


ペレ、クライフ、マラドーナ、ディステファノ。
ビッグ4と呼ばれる偉大なる4人の中で最も割りにあわない
のがディステファノであろう。
というのも、彼は他の3人と違い、「ディステファノのW杯」を
持たなかったばかりか、出場してプレーすることさえ許され
なかったのだ。
この世界最高の戦場にたたなかったことで日本のような
第3世界では圧倒的に知名度が低いが、欧州(特にスペイン)
では神格化された存在である。
それは、他の3人の顔ぶれを見れば明らかであろう。
ディステファノはその生涯のうち、二つの伝説のチームに
所属している。
1926年、ブエノスアイレスに生まれた彼は16才のとき、
名門リバープレートでデビューしている。40年代、同チーム
は最強を誇っていた。
敵のディフェンス陣をズタズタに引き裂いてしまうその威力
から「ラ・マキナ(機械)」と名付けられたイレブンはムニオス、
モレノ、ペデルネラ、ラブルナ、ロウスタウら圧倒的な破壊力
を持つ5人に率いられていた。
チームの生みの親・ペウゼジェが語るように、GK1人を除き、
全員がFWという超攻撃的陣容で口笛を吹きあって合図をとり
ながらプレーしたという。
必然的にこのチームではありとあらゆるポジション適正が必要
になり、ここで鍛えられた経験が後のディステファノのスタイル
をかたちづくったと考えていい。
そのブロンドの髪の色から「エル・アレマン(ドイツ人)」とあだ名
を貰った少年は途中、ウラカンに貸し出されたがここでセンター
フォワードとしての決定力を身につけた。
リーベルに戻ったディステファノは移籍したペデルネラに代わり
活躍、47年には代表にデビューして、コパ・アメリカで6得点、
アルゼンチンを南米チャンピオンへと導いている。
はたして、その10年後に別の国のユニフォームを着ているとは
このとき彼自身も想像したであろうか・・・。
49年、アルゼンチンの選手がストライキを起こしたためプロ
選手は全員締め出しをくってしまった。ディステファノも例外では
なかったが、他の選手同様、FIFAの管轄外にあったコロンビア
の海賊リーグでプレーすることを決意する。
この国が再びFIFAの加盟国になるころ、ディステファノは所属
チームのミジョナリオスとともに世界遠征のまっ最中であった。
スペインで圧倒的なパフォーマンスを見せた彼に対しレアル・
マドリードとバルセロナが激しい争奪戦を演じ、問題は裁判沙汰
にまで発展した。
裁判所は一年づつ両チームでプレーするよう裁定したがシーズン
始めあまりパッとしないディステファノに失望したバルセロナは、
権利を完全にレアル・マドリードに売り渡した。
彼がバルセロナを5ー0で破るのはわずか4日後のことである
がこれはレアルで彼がのちのち築き上げるおおいなる伝説の、
ほんの始まりにすぎなかった。
11人のポジションがほぼ固定されていた時代、クライフが登場
する20年も前にディステファノは圧倒的なオールラウンダー
だった。
彼はクライフ同様、センターフォワードだったが試合が始まるや
いなや、フィールドのどこにでも現れた。彼の出現する場所に
共通しているのはそこが決まって相手の最もいやがる危険地帯
だったことだ。
ありとあらゆるポジションを完ぺきにこなしたばかりか、その
ボールコントロールは神業以外の何物でもなく、緩急自在の
ドリブルについていけるDFは存在しなかった。
そのキックは正確無比で、思いどおりに回転をかけることが
出来たし、本業のFWとしての決定力も並み外れて高かった。
ありとあらゆるプレーが、一連の自然な動きの中で表現され、
その圧倒的な存在感は何ものもよせつけなかった。
「ディステファノが一人いればあらゆるポジションが二人いるのと
同じことだ」チームメイトのミゲル・ムニョスはこう証言している。
しかも、そのプレーの一つ一つにはいちいち華があった。
ことサッカーに関する能力に対してはディステファノに要求する
ものはこれ以上何もなかったのだ。
つけられた名前が「ブロンドの矢」。
彼が加入したレアルは都合8回スペインを制し、彼自身5度の
得点王に輝いた。
その勢いは国内だけに留まらず欧州全体に飛び火し、55ー56
から59ー60シーズンにかけて欧州チャンピオンズカップ5連覇
という偉業を達成する。
同クラブにはフランスの英雄レイモン・コパやハンガリー産の
「小さな大砲」プスカシュなどがいたがディステファノがいな
ければ5回も優勝していたかどうかあやしいものだ。
彼は5回の決勝の全試合で得点し、59ー60シーズンの
フランクフルト戦ではハットトリックを達成していた。
ディステファノは、バロンドールも57、59年の2回受賞。
創設当初の56年にはマシューズに譲り2位だったがそもそも
マシューズに受賞させるために始まった賞だと考えると
ディステファノの国際的評価がどれほどのものであったか
おのずからわかろうというものである。
スペインでの生活と活躍が母国のそれより長かった彼は、
57年、オランダ戦でスペイン代表としてデビューした。
(注:現在では、一度でもフル代表に選ばれれば、国籍を
変えても代表としてプレーできない)
ディステファノはこの国で31試合23得点の記録を残す。
デビューの年、ベルギーと戦った彼はミゲルの右からの
センタリングを空中に水平に身を投げ出し、かかとでゴール
に蹴り込んだ。
着るユニフォームが変わっても彼のファンタスティックなプレー
は変わらなかった。
だが、前述したように悲願のW杯には一度も参加することが
なかった。
代表入りした当時、戦火の影響でW杯は再開されていなかった。
50年にはコロンビアにいたため招集されなかった。
そして最後のチャンスだった62年には初戦の直前で文字通り
ケガに泣いた。
ペレがW杯という大会そのものとTVというメディアの発達にとも
なって、国際的に知られたスターになっていったのとはあまり
にも対象的だった。
ディステファノのプレーは、スタジアムに来た限られた人々しか
目撃することはなかったのだ。
だが、攻撃専門だった「神様」と比べ、フィールダーとして無限
の 能力を発揮してみせたディステファノと「どちらが偉大か」と
訪ねられれば、その限られた人々が諸手を上げて彼に賛同
するだろう。
サッカーを愛してやまなかったディステファノはボールを常に
女性のようにいつくしんできた。
彼の玄関先では「サンクス、ママ」と刻まれたブロンズ製の
ボールが来客を出迎えるそうだ。
そして91年、一人の郵便配達夫がそのボールのわきを通って
一通の手紙を届けた。
それは、「フランス・フットボール誌」から引退後久しい彼に届け
られた、「歴代ヨーロッパ最高のベスト・プレーヤー」という名誉
ある称号受賞の知らせだった。
世紀のオールラウンダー・ディステファノはデステファンという
名前でアルゼンチンに登場する。
彼が本当に「神様」すら凌駕するのか・・・疑う方はその目で
確かめてみればよろしかろう。
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