストライカーとして
   注目を集めるよりよほど難しい。

   ましてやきら星のごときFWたちを押しのけてバロンドールを
   受賞するなどは夢のまた夢である。

   その夢に到達したのは現在までたったひとり。

   レフ・ヤシン。誰もがその男を
最高のGKと呼ぶ。

   ヤシンが生まれたのは1929年10月22日のこと。

   少年は好奇心旺盛で、あらゆるスポーツに手を出したが
   とりわけアイスホッケーとサッカーに興味を示していた。

   彼は当初センターフォワードとしてプレーしていたが少年の
   手が長く、指先が器用だったことを知っていた監督は彼を
   頻繁にゴールマウスに立たせるようになった。

   単純に彼以上の長身選手が他にいなかったせいもあった。

   モスクワで生を受けたヤシンは14才の時に飛行機工場で
   働き始めたが最終的にサッカーの道を選んでいる。

   21才で名門ディナモ・モスクワに入団したが悪いことにここ
   のゴールは伝説のアレクセイ「タイガー」コーミチが守って
   おり若いヤシンの出る幕では無かった。
   
   しかもデビュー戦がスパルタクとのダービーマッチで自身の
   失敗で同点ゴールを決められてからチャンスはほとんど
   回ってこなかった。

   アイスホッケーのGKとしても凄腕だったヤシンはこの処遇に
   ふてくされて、真剣に転向を考えていたが話が実現しそうな
   まさにその時コーミチが負傷して突然ポジションが回ってきた。

   今度こそヤシンは、デビュー戦で得た教訓を忘れなかった。

   すなわち、キーパーたるものいかなる時も決して油断しては
   ならないという教訓である。

   もともと素晴らしい潜在能力を有していたヤシンはたちまち
   コーミチを押し退けて正GKの座に落ち着いた。

   決してボールを後ろには通させまいという強い意志が彼を
   一流の選手にしたてあげた。

   やがて54年が来ると彼にはもうひとつ、代表のゴール前と
   いう場所が与えられた。

   ヤシンが
「黒クモ」と異名をとるのはその全身黒つくめの衣装
   からであるがこれはむしろ南米での呼び名で、欧州では当初
   
「黒豹」
と呼ばれたらしい。

   どちらにせよタイガーのかわりに豹が立ちはだかったのは
   事実だった。

   56年にはメルボルン・オリンピックに参加した。国の威信を
   かけた戦いだが、我々の記憶するところどのような競技で
   あれソ連の意気込みは常に素晴らしい。

   ヤシンのセーブは驚異的だった。競技人生の中で150以上
   のPKを阻止したのは只事ではない。

   長い手足を伸ばしてゴールマウスに仁王立ちする彼を見た時
   キッカーは、一体どこに蹴れば彼の意表をつけるのだろうと
   しばしば自問した。

   きっちりとゴール隅を狙えばこの名手といえど止めることは
   できないはずである。

   しかしそう考えるたび、ヤシンにすべて見透かされている
   ような気がしてくる。

   蹴る前から勝負は決まっていたも同然だった。

   ヤシンは常にやすやすとキックを阻止した。
   フィールドにあってもそれは同じだった。

   ヤシンほど目ざとく相手のクセを見抜ける者はおらずどの
   ような猛者と対決しようと常に的確なポジションをとって
   ボールを通さなかった。

   ヤシンが代表入りして獲れなかったタイトルは一つしかない。
   W杯だ。
 
   だがそれも準決勝までは近づいた。メルボルンでは金メダル、
   60年の欧州選手権では優勝、64年に準優勝。W杯には3回
   出場したが悔やまれるのは数少ないPKを許した66年の3位
   決定戦だ。

   このゴールを決めたのは同じ「黒豹」の名を持つポルトガル
   の黒人選手だった。

   しかし、ソ連が最も世界の頂点に近づいた大会での活躍を
   あしざまに言う国民は一人もいなかった。

   ヤシンはソビエト人に似合わずユーモアに溢れた快活な
   人物だった。

   その人気は世界的なもので南米のサッカー誌「エル・パイース」
   において世界のベストGKに選出されたことからも伺える。

   「フランス・フットボール」誌により
バロンドールを授けられた
   のは63年の話である。

   2年後、彼はイングランドの英雄スタンリー・マシューズの
   引退試合のために英国に飛んだ。

   この試合で、名選手ジミー・グリーブスのシュートをポストの
   端から端まで跳んで弾き飛ばしている。

   目のくらやむような豪華なメンツが集まったが89年の夏、
   ヤシン60才の誕生日にはこれに勝るとも劣らないメンバー
   が彼のために集合した。

   ベッケンバウアー、ルムメニゲ、エウゼビオ。
   チャールトンはこう言っている。
   「イギリスで招待されたのは僕だけだが
   レフのためなら地球の反対側からでも駆けつけるよ」

   スターたちは無償で試合を行った。
   収益金は全額チェルノブイリの子供たちに寄付された。

   かつての名GKは70年に代表を退いていたがこの時にも
   10万人の観客の前でプレーしたものだ。

   84年には血栓症にかかり右足の切断を余儀なくされていた。
   
   老いた英雄は不自由な身体で試合を観戦しこれほどのスター
   たちが自分のために集まってくれたことに思わず涙を流した。

   まったくそれは、サッカーが友情の架け橋となった美しい
   時間だった。

   ヤシンが亡くなったのは翌年のことであるが彼の残した最大
   の功績はGKという地味なポジションに光と想像性を与えた事だ。

   68年には、ソ連最高の栄誉であるレーニン賞が彼のもとに
   贈られている。

   近年レーニンは地に墜ちたがヤシンの名声が衰えることは
   この先も決してないだろう。

   ヤシンは常にクリーンなスポーツマンだった。

   西ドイツの選手がタックルを仕掛けてきたときそれをひょいと
   かわして指を振りながら「ツッ、ツッ」と舌を鳴らしてみせた。

   また、試合前には必ずボールに手を触れたという。
   
   皮の感触をしっかりと手で確かめる事がボールを扱うサッカー
   選手としての当然の習慣だと彼は日頃から公言してやむこと
   はなかった。

   伝説の黒クモ、ヤシンはヤロンという名前で登場する。

   彼が蘇り、自陣のゴールの前でボールに触れるのを
   我々は心して待つことにしよう。