ズヴォニミル・ボバン
(クロアチア・攻撃的MF)



    優秀なFWを率いて敵陣を攻撃するときボバンは底知れぬ
   「引き出し」から最良の手段を選択する。

   タイミングを熟知した
スルーパス
   意表をついた二列目か
らの正確なシュート。
   あるいは個人技を活か
した強引な突破。

   いずれもが必中の武器であるがそれらを全面的に活かす
   ことが出来るのは類稀なるフィールドの戦略家としての
   証だろう。

   天性のキャプテンシーを持つ彼は
「ミスター・クロアチア」
   
と称されまだ幼い母国のために不屈の闘志を燃やす。

   クラブレベルでも彼の働きは変わらないが実力を十分発揮
   して来たとは言い難い。

   ユーゴスラビア共和国の時代に生まれカズが在籍したこと
   で有名なディナモ・ザグレブで17才にしてトップデビュー。

   最初は2ゲームのみだったが徐々に才能を発揮して
   スタープレーヤーに成長、90ー91シーズンには
   26ゲームに出場して15ゴールという活躍を見せた。

   これが認められてACミランに引き抜かれたが1年目は
   弱小のバーリにレンタルされ翌年からも外国人枠の
   問題で常時出場がかなわず苦難の時を過ごす。

   レギュラーを獲得したのはボスマン裁定以後で数多くの
   栄光に彩られたクラブにありながら直接貢献したタイトル
   は少なかった。

   チームが徐々に低迷を始めたのも大きかったがそれでも
   95-96、98-99シーズンにリーグ優勝を成し遂げている。

   代表としても辛苦の連続でW杯出場が期待された90年
   にはレッドスターとの試合で暴動が起きたがクロアチア人
   を狙い打ちするセルビア人警官を殴ったため9ヶ月の
   
出場停止処分を喰らって大いなるデビューを棒に振った。

   相次ぐ民族紛争で国際舞台からは遠ざけられたが98年
   のフランスW杯には出場を許され予選リーグの日本戦
   こそ欠場したもののコンディションの整わない中で善戦し
   W杯初出場3位に輝く原動力となる。

   これまでのキャリアにおいてはその才能を遺憾なく発揮
   した場面が少なくクロアチアファンのみならず
   サッカーファンにとっても残念なことと言わざるを得ない。

   その意味では
「悲劇のエース」という肩書きが
   不本意ながら最も似合う男でもある。

   183センチ78キロ。31才。

   趣味は頭脳派らしく、チェスをこよなく愛するという。

   「ミスター・クロアチア」ボバンは
   ボロンという名前で登場する。

   他でもないJリーグにおいて
   彼はその真の才能を披露してみせることだろう・・・

ジョージ・ウェア
(リベリア、FW)



    ウェアは99年、国際歴史記録学会によってアフリカの
   
20世紀最優秀選手に選出された。

   「第三大陸」においても弱小国であるリベリア出身の為
   代表レベルでの実績はほとんどなく純粋に
   クラブ・パフォーマンスを考慮してのことであるが
   W杯で華々しい活躍をして見せたカメルーンの英雄
   ロジェ・ミラを抑えての受賞を考えれば
   ウェアの能力がどれだけ傑出しているか分かろうものだ。

   アフリカの勃興を象徴する技巧派の先人とは異なり頑丈な
   体格を駆使しての
ダイナミックなプレーが特徴。

   空中戦の強さや当たり負けしないドリブルなど絶対的な
   
フィジカルの器に守られながらアーティストとしての繊細な
   
テクニックも併せ持つ。

   ゴールに対する嗅覚の良さは折り紙つきだが
   チャンスメーカーとしての才能も一流であり
   おおよそ考えられる最も贅沢なストライカーである。

   14才で本格的にサッカーを始め国内3部リーグだった
   地元のヤング・サバイバルズに入団。

   当初GKとして起用されていたがフィールドプレーヤーとして
   無限の才能を発揮したためポジションが次第に前へ移動
   するようになり18才の時にはセンターフォワードの位置に
   落ち着いていた。

   85年には31ゲームに出場して30ゴールを記録、これが
   認められて1部リーグの強豪インビンシブル・イレブンに
   移籍し2年後にミラの所属したトンネレ・ヤウンデに
   引き抜かれた。

   1シーズンのみの在籍だったが彼にとって初のリーグ優勝
   を経験している。

   ヨーロッパに渡ったのは88年、22才の時で日本人にも
   馴染みが深い名将ベンゲルの指揮するASモナコに所属。

   生活環境の違いなどから彼本来のプレーは見せられ
   なかったがここでの4シーズンはフランスならびに
   ヨーロッパの水に慣れる期間だったようで
   モナコにフランス・カップをもたらしたあと
   パリ・サンジェルマンに移り大活躍を始めた。

   92ー93シーズンでフランスカップ優勝、翌シーズンに
   リーグ優勝を達成したばかりでなくチャンピオンズリーグ
   で各国列強相手に大爆発し予選リーグ10戦全勝、
   準々決勝でバルセロナを撃破。

   ACミランに惜しくも破れたが素晴らしい数々の貴重な
   ゴールが認められて翌年この名門へと活躍の場を移す。

   オランダトリオを失い斜陽化を迎えたチームにあって奮闘、
   95ー96シーズンにスクデットを奪還しヨーロッパ人以外
   では初めてとなる
バロンドールの受賞者となった
   (前年に選出基準が改訂)。

   この年にはFIFAによる
世界最優秀選手賞にも輝き
   アフリカサッカー協会による
年間最優秀選手賞も受賞。

   名実ともに世界最高のプレーヤーであることを示した。

   以後、90メートル独走のゴールなど随所に彼らしいプレー
   を披露して能力の高さを示したが混乱するチーム事情の
   中で十分に出場機会が与えられないことに不満を持ち
   34才という年齢ながらイングランドのチェルシーに渡り
   たちまちレギュラーを奪取する勢いの優れた
   パフォーマンスを見せつけている。

   リベリア代表としても孤軍奮闘しているが人材を欠く
   事実はいかんともしがたくW杯でプレーするという夢は
   目下かなえられそうにもない。

   それでもウェアが世界を代表するストライカーである事実に
   異論をさしはさむ者は一人もいないだろう。

   185センチ82キロ。通称
「リベリアの怪人」

   ミスター・アフリカ、ウェアは
   ウィトラという名前で登場する。

   今から獲得しても決して遅くはない。
   彼のあり余るパワーはまだ健在である。

ルート・ファンニステルローイ
(オランダ、FW)



    「今オランダで最も光り輝く若手は誰か」と尋ねられれば
   誰もがファンニステルローイの名前を挙げるだろう。

   抜群の
駿足でDFを振り切りゴールを奪うスピードスターで
   正確に枠内を捕らえるシュートと
冷静さが魅力。

   クライファートらの世代以降ひさびさに登場した天才肌の
   選手でアヤックス出身、スリナム系でないことも近年では
   珍しい。

   93ー94シーズン、15才でデンポスに入団。

   2年後にトップチームに名を連ね本格的にプロデビュー
   を果たしたが彼の才能は2部リーグではおさまりが
   悪かったらしい。

   97年にヘーレンフェーレンに移りここでの活躍が認められ
   当時国内最高額となる1400万ギルダー(約7億円)で
   名門PSVアイントホーフェンに引き抜かれた。

   昨年はまさに水を得た魚のような活躍で34試合で
   31得点という驚異的なスコアでシーズンを終了、
   ポルトガルリーグのジャルデウに次いで
   ヨーロッパで2番目に多く得点を挙げた選手となり
   オランダ
年間最優秀選手賞を受賞している。

   特筆すべきは、今シーズンこれを上回る好調ぶりを
   示していることでリーグ前半戦が終わった段階で
   18試合22ゴール、ハットトリックにいたっては何と
   4回を記録して得点王争いでもトップを独走している。

   オランダ代表としても既にデビューを飾っており今年の
   欧州選手権が初の大舞台になりそうだ。

   その爆発ぶりからしてヨーロッパ各国のビッグクラブへの
   移籍が十分考えられ2002年に向けて最も活躍が期待
   される選手。

   なお、ミドルネームのファン(VAN)はファンバステン同様、
   通常はつなげて明記されるがファン・ニステルローイと
   書く場合もある。

   188センチ80キロ。現在23才。

   オレンジの若き至宝、ファンニステルローイは
   ニュルストヌーイという名前で登場する。

   2002年より一足先に来日すれば
   フレッシュな魅力でJリーグを席巻しそうである。

ジャイルジーニョ
(ブラジル、FW・攻撃的MF)



    キングレコードより発売されているビデオ
   「ワールドカップ伝説の120ゴール集」で見事一位に輝く
   ゴールを挙げたのがW杯70年大会のジャイルジーニョ
   だった。

   右サイドの深い位置からトップスピードに乗って駆け上がり
   敵DFの間を縫うように通した壁パスを冷静に蹴り込んで
   とどめをさした。

   柔軟なドリブル突破が魅力の
右ウイングでガリンシャの
   栄光を受け継ぎブラジル歴代最高チームの
切り込み隊長
   
として活躍したが攻撃的MFを難なくこなしたことからも
   分かるようにオフェンスに関するずば抜けた才能を
   持っていた。

   リオデジャネイロの出身で13才で名門ボタフォゴのテスト
   に合格。

   トップチームに合流してからは主力となり67、68年の
   リオ州選手権を制覇する原動力となる。

   74年、30才でフランスへ渡ったがマルセイユでは期待
   されたほどの活躍は出来ずわずか2シーズンを消化した
   だけで帰国。

   その後はクルゼイロでリベルタドーレス杯優勝、
   ミナスジェライス州選手権を連覇して
   余力の残っていることを示した。

   79年以降は1年ごとにチームを替えサンパウロを経て
   ボリビアへと飛び出しウィルステルマン、コチャバンバ
   の2チームに加わったあとボタフォゴに戻って38才で
   キャリアを終えた。

   ペレよりわずか4才年下という事情もあってブラジル代表
   の最盛期に加入しレギュラーを獲得してW杯3大会に出場。

   70年大会では、26才という年齢のせいもあってか
   初戦のチェコ戦から決勝のイタリア戦まで全6試合で得点し
   得点王こそ10得点のミュラーに譲ったものの
   チーム最多の7点を挙げて優勝に大きく貢献した。

   名実ともに
70年代最高のアタッカーの一人であり
   ブラジル歴代最強イレブンの選出が企画される度に
   たびたび名前のあがる名選手である。

   本名ジャイール・ベントゥーラ・フィーリョ。
   173センチ76キロ。代表出場83試合38得点。

   褐色の旋風、ジャイルジーニョは
   ジャイルジャーノという名前で登場する。

   「ブラジル歴代最強」の看板を決して侮ることなかれ。