ネルソン吉村
(日本・ブラジル、攻撃的MF)



    ネルソン吉村の活躍は日本サッカー史上に

   三つの大きな影響
を及ぼした。

   初の外国人助っ人であった彼の成功により徐々にでは
   あるが海外に
選手市場が開かれたこと、日本人には
   不可能と考えられていたブラジル流のテクニックを
   体現することでアジア人の
可能性を大きく広げたこと、
   本場のテクニックとサッカー概念を持ち込んで
   ドイツ一点ばりだった日本の
閉塞感を鮮やかに
   吹き飛ばした
ことである。

   日本リーグ創世期に来日、ヤンマーディーゼルの一員
   になり釜本とともに弱小だったチームを国内屈指の
   名門にまで成長させてみせた。

   サンパウロに移住した両親から生まれたため血筋から
   言えばれっきとした
日本人でブラジルの日系人チーム
   「トウキョウ」にて活躍していたところを19才でスカウト
   された。
   (公式にはブラジルヤンマーの所属となっているが
   本人は「見たこともなかった」と証言している)

   66年の来日時にはリフティングという概念をチームの
   殆どが知らなかったりとりあえず遠くへ蹴り出しておけば
   安全、というような「戦術」がはびこる状況に驚き呆れた
   そうだがその中で唯一、
   「マーカーを3人背負っててもゴールを決めてくる」
   釜本との間にホットラインが繋がったのは
   当然のなりゆきというものだろう。

   二人三脚で日本リーグを4度、天皇杯を3度制しており
   釜本の空前の202得点(歴代2位は89点)の何割かを
   冷静で的確にアシストして貢献している。

   本人は1年間で帰国するつもりだったが4年目に
   帰化申請を受けおそらく血縁関係のせいだろう、
   後続の帰化選手とは比べものにならないほどの
   異例の早さで日本人となり名を吉村大志郎と改めて
   早々に代表入りした。

   メキシコ世代以降の伸び悩みが大きく国際的な大舞台
   では活躍することが出来なかったが日本代表として
   45試合に出場し80年、32才で現役を引退している。

   10年後にはヤンマーの監督に就任、チームが
   セレッソ大阪となる直前まで指揮をとった。

   「左足はただのつっかい棒」と言い切る
   名波とは逆のタイプのプレーヤーである。

   現在、桃山大学サッカー部顧問。

   地球の裏側から来た男、ネルソンは
   サムソン吉田という名前で登場する。

   少なからず進歩を遂げたJリーグで
   彼は更なる真価を発揮するだろう。

ポール・ガスコイン
(イングランド、攻撃的MF)



    チャールトンやムーア、バンクスなどを擁し母国開催
   のW杯を制したイングランドは以後低迷を続けたが
   80年代後半から90年代にかけて息を吹き返したのは
   リネカーとガスコインの力によるものが大きかった。

   太りやすく、ぽっちゃりした体格からは想像もつかない
   ほどの卓越した
テクニシャンでひとたびボールを持つや、
   スポーツカーのような俊敏さで敵DFを切り裂いてゴール
   に迫った。

   パスのセンスも高く、MF不足の同国代表にあって
   長く重鎮として活躍。

   ひょうきんな
キャラクターで人気も高くガッザという愛称
   で一般にも親しまれた。

   76年にニューキャッスルでサッカーを始め23才の年、
   当時最高額となる移籍金でトットナム・ホットスパーズ
   に引き抜かれ90ー91シーズン、チームをFAカップの
   頂点に導く。

   その活躍が買われて92年にラツィオに入団したが
   負傷がちで本来の実力を発揮できず
   3年後にスコットランドへ渡りグラスゴー・レンジャーズ
   で鮮やかな復活を遂げた。

   ここでは在籍した3年の間に2度のリーグ制覇と1度の
   カップ優勝に貢献、95ー96シーズンには
国内2冠
   達成している。

   98年からは母国のミドルスブラに所属した。

   24才の誕生日を迎えた直後に代表に名を連ね90年
   イタリアW杯では6試合に出場して4位という恥ずかしく
   ない成績を残している。

   もっとも、続くアメリカ大会の予選時にはラツィオで
   スランプ状態に陥っていたため満足にプレーができず
   に敗退。

   フランス大会では、33才という年齢ながら最後まで
   出場の可能性を残していたもののコンディション不良
   を理由にホドル監督に選出されなかった。

   2002年には37才になることを考えても
   W杯への出場は1回だけに留まりそうだ。

   しかし、96年の欧州選手権でエースとして中盤を牽引し
   スコットランド戦にて鮮やかなボレーを叩き込んだこと
   からもわかるように国際的にトップクラスの選手であった
   ことは間違いない。

   代表出場57試合10得点。178センチ74?キロ。

   元祖「童顔の殺し屋」ガスコインは
   ガッシュという名前で登場する。

   彼を手に入れれば
   ムードメーカー、チャンスメーカーふたつの分野で
   切り札となって活躍してくれるに違いない。

マティアス・ザマー
(ドイツ、リベロ・MF)



    欧州最優秀選手賞、俗に言う
バロンドール43年の
   歴史の中でDFの身でありながらこの栄誉に属した選手は
   ベッケンバウアーの他にはたった一人しかいない。

   これだけでもザマーの偉大さを称えるには十分だが
   それが当時、バルセロナで大活躍を繰り広げていた
   ロナウドを上回ってのことならなおさらだ。

   ザマーはこのブラジル人に対し最終的にわずか3ポイント
   リードしての受賞となった。

   南米の名選手たちのような創造性には欠けるが
   規律正しく試合を統率する希有な
戦術家で的確な読み
   によるディフェンスと空いたスペースを見逃さない効果的
   な攻め上がりで「皇帝」以後本格的にリベロのポジション
   に息を吹き込んだ。

   自他ともに認める完ぺき主義者で常に
「精密機械」
   あることを望むザマーはまさしくドイツサッカーの体現者
   と言えるがそれだけにイタリアで成功しなかったのも
   頷ける。

   東ドイツの名手、クラウス・ザマーの息子として生まれ
   父が選手として所属し後に監督を務めるようになる
   ディナモ・ドレスデンにて5才の時から英才教育を
   叩き込まれた。

   この頃はMFとして早熟な才能を示しており88年から
   ドレスデンを2年連続リーグ優勝させ89ー90シーズン
   には国内カップも制して東ドイツ史上最後の
2冠
   達成している。

   23才で「夢にも思わなかった」ベルリンの壁崩壊を体験し
   両国統合を機にVfBシュツットガルドへ移籍。

   91ー92シーズンにブンデスリーガ優勝を成し遂げた。

   翌年インテル・ミラノに引き抜かれたがそりがあわず
   半年で帰国、ボルシア・ドルトムントの一員となって
   この頃から優れたテクニックと状況判断を
   リベロのポジションで発揮し始めた。

   94ー95シーズン、このクラブに初めてリーグ優勝を
   もたらし連覇を達成。

   欧州チャンピオンズリーグでもユベントスを倒し
   ビッグタイトルを手に入れている。

   国際舞台では各年代で代表に名を連ねており
   ワールドユース欧州大会で優勝、
   本大会で3位に輝いたことも。

   旧東ドイツ出身の選手としては初めて統一後の代表
   にも選出されておりその存在が戦術上いかに重要か
   をもの語る。

   W杯は94年アメリカ大会にしか出場していないが
   特筆すべきは欧州選手権で92年に準優勝、
   96年に優勝を成し遂げており特に後者の大会では
   DF陣を巧みに統率してチームに安定感を与え
   タイミングの良い攻撃参加でFW陣を押し上げて
   大会MVPといえる活躍をみせた。

   バロンドール
受賞の決め手がこのプレーにあったことは
   言うまでもないが近年は
ヒザの古傷に悩まされ手術を
   繰り返して本来の状態からほど遠く98年のフランス大会
   も棒に振っている。

   今年33才になるが
   一日でも早く復活を願うファンは多い筈だ。

   181センチ75キロ。

   東ドイツの頭脳、ザマーは
   マティアスというファーストネームで登場する。

   チーム強化を狙う監督としては
   喉から手が出るほど欲しいタイプの選手だろう。

ハーカン・シュキュル
(トルコ、FW)



    サッカーにおいてはさしたる実績を持たないトルコに
   現れた最大のスター。

   人並外れた長身による
ヘディングが最大の武器だが
   柔軟な両足のテクニックも併せ持ち丁寧に隅を突く
   シュートが敵チームの驚異となる。

   ビッグクラブでの実績はないが
ポストプレーの能力の
   高さは欧州屈指。

   地元のギョルスポルにてプレーを始め87年に
   サカリヤスポルに移り16才で1部リーグのデビュー
   を果たした。

   3年後にブルサスポルに移ったあと国内屈指の
   名門ガルタサライへ。

   21才にして得点ランク2位の19ゴールを挙げ
   93、94年のリーグ優勝に貢献したのみならず
   前者の年にはトルコ・カップも制した。

   このチームに愛着を感じていたため移籍するつもりは
   まったく無かったが周囲の期待に後を押され自分自身
   の限界を確かめるために96年にイタリアのトリノに渡る。

   過去セリエAでプレーしたトルコ人は5人いたがいずれも
   60年代までの選手で30年ぶりに登場した英雄という
   意味でも母国の注目ぶりはすさまじかった。

   もっとも、この挑戦は失敗に終わりスランプに陥った彼は
   ガルタサライに戻って復調、97年から3年連続で
   トルコリーグの
得点王を獲得している。

   代表入りは92年の初春、初めの6試合で5ゴールをマーク
   するという離れ技を演じて21才ながらレギュラーを確保。

   2000年欧州選手権予選で大活躍するなど国際的舞台
   での勝負強さも身につけてきており本大会で一気に
   ブレイクする可能性も考えられる。

   トリノでの失敗にもかかわらず99年にユベントスから
   正式なオファーを受けたこともあり年齢的な限界が
   近づいてきてはいるがこれからの活躍が期待できそう
   な選手である。

   通称
「ポスポラスの雄牛」
   189センチ76キロ。現在29才。

   トルコではファーストネームが
   通常の呼び名になるという慣習に従って
   南欧のターゲットマン、シュキュルは
   ハーマンという名前で登場する。

   まともに制空権を握られたら
   いかなるDFも彼を止めることはできない。

   註:「ポスポラスの雄牛」
   
   「ポスポラスの牝牛」という
   ギリシャ神話の一節をもじった呼称と思われる。

   主神ゼウスが愛人イオーを妻ヘラの目から逃れさせる為
   彼女を牝牛に変えて海峡を渡らせたという物語で
   ポスポラスとは「牝牛の渡し」を意味するという。