
(フランス、FW)
激しいプレスを基調とする現代サッカーはゲームから ファンタジーを奪ってしまったが何人かの突然変異の ような才能が出現することによっていくばくかの慰めと なっている。 テクニックはいわずもがなパワーであれ、スピードであれ 圧倒的なフィジカルを基調にしてたった一人で局面を 変えることができるストライカーはブラジルのロナウドに 代表される。 それに続くのがオーウェン、シェフチェンコ、そして 「20世紀最後の怪物」と呼ばれるアネルカだ。 もうすぐ21才になるがボディバランスのよさを活かした 縦への突破と確実なボールコントロールからの力強い フィニッシュで「フランスのロナウド」の異名をとる。 96年に17才でパリ・サンジェルマンにデビューしたが 出場機会が少ないことを理由に翌シーズンイングランド に渡りベンゲル監督率いるアーセナルの一員となった。 シーズン途中からの加入だったにもかかわらずリーグ戦 で6ゴール、FAカップ決勝でも得点を決め自らが若くして トップクラスの選手であることを証明した。 この活躍によりビッグクラブの引き抜き合戦を誘発、 ラツィオとレアル・マドリードの一騎打ちになり約41億円 の移籍金(ビエリの60億円に次ぐ史上2位)で昨年より リーガ・エスパニョーラに渡る。 この騒動の中で英国を公然と批判したためイングランド で最も不人気な外国人選手に選出されるなど 精神的に未熟な部分が多々見られ レアルでも出場機会には恵まれていない。 1月の世界クラブ選手権で大活躍して復調を伺わせたが 3ヶ月の重傷を追って帰国、追い風には出来なかった。 98年母国開催のW杯代表22人には洩れたが後に 召集されて大砲定着の観があっただけに所属クラブ での不調が気にかかるところである。 残念ながら今のところはその才能よりもトラブルメーカー としての側面で有名でありボスマン判決以降のクラブ情勢 に流された哀れな被害者とする見方も強い。 184センチ77キロ。 フランスの大砲、アネルカは アバルカという名前で登場する。 じっくりと育成し コンスタントにそのポテンシャルを発揮させられれば 彼は歴史に残る点取り屋へと変貌するに違いない。 |
註:ボスマン判定以後の傾向 移籍金がネックになり海外クラブへ移れなかった ベルギーのボスマンという無名選手が起こした訴訟で 「移籍金制度は選手の就労の自由を阻害している」 と主張。 結果的に彼が勝訴したため欧州内のクラブ編成に 革命が起こった。 ヨーロッパ連合に所属する国の選手ならば外国人枠 は適用されないようになりアーセナル、バルセロナ といった自国の選手の割合が飛び抜けて少ないクラブ が頻出した。 (マンチェスター・ユナイテッドなどは例外) これにより生じた一連の問題は以下の通り(順不同)。 ・各国が育成に力を入れなくなり選手を買いあさった為 大金を持つビッグクラブと中小クラブの格差が広がる。 ・育成がおろそかになったせいで各国代表の選手層 に深刻な偏りが生じている。 例えば、イタリアが中盤に難を抱えていても各クラブ は他国の選手を「買って」補うため人材不足は全く 解消されない。 (中田、名波の移籍はMFであることも大きい) ・各クラブは育成の代わりに各国の優秀な若手を買い 漁りそのためまだ人格的に未成熟な選手が必要 以上の大金で取引される。 (上記のアネルカはこのケースで、レアルとラツィオの 意地の張り合いに振り回された観も) ・自国の選手が激減したクラブは必然的に地域密着型 から遊離してしまっている。 オランダ人ばかりのカタルーニャのクラブを応援する 価値があるものか、と考えるファンは決して少なくない。 ・契期満了では移籍金が発生しないためシーズン途中 での移籍がめまぐるしく相次ぐ。 この際には膨大な違約金が発生するが中小クラブ には手の出ない金額でありここでも格差が発生する。 ・ビッグクラブが膨大な資金を手に入れたのはテレビ 放映権料の投資が相次ぐからであるが放送する 試合数を多くするためスケジュールが過密化、 選手のコンディションにも悪影響を及ぼす。 例えば、世界クラブ選手権の開催は「新しい放送ソフト」 を見越してのものであり大会の意義はともかく 現場からは非常に評判が悪い。 ・ビッグクラブが大金にものをいわせて各国の 名プレーヤーを買い漁るため代表クラスの選手 でも試合に出られないケースが相次ぐ。 ある識者は、こうした問題について 「観客がビッグマネー主体のサッカー、 或いはサッカーそのものに興味を示さなくなるまで続く」 との見解を発表している。 いずれにせよ 21世紀に解決が持ち越される問題には違いない。 |
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イ・ドング(韓国、FW)
ヤング・ジャパンが空前の盛り上がりを見せる昨今だが プロサッカーでは先輩となるお隣りの韓国も負けてはいない。 もともと代表チーム以外人気が奮わず深刻な経営不振 にあえいでいたKリーグだが98年W杯前後から活きの いい若手が次々と台頭、女性ファンの黄色い声援を 集めるに至る。 その中心にいるのが韓国サッカー期待の新星イ・ドング である。 英雄チャ・ブンクンに負けない頑丈な身体を持ち 100メートルを11秒台で走る脚力と 左右両足の力強いキック、高い打点のヘッドが武器で アジアの枠を十分に越えられるストライカーだ。 幼い頃は陸上の選手として有望視されたが国民学校 (小学校にあたる)4年生時にサッカーを始め転校して よりよい環境に身を置き頭角を現す。 大学卒業を機にプロ入りする選手が多い中で 浦項(ポハン)高校卒でスティーラーズに身を投じ いきなりレギュラーを奪取して大物ぶりを発揮した。 98ー99シーズンには24試合11得点の記録を残し 見事に新人王を獲得。 フル代表にも18才で召集され小野伸二同様フランスW杯 でもわずかながらプレーしている。 今年21才になるその年齢からシドニー五輪代表としても 活躍しておりアジア一次予選スリランカ戦、インド戦で ともにハットトリックを決めて大勝に貢献。 まだ十分に若いために海外への進出も考えられ日本に とっては喜ばしくない存在と言えるかもしれない。 185センチ80キロ。 アジアの若虎、イ・ドングは イ・ソグンという名前で登場する。 将来日本を脅かすかも知れない才能を 自分の目で見ておくのも悪くはないだろう。 |
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(クロアチア、FW)
「強力なシュート力とペナルティエリア内での非情さを 持つ選手は少ない。スーケルはだから特別なのだ。」 クロアチア代表監督プラゼビッチの言葉がスーケルの 非凡さのすべてを物語る。 相棒のボクシッチと異なり多彩な左足のシュートで フィニッシュに持ち込む職人で98年フランスW杯での 日本戦で見せた一瞬の仕事ぶりは記憶に新しい。 この大会では母国を3位へ導くとともに6得点を挙げて 得点王に輝いた。 14才で地元のNKオシェクに身を投じ3年後にプロデビュー、 89年からディナモ・ザグレブに移籍し21才にして 旧ユーゴスラビアリーグの得点王を獲得。 91ー92シーズンにスペインのセビリアへ移った。 この中堅クラブにスーケルは5年留まったが欧州選手権 の活躍を機に5億円と5人の人員トレードという破格の 値段でレアル・マドリードに引き抜かれた。 96ー97シーズン、得点王こそロナウドに譲ったものの 24ゴールという恥ずかしくない成績で終えスペインリーグ 優勝に貢献、チームのエースとして君臨したがその後は 生え抜きのラウールの台頭に押され徐々にベンチを 暖めるようになり99年、イングランドに渡ってアーセナル に活躍の場を求めた。 旧ユーゴ時代の代表暦は2試合しかないがUー20代表 の一員として87年ワールドユースで優勝するなど 若い頃から将来を嘱望されており92年にクロアチア代表 に選出されてからもそれは続いた。 前述の96年欧州選手権ではエースとして活躍、 デンマークの守護神シュマイケルをあざ笑うかのような ループシュートを決めるなどしてベスト8に進出している。 98年のW杯はボクシッチ不在の状況で主にワントップ として出場しマークの集中するなか結果を残したという 意味でもっと評価されてもおかしくない人材かもしれない。 90年代後半を代表する世界的なストライカーである。 183センチ79キロ。 名前はシュケルとも表記する。 世紀末のゴールハンター、スーケルは スカルという名前で登場する。 86年大会以降、W杯得点王は日本の土を踏んでいるが このジンクスを継続させるのは我々かもしれない。 |
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(イタリア、左サイドバック・DF)
パオロ・マルディニとフランコ・バレージの共通点は 大きく見て2つ存在する。 両者ともに各時代で最高の評価を得たDFでフットボール の殿堂に足型を残す権利があることと両者ともに遂に 2種類のユニフォームにしか袖を通すことはなかった という事実である。 もっとも、マルディニは未だ現役選手であり 未来がどう転ぶかは誰にも分からないのだが それでも長年クラブに多大なる貢献をし、これからも 貢献をし続けるだろう名選手がむげに放出されると 考えることは余りに現実離れしている。 二人が着たユニフォームの色はまったく同じであり 少なからぬ期間チームメイトですらあったが それがACミランとイタリア代表にとって どれほど頼もしかったことかは想像に難くない。 そもそもバレージ引退後の今も光を放ち続けている こと事が彼が超一流であることの何よりの証明である。 60年代スイーパーとしてならした名手 チェーザレ・マルディニを父に持ち ミランに入団して16才でトップに昇格、 85ー86シーズンから左サイドバックとして登場し 最強軍団の一角を担った。 幼い頃からことあるごとに父親と比較され「親の七光」 と叩かれ続けたが受け継いだ資質以上のものは 間違いなく彼の功績だ。 フィジカルを活かした一対一の強さと空中戦での高さ というDFの必要条件を軽くクリアしバレージという最良 の教科書に恵まれたことで類希なる戦術眼と判断力 を身につけた。 絶妙なタイミングで切りあがる攻撃参加で知られ 「世界最高の左サイドバック」との評価が高いが センターバックからリベロ、スイーパーまで 難なくこなすオールラウンドな実力こそが彼の真価。 バレージ引退後はキャプテンとしても貢献し イタリアリーグ優勝6回、コパ・イタリア優勝1回、 欧州チャンピオンズカップ優勝3回、準優勝1回、 欧州スーパーカップ優勝3回、トヨタカップ2回制覇と 抜群の成績には文句のつけようがない。 94年に「ワールド・サッカー」誌より世界最優秀選手賞 が贈られているなどバロンドールこそ手にしていない ものの個人としても高く評価された。 イタリア代表には20才で選出されてから100試合を 越える出場数を誇るがW杯での真の栄光は未だ手に しておらずこの点が彼にとって唯一足りないタイトル である。 90年イタリア大会で3位、94年アメリカ大会で準優勝 といずれも全試合に出場しているが届かず。 98年フランス大会、実父のチェーザレ監督のもと キャプテンとして二人三脚で臨むも 前大会に続くPK戦負けでベスト8に終わっている。 一時期、この影響で代表からの引退を決意したが 新監督のゾフに説得されて翻意。 99年、代表100試合を達成したクロアチア戦では 同僚のボバンにクリスタル製のボールと 紅白のバラ100本をプレゼントされた。 「ごめん。イタリア国旗の3番目の色 緑のバラは見つからなかったよ」とボバンは謝ったが 輝かしいキャリアに最後の色を加えるのは ゾフの持つ112試合の記録を追い抜いた時と 2002年の大会においてでも遅くはないだろう。 185センチ77キロ。 カテナチオのヒーロー、マルディニは マルティニという名前で登場する。 「急ぐことはない。パオロ。 フットボールは君のためにある」(ディノ・ゾフ) |
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(フランス、攻撃的MF)
フランス・サッカーの歴史において「ナポレオン」の 名が献上された選手は3人。 チェコ移民のレイモン・コパと イタリア移民の子孫ミッシェル・プラティニ、 そして最新型がこのジネディーヌ・ジダンであり アルジェリア人の守衛の息子というプロフィールが アフリカ系選手主体のフランスの現状を物語る。 その出自やクラブ遍歴の共通点からプラティニ2世の 名を欲しいままにするが本人はいたって謙虚であり 「彼に少しでも近づくために努力する」の一点ばり。 プラティニほどの攻撃力は確かに持ち合わせないが 攻撃と守備とのバランス感覚がことのほか素晴らしく 創造性豊かなゲームメークのセンスは見るものを うならせる。 大柄な身体に似合わない繊細なテクニックの持ち主で 長短のパス感覚に長け、とりわけキープ力は2・3人 のマーカーなぞものともしないほど優れている。 「プラトッシュ」には譲るもののFKも巧みでプラティニに 勝るとも劣らない選手であることは間違いない。 マルセイユで5人兄弟の末っ子として生まれ地元の スポルツ・オランピーク・デ・セプタンにてサッカーに 本格的に着手した。 大柄な身体、落ち着いた態度、才能溢れるプレーが 年齢詐称の疑惑をたびたび生むため常に身分証明書 を携帯していたという逸話を残す。 名門カンヌにスカウトされ88年にプロデビュー、 4シーズンを消化してボルドーに移り95ー96シーズン、 チームをUEFAカップ決勝に導く。 この大会の準決勝ではACミランを3ー0で破り 屈指の指令塔として一気に名を高めた。 フランス・リーグに未練を残しつつもこの年からユベントス の一員となったがトヨタカップでリバープレートを下して 世界一に輝き欧州スーパーカップ優勝も成し遂げるなど 異国の地でも実力を十分に発揮。 スクデット連覇の原動力となりチャンピオンズリーグ にも2年連続で決勝へ進出したが試合はいずれも 破れてしまった。 欧州三大カップの決勝で3度敗退という事実は彼の 勝負弱さの現れだとする声も少なくなかったが 98年地元大会となるフランスW杯にて完全に払拭。 準々決勝、準決勝はペナルティで出場できなかった ものの肝心の決勝戦で大爆発、自身珍しいヘッドでの 2ゴールを含む3ー0でブラジルを下し名実ともに 世界最高のプレーヤーであることを示した。 この活躍により98年のバロンドール、 「ワールド・サッカー」誌とFIFAそれぞれの選定による 世界最優秀選手賞を独占し フランス国民最高の栄誉である レジオン・ドヌール勲章も受賞するに至る。 その存在はマイノリティなアフリカ移民に希望を与え 実績の上ではプラティニを越えてしまったが 欧州でのタイトルをまだ手にしていないのも事実。 96年の欧州選手権はボルドーでの多忙が災いして 絶不調なプレーに終始したが右ヒザの古傷にメスを 入れて2000年の大会に照準を絞っている。 欧州と世界を制した時こそ彼は唯一無二の「将軍」 として歴史に名を残すだろう。 185センチ80キロ。 薄くなった頭頂部がトレードマーク。27才。愛称ジズー。 ミスター・トリコロール、ジダンは シモンという名前で登場する。 どれほどの才能が集まるチームであろうとも 彼が中心にいないことはまず考えられない。 |
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(アルゼンチン、FW)
93年から世界を猛追し始めた日本代表は過去3度に 渡ってアルゼンチンと対戦しているがいずれも敗北に 終わっている。 オフト・ジャパンの初采配と記念すべきW杯初試合のカード として南米の強豪は申し分のない相手となったが二つの 試合でどちらも唯一のゴールを蹴り込んだのが他ならぬ ガブリエル・バティストゥータだ。 「バティ・ゴール」と呼ばれ愛された豪快さそのままに 力強く蹴り込んだ93年のゴールと一瞬のスキをついて 転がした98年のそれとでは印象は180度異なるが その両方を苦もなく体現できるのがバティの真骨頂である。 大柄な体格に似合わずゴール前のスピードに長け 瞬間的にマークを外すとともに破壊力抜群のシュート を放つことが出来る。 足でも頭でも得点できる器用さを持ちポストプレーヤー としても超一流。 世界最高のストライカーという肩書きは現在ではロナウド と二分されるかもしれないが泥くさいゴールでも決着を つけることが出来るという点ではバティの方が 一枚も二枚も上だ。 彼の250以上のゴールのうちいくつかでもそれを見た者 は瞬時に彼の素晴らしさが理解できるだろう。 本来は太りやすい体質で幼少時「エル・ゴルド(おでぶ)」 と仇名を貰ったほど。 地元大会となった78年アルゼンチンW杯まではむしろ バスケットに興味を示しており医者を志して勉強を続けて いたがマリオ「マタドール」ケンペスに心酔したことと 自らの素質が非凡であることが証明されたため プロサッカー選手へと目標を変更した。 ニューエルス・オールドボーイズに18才で身を投じ 90年にリバープレートに移ったが伸び悩む。 点取り屋の才能を本格的に開花させたのはライバルの ボカ・ジュニアーズに移籍してから。 19試合で11ゴールを荒稼ぎして国内で「風雲児」の 名を欲しいままにしたあとイタリアのフィオレンティーナ に引き抜かれた。 世界最高レベルの舞台でも実力は遺憾なく発揮され 屈指のトップ・スコアラーとして君臨、加入当初から 2試合に1ゴールの割合で得点を重ねる。 93ー94シーズン、引く手あまただったビッグクラブの 誘いを断ってセリエBに転落したフィオレンティーナの ためにプレー、一年で復帰を果たすと翌シーズン、 ルイ・コスタのアシストの力を借り開幕連続11ゴール という驚異的な記録を達成して26得点を挙げ アルゼンチン人としてマラドーナ以来2人目となる セリエA得点王に輝いた。 翌シーズンも好調を維持しチームを4位に躍進させて コパ・イタリアを制覇、サポーターの心を完全に掴んだ 事でフィレンツェに銅像が建てられる程の人気者となる。 98ー99シーズンには前半戦出場17試合で17ゴールと チームともども快進撃を見せていたがリーグ戦終盤に 左足を痛めてリタイア、最終節でアモローゾに追い抜かれ てしまい自身2度目のタイトルを逃したのは残念だ。 クラブレベルでの得点王は一度だけだが代表としては 91年、チリで開かれたコパ・アメリカに参加し6ゴール を挙げて個人タイトルを獲得、優勝に貢献した。 93年には決勝で2ゴールを決めて連覇、95年に優勝 は逃すが得点王になるなどこの大会に抜群の相性の 良さを見せている。 対象的にW杯では代表の目立った躍進がなく 94年アメリカ大会でベスト16、 98年フランス大会でベスト8と強豪らしからぬ 不本意な成績が続いているが その中で2大会連続となるハットトリックを達成し W杯記録となっているのはさすがというべきだろう。 とりわけ98年は、パサレラ監督に敬遠されていたにも かかわらず最終的に自らの力を認めさせて代表に復帰、 得点王スーケルに次ぐ5点を挙げて活躍した。 通算成績は9試合9得点にのぼりゲルト・ミュラーの持つ 14得点の記録まで最も近い位置にいる現役選手。 年齢的におそらく最後となるW杯で得点王になれば 名実ともに名を残すことは確実であり少なくとも誰もが バティにはその価値があると信じている。 185センチ73キロ。 アルゼンチンのゴールマシーン、バティストゥータは バティスタという名前で登場する。 ゴールの量産で信頼を勝ち得てきた男のこと、 Jリーグでもその期待を裏切ることはないであろう。 |
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