第11回 ボビー・チャールトン
     
   彼の生涯は大いなる物語性の中にある。

  むろんどんな人物であろうとも一生は語り語られるに値する
  ドラマなのであるが彼自身、英国および世界のサッカー史
  に大きくかかわり「偉大なる監督」と「偉大なる選手」と
  「偉大になる筈だった選手」と「偉大になるであろう選手」の
  人生と密接に関係している点でやはり特別な半生だったと
  いわざるを得ない。

  周辺を彩るそれらの物語に我々はしばしば惑わされるが
  大切なのは彼、サー・ボビー・チャールトンこそが最高の
  サッカー選手だったという事実を決して忘れないことである。

  「ボビー」こと本名ロバート・チャールトンは1937年10月11日
  イングランドは炭坑の町、アシントンに生まれている。

  彼にはふたつ年上のジャック(ジャッキー)という兄がいて長身
  で首が長いことから「ジラフ(きりん)」の愛称を後に頂戴した。

  幼いころ二人はボールを蹴りあって日暮れまで遊びあったが
  彼らが兄弟でプロの道に進むだろうことはまだしも二人揃って
  イングランドを初めて世界王者に導くだろうとは空想に富む
  少年たちでも予想だにしなかったに違いない。

  ところで彼らは確かに才能に恵まれておりお互いがお互い
  の素質に磨きをかけたものかジャッキーは17才でリーズ
  のスカウトを受けここを唯一無二の所属クラブにした。

  同じ年齢で契約を済ませたボビーも同様、以後
  マンチェスター・ユナイテッド一筋にプレーした。

  兄弟というものは往々にして似るものであるが二人の
  チャールトンの相似性は結果的にこんなところにも伺う
  ことが出来る。

  ユナイテッドの指揮をとっていたのは名将の名を欲しいまま
  にするマット・バスビーである。

  彼が歴史に名を残すのは戦術やシステムのささいではなく
  育成の確かな手腕とその先見の明からであった。

  当時深刻な財政難だったクラブを支える為バスビーは全国
  から有能な若者を集めて理想のチーム作りを目指していた。

  まさに画期的なその方法でユナイテッドには(ありきたりな
  表現だが)「ダイヤの原石」がぞくぞくと集まりはじめた。

  とりわけ二つの輝かしい才能がバスビーを喜ばせた。
  一人は我らがボビー・チャールトン、もう一人は1才年長の
  ダンカン・エドワーズ
である。

  16才にして180センチ82キロの堂々の体格を誇り守備的
  なポジションながら攻撃に関する想像性も絶品でしばしば
  FWとして出場してはスタンリー・マシューズさえ驚かせた
  俊敏さで敵ゴールを襲った。

  テクニックに優れ、生まれながらのリーダーシップを持ち
  精神面でも完ぺきだったエドワーズに比べればチャールトン
  含め他の選手はみな子供に思われるほどだった。

  エドワーズは、40年以上破られなかった18才183日と
  いう最年少代表記録を持っていた。

  もし無事に選手生活をまっとうしていたら代表出場記録を
  塗りかえる偉大な功績を残していただろう。
  その予感は確かにあった。

  エドワーズを兄のように慕うチャールトンの活躍とともに
  FAユースカップで53年から5年連続の優勝を遂げた。
  破格の強さだった。

  彼らは「バスビー・ベイブス」と呼ばれ愛された。

  エドワーズだけは16才からすでにトップ選手だったが他の
  「赤子」たちが一軍に集結を始めたころバスビーには既に
  あるタイトルに狙いを定めていた。

  それは、従来の英国人が見向きもしなかった指標だった。

  53年11月25日は英国サッカーの歴史にとって記念すべき
  日である。イングランド代表が地元ウェンブリースタジアムで
  ハンガリーの前に6ー3のスコアで惨敗した日だった。

  90年以上の長きに渡ってホームの「聖地」で彼らは敗れた
  事がなかった。サッカーの母国であり唯一のサッカー先進国
  だったイングランドは自らを誇りに思うあまり海外のサッカー
  の進化をまったく理解していなかった。

  彼らは国内のタイトル奪取にのみ全力を尽くし欧州の大会
  など気にも止めなかった。

  バスビーは
  「栄誉ある孤立とは、依怙地な閉鎖性のあらわれである」
  と気づいた、数少ない識者の一人だった。

  56年、彼の赤子たちは圧倒的な強さでリーグ優勝を
  なしとげリーグの勧告を無視して敢然とチャンピオンズ・
  カップに挑んだ。

  サッカーの母国というプライドにすがることなく広く欧州に
  学ばなければならないという信念の表れであった。

  初の挑戦は、準決勝でレアル・マドリードに阻まれた。
  2試合で3ー5という伝説の王者を前にして予想外の
  大健闘といえた。

  翌年、雪辱を期してリーグ連覇を果たし準々決勝で
  レッドスター・ベオグラードを倒して因縁のスペイン王者
  に再び挑戦する権利を得た。

  イングランドでの第1戦で1点目を挙げ敵地で2ゴールを
  たたき込んだのは他ならぬチャールトンだった。

  彼らは英国に戻るために機上の人となったが給油に立ち
  寄ったミュンヘンであのような悲劇が待ちうけていようとは
  夢にも思わなかった。

  大破した機体が炎上し雪の中に赤黒い残骸を横たえている…

  寒さで翼が凍り付いていたための墜落だったとチャールトン
  は後に知った。

  彼は奇跡というべきだろう、
  ほとんど無傷で生還した数少ない乗客の一人だった。

  選手のうち5人は即死、
  残る3人は病院で看護のかいもなく命を落とした。

  驚異的な体力で2週間、死神と闘い続けたエドワーズも
  わずか21才の若さで伝説の中に姿を消した。

  彼が最後に口にしたのは次のリーグ戦出場を気にかける
  言葉だったという。

  44名のうち23人の人命が失われ生き残った9人の選手の
  中でも2人は選手生活を諦めなければならなかった。

  バスビーは1週間もの昏睡状態を経て一命をとりとめた。

  チャールトンの金髪には一夜にして何本もの白髪が
  混ざっていた。

  翌月には気丈にもFAカップに出場しチームを決勝にまで
  導いたが、それが限界だった。

  代表監督のはからいでその年のスウェーデンW杯に同行を
  許可されたが全く笑うことができないようなありさまだった。

  もし3人の代表選手が失われなければ例えペレとガリンシャ
  をようしていたとはいえブラジルが欧州のW杯で唯一優勝
  するという偉業を達成できたのかどうかは謎だ。

  イングランドがこの栄冠を手にするのは8年後の話だが
  チャールトンがそこに辿りつくには長く困難な再生への道
  がまちかまえていた。

  ともあれ、チャールトンは生き残った。
  この事がチーム関係者やサポーターにどれほどの勇気を
  与えたことか知れない。

  マット・バスビーは、辛く真っ暗な絶望のなか
  「ボビー・チャールトンはそこにいる」という事実が
  何よりも大きな支えになったと告白する。

  もともと彼はFWだった。
  左足の脚力は若いころから驚異的で「キャノン・シュート」
  
と呼ばれ恐れられた。

  事故から復帰した58ー59年のシーズン、彼は38試合に
  出場して28ゴールを挙げる活躍を見せた。

  63年には3度目のFAカップ決勝にのぞみレスター・シティ
  を下して悲願の優勝を遂げている。

  翌シーズンにはミッドフィールダーに下がりゲームメークを
  担当して8年ぶりのリーグ制覇を達成した。

  彼が中盤に下がったからといって卓越した得点力から
  敵チームが解放されたわけではなかった。むしろ前線が
  すべて見渡せる絶好の位置に立つことでもう一つの
  偉大な才能を成就させたに過ぎない。

  彼のゲームに対する想像力は遺憾なく発揮された。

  正確無比のパスを前線に配給するとともにすきあらば
  ゴールを狙う油断ならないプレーヤーだった。

  ひとたびセンターラインをまたぐやそこは彼の得点圏
  
であった。

  彼はハーフコートのどこからでもキャノン・シュートを見舞う
  ことができた。それはあやまたず枠内をとらえ稲妻のような
  勢いのボールが容赦なくゴールを襲った。

  背筋をのばし、毅然と攻撃陣を操る姿はどれほど味方に
  とっては頼もしかったことか!

  同時に、クリーンで騎士道精神に溢れた彼のプレーぶりは
  少年たちのあこがれの的であった。

  彼は生涯一枚しかイエローカードを貰わなかった。
  それもフリーキックの際に後退することを怠ったと
  いうそれだけの理由だった。

  そのプレーぶりは、南米の業師たちとは180度異なる
  サッカーの持つもう一つの芸術品だった。

  これぞ「フットボール」だと彼は全身で表現していた。

  よくぞチャールトンを生かしておいてくれたものだと
  イングランドの人々は神に感謝したことだろう。

  あの悲劇が、鋼のようにたくましい彼の精神の形成を促した
  ことは明らかである。

  彼はイングランド代表として106試合に出場し現在まで
  得点レコードとなる49ゴールを挙げている。

  その中にはとりわけ重要な66年のイングランドW杯での
  3ゴールが含まれる。
   
  準決勝のポルトガル戦こそ彼の真骨頂であった。
  「黒豹」と呼ばれる希代のストライカーを向こうにまわしスピード
  を活かして中盤から駆け上がり見事なキャノン・シュート2発
  で難敵をしとめた。

  ゴールキーパーは文字通り手も足も出なかった。

  決勝ではベッケンバウアーのマークをものともせず若き日
  の「皇帝」をゲームメークに専念させないことで西ドイツの
  攻撃の芽をつんだ。

  「ザ・キャプテン」と呼ばれた不世出のスイーパー、左腕に
  腕章をつけたボビー・ムーアと並外れた反射神経でゴール
  を守るゴードン・バンクスの守備はまさに鉄壁と呼ぶに
  ふさわしいものだった。

  ボビーの兄のジャッキーがその前線に陣取り水も漏らさぬ
  堅実さでディフェンスに貢献した。

  延長戦へと持ち越された両者の闘いはハーストの
  「疑惑のゴール」でイングランドが勝ち越し彼が続けて
  3点目を叩き込むことで決着がついた。

  兄弟でともにカップを掲げたチャールトンは西ドイツの
  ラーン兄弟に続く二組目の快挙となった。

  この年の活躍で彼はバロンドールを授与されている。

  だが、最高の偉業達成にもかかわらず本当の頂点は
  まだ2年も先に残されていた。

  68年、チャールトンは既に31才になっており頭髪も
  すっかり薄くなっていた。

  チャンピオンズカップ決勝の相手はポルトガルのベンフィカ
  でエウゼビオとは2度目の顔合わせとなる。

  もはや「バスビー・ベイブス」の時代ではなかった。

  チャールトンの隣にいたのは空中戦の強さで「ジャックナイフ」
  の異名を持つスコットランド人のデニス・ローと抜群の
  テクニックで想像出来ない機動性をチームに与える
  「エル・ビートル」ジョージ・ベストであった。

  決戦の舞台は聖地ウェンブリー・スタジアム。
  先制点を叩き込んだのはチャールトンで彼には珍しい
  ヘディングでのゴールだった。

  ひとたび追い付かれて延長戦に突入したもののベストが
  ふらふらした独自のドリブルからゴール前の人混みを
  かい潜って珠玉の勝ち越しゴールを奪い若いキッドが
  それに続いた。

  とどめをさしたのはチャールトンの「右足」だった。

  4ー1の大勝利に観客は我を忘れて喜びフィールドの上で
  バスビーとチャールトンが抱き合ったとき多くの者が感動
  の涙を流した。

  あの悲惨な事故からちょうど10年が経っておりミュンヘン
  の大地に散った選手たちの悲願は達成された。

  試合後、彼は自室に閉じ篭って優勝祝賀会を欠席している。

  精も根も尽き果てた彼が、若き日に兄と慕ったエドワーズ
  のことを考えて涙したかどうかは誰も知らない。

  70年メキシコW杯、イングランドはベスト8で姿を消す。

  西ドイツ戦で2点をリードしてからチャールトンは途中交代
  でベンチに退いた。しかしこのあとゲルマン人に逆転負け
  を喫しチャールトンの代表としてのキャリアは終わった。

  この敗北は、自分が退いたせいではなくバンクスの腹痛に
  よる欠場によるものだと本人は語る。

  チャールトンはユナイテッドの選手としてクラブ・レコードと
  なる604試合に出場し通算199ゴールを記録した。

  74年に現役を引退し、隣町のプレストンの監督を務めた後
  クラブ役員としてオールド・トラフォードに戻った。

  引退してからもその名声は衰えず53才にして出場した
  レフ・ヤシン60才の記念試合では偉大なソ連のGKの為
  に見事なゴールを決めてみせた。

  マンチェスターでサッカースクールを開校するかたわら
  (デビッド・ベッカムはここの出身である)
  2006年W杯招致のために尽力している。

  ボビー・チャールトンが尊敬を集め続けるのは今も昔も
  変わらないサッカーに対する愛情のせいだろう。

  その経歴を見るにつけ今ではそれを疑う者は
  ただの一人もいない。

  ミスター・フットボール、ボビー・チャールトンは
  チャールズという名前で登場する。

  日本でも彼は「サッカーの母国」の誇りを胸にあらゆる
  困難を乗り越えて頂点に立つことだろう。

  時は移って1999年、マンチェスター・ユナイテッドは
  チャンピオンズリーグの決勝に進出しドイツの
  バイエルン・ミュンヘンを相手に後半ロスタイムで
  2ゴールを奪って逆転優勝した。

  それは何かがのりうつったとしか思えない勝利だった。
  
  「アンデルセンでもこんな物語は書けない」
  GKのシュマイケルが興奮ぎみに語る。

  「彼だよ」
  監督のアレックス・ファーガソンはこう答えた。
  「天国の彼が味方してくれたんだ」

  1999年5月26日、それは5年前に亡くなり存命なら
  90才を祝うことになる筈だった名将サー・マット・バスビー
  の誕生日だった。

  その一年前、フランスで行われたW杯で一躍有名になった
  一人の選手がいた。

  イングランドから飛び出したその少年は18才と59日という
  最年少記録を40年ぶりに塗り代えた逸材である。

  「ワンダーボーイ」マイケル・オーウェンがダンカン・エドワーズ
  を越える選手になるか我々は同じ時代の生き証人となる。

  フットボールは21世紀も続くことだろう。
  
  サッカーはこの先もずっと続くだろう。

  数々の伝説を人々の心に刻みつけながら。