
(スペイン、DF・守備的MF)
スペイン語で「鉄」を意味するその名の通り 頑健なフィジカルを誇る鉄人だが正確で緻密なパス、 深い読みに裏打ちされたカバーリング、 枠内を捕らえる力強いシュートでも魅せる。 守備的なポジションにありながら自ら「オフェンスが天職」 と言い切る攻撃意欲の高い選手で体格を活かした センターバックのみならずリベロ、ボランチとしても機能。 不屈の精神力でチームメイトの信頼も厚く 名門レアル・マドリード、代表ともに欠かせぬ 天性のキャプテンである。 地元・ベレスのサッカーチームに所属していたが 18才の時にマラガのトップ選考に落ち 兄の所属していたバリャドリードに拾われた。 2シーズンを過ごしたのちにレアル入りし世界的な キャリアをスタートさせる。 逸材揃いのチームにあってもフリーキック、ヘッドの 技術はトップクラスで毎シーズンコンスタント に6、7ゴールを奪取。 91ー92シーズンには21ゴールを挙げて得点ランキング 2位で終えたほど。 複数のポジションをこなす器用さが買われすぐさま レギュラー入り、10年間でリーグ優勝3回、 スペインカップ優勝1回と堂々の成績を誇り 97ー98シーズン、チャンピオンズリーグを制覇し 翌年のトヨタカップで来日、世界一のタイトルを手にした。 レアル入団と時を同じくして代表にも選出され 90年イタリアW杯では出番がなかったが 22人枠に入りベスト16を体験。 アメリカ大会では5試合に出場して1得点、フランス大会 では3試合に出場して2得点と徐々に調子を上げてきて おり個人のパフォーマンスが悪くなかっただけに 98年のグループリーグ敗退は痛かった。 クラブレベルの実績は申し分ないだけにこれからは 代表チームでのビッグタイトルが欲しいところ。 本名フェルナンド・ルイス・イェロ。 187センチ84キロ。現在32才。 「不沈艦」イェロは シェロという名前で登場する。 無敵艦隊を牽引するその経験と実績は 貴方のクラブでも存分に活かされる筈である。 |
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(イングランド、攻撃的MF)
世界的なポップスターであるスパイスガールズのビクトリア を妻に持ち美男美女のカップルとして終日華やかな話題を 振りまく。 むろん女房の七光だけで世界に名を馳せられるほど プロスポーツの世界が甘くないのは当然だ。 ハリウッド・スターを思わせる端正な顔立ちは 伝統のユニフォームに袖を通したときから 「赤い悪魔」のそれへと変わる。 ベッカムの本質はフィールドの上にこそある。 昨年のバロンドールこそリバウドに譲ったが98-99シーズン に3冠を達成したマンチェスター・ユナイテッドの大黒柱で まぎれもなくその年の欧州最強のプレーヤーだった。 幅広い視野と正確なボールコントロールでチームを牽引し 専門の右サイドから数え切れないチャンスを演出した。 最大の武器は右足のクロスの精密さで最も危険なポイント にむかって最も鋭く、最も迅速に、最も正確に蹴ることが できる人材は世界を見渡しても希少だ。 彼がいなければ、コールやヨークといったストライカーが その持ち味をあれほど発揮できたかどうかは疑問である。 誰にも邪魔されずにその魔法を使うことが出来るメリット を考えれば優秀なプレイスキッカーとして著名なのも 頷けるだろう。 熱狂的なユナイテッドファンの家庭に生まれ11才の時、 ボビー・チャールトン・サッカースクールにて個人技の 全国大会で優勝してスカウトの注目を浴び3年後に あこがれのマンチェスターのユースに加入した。 16才でトップチームに昇格してプロ契約。 94ー95シーズンこそブレストン・ノースエンドにレンタル されたものの翌年に戻ってレギュラー・ポジションを獲得、 名手カントナから中盤のエース7番を引き継ぎ 以後のリーグ連覇や3冠に欠かせぬ選手に成長を遂げた。 フランスW杯の前年に代表入りし本大会にも出場したが 決勝トーナメントの一回戦にてアルゼンチンのシメオネ の挑発に乗って退場処分となり母国の敗退を招いたため 大きな非難を受ける。 来るべきイングランド黄金時代の旗手と見られていただけに なおさら世間の風あたりは強かったが 翌年のクラブでの活躍で大きく成長、周囲を見返した。 かと思えば2000年世界クラブ選手権でも「一発病の発作」 を見せるなど不安定な部分が目立つのも事実で バロンドールを逃すきっかけにもなった 一層のゴールに向かう姿勢とともに今後の課題にしたい。 180センチ75キロ。 つい先日、頭を丸坊主にしてまたメディアを賑わせた。 貴公子、ベッカムは ベックという名前で登場する。 最強チームを操る資格を彼は十分に持っている。 |
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(チリ、FW)
近年のチリの勃興を象徴するその名も誇り高き 「エル・マタドール(闘牛士)」。 小柄だが並ぶもののない優れたアタッカーで左足の繊細 かつ力強いシュートが特徴だが「サ・サ・コンビ」を組む サモラノほどではないにしても打点の高いヘディングの 威力も非凡。 インディオの中でも最も勇敢で好戦的な一族、マプチェ族 の血を受け継いだ自らの出生に誇りを持っており全身これ エネルギーのかたまりのような熱いプレーは見るものを 捕らえて話さない。 生まれつき足腰が強く幼い時大人3人を軽々と引っ張って みせたほどパワフルな少年時代をおくったがその潜在能力 にもかかわらずサッカーでは冷遇された。 名門コロコロや地元のデポルテス・ムスコでテスト入団に たびたび落とされ16才の時にウニペルシダ・デ・チリに入団、 ジュニアチームの試合で4点を決めたことでようやく日の目 を見ることができ3年後、93年にトップチームへデビューした。 ルーキーながら25試合で27ゴールを挙げる活躍でチーム をリーグ優勝に導き翌年には2連覇を達成、得点王の 肩書きも手にしている。 96年、リベルタドーレス杯にて準決勝まで勝ち上がり アルゼンチンのリバープレートに破れているが これまでの活躍が買われて300万ドル(約3億9千万円) の高額で引き抜かれた。 「チリ人はアルゼンチンでは大成しない」 このジンクスはサラスには無縁だったようで 96年の前期・後期完全優勝、翌年の前期優勝に貢献。 南米スーパーカップをクラブにもたらして W杯終了後、330億リラ(約22億円)の移籍金で イタリアのラツィオに移っている。 初めてのシーズンからチームに順応したサラスは15ゴール を奪取、優勝こそ逃したもののリーグ2位の好成績で終え カップ・ウィナーズ・カップのタイトルも獲得した。 ウニペルシダで爆発した頃から代表に選出されたが 名を売ったのはやはりW杯予選で得点王こそ相棒の サモラノに譲ったものの11得点という堂々の成績を残し 予選参加国中最多の32ゴールを奪取した攻撃陣の 中心として存分に働いた。 抜群の勝負強さは本選でも発揮され初戦のイタリア戦で 2ゴール、オーストリア戦で1ゴール、決勝トーナメントで ブラジルに完敗したがここでも1ゴールを決めて一矢を 報いている。 初めてのW杯で3試合4ゴールは堂々の成績であり サラスの実力が真に非凡であることの何よりの証明。 今はスクデットとチャンピオンズリーグに焦点を絞る。 173センチ73キロ。現在25才。 スーパースター、サラスは ザラチョという名前で登場する。 ザモラとの競演は、ファンなら誰もが熱望する筈だ。 |
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(日本、FW)
現在、一般的な知名度という点では3才年下の 実弟・哲二に譲る。 93年浦和レッズに所属したとき既に32才で年齢的には ベテランの域に達しておりJリーグ開幕前にピークを 迎えていた点で遅れをとるのは仕方ないかもしれない。 しかし、80年代「柱谷」とは日本を代表するストライカー の名前であり点取り屋として特筆すべき体格ではないが 得点感覚溢れる鋭いシュートで魅せた。 元々スポーツは万能で小学校5年生時にサッカー少年団 が出来て以来野球よりもサッカーに熱中するようになる。 所属した双ヶ丘中学は無名校で特別環境に恵まれている わけではなかったにもかかわらず週3回の簡単な練習と 天性のセンスだけでチームを全国大会ベスト8まで導く。 破れた大原中には後のチームメイト水沼貴史がいた。 京都商業(現在の京都学園)時代には1年生の時から レギュラーとして起用され全国大会出場。 以後はチーム力に欠けたが77年には総体で準優勝を 味わっている。 国士館大学に進学して関東大学リーグで優勝した後 引く手あまたの企業から日産自動車を選択。 学校の教師になることを将来の目標に据えていたため 会社に残る意志は本人にはなくプロ契約化の可能性 が強かったチームに入団したが結果的に彼の加入で 同クラブに黄金時代が到来した。 83年の日本リーグ開幕から全試合に出場、 7ゴール5アシストの活躍で新人王を獲得。 天皇杯ではヤンマーとの決勝戦で駄目押しとなる2点目 を叩き込んで栄冠を勝ちとった。 弟の哲二とも5年間チームをともにしている。 92年に浦和レッズに移りJリーグ開幕前のナビスコカップ で好調をアピールしたがその後チームが低迷、 94年柏レイソルに加入したあと2年後に引退した。 前述したように、Jリーグ以後は目だった成績に欠けたが 木村和司らとともに日本代表の攻撃を担い79年の ワールドユースを皮切りに五輪代表、A代表としても 活躍した。 代表出場29試合3ゴール。177センチ75キロ。 往年のストライカー、柱谷幸一は 林谷章一という名前で登場する。 勝二同様、序盤での活躍が期待できる人材だ。 |
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(日本、センターバック・守備的MF)
1992年、ハンス・オフト率いる日本代表はその船出に 強豪アルゼンチンと対戦し1ー0の僅差で破れたものの 一つの光明を見いだした。 「井原とテツは通用する」(清雲栄純コーチ・当時) 当時も今も柱谷とは「みなぎる闘志」の代名詞である。 一癖も二癖もあるヴェルディ川崎、日本代表をまとめ 例えラモス相手でもフィールド上で叱責する事を辞さない 本物のプロフェッショナルとして名を馳せた。 彼からキャプテンマークを引き継いだ井原が 「自分に厳しく他人に優しい」タイプの選手で 柱谷と比較されてたびたび批判を受けたほど そのスタイルはキャプテンの理想像とされる。 ともすれば闘将としての側面ばかりが注目されがちながら 技術レベルの高さや戦術眼、読みの鋭さを武器に 新生日本代表の屋台骨を支えセンターラインを「背骨」 と考えるオフトの構想に欠かせぬ名手でもあった。 日本を代表するストライカー、柱谷幸一の実弟で 「爆撃機」ミュラーをアイドルとした事もあり 幼い頃からFWとしてプレー。 81年に京都商業高校の一員として高校選手権に出場、 国士館大学に進学して85、86年の大学選手権を連覇した。 日産大学への入社までは兄と同じ経歴でありながら 実績の部分ではほど遠かったが華奢な体格が頑健に 成長したことで実力的に肉薄し加茂監督に守備的な ポジションを任せられるに及んでその才能が一気に開花。 入社2年目の89年に守備的MFとして日本リーグの MVPに輝くまでに成長した。 横浜マリノスへと続く守備体系を確立した功労者ながら 92年に読売クラブへ電撃移籍、加藤久の抜けたチーム で精神的支柱を担い同クラブ黄金時代の礎を築いたこと は記憶に新しい。 長く日本サッカーの重鎮として活躍しJリーグ選手会の 会長を務めたこともある程選手からの信頼は絶大だった。 不況のあおりをくらったJリーグで年俸がネックになり 余力を残して34才で引退。 次なる目標は指導者として日本代表を率いる事と述べる。 181センチ82キロ。現在NHKで解説を担当。 日本サッカー界の闘将柱谷哲二は 林谷勝二という名前で登場する。(DF登録) みなぎるキャプテンシーで 実績でも章一を上回ることは間違いない。 この二人の力を借りることが出来ることを 素直に感謝することにしよう。 |
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