アルツール・フリーデンライヒ
(ブラジル、センターフォワード)



    ブラジルが生んだ最初のスーパースター。

   ペレを上回る生涯1329ゴールはFIFA公認の世界
   記録であるが、17才から43才までプレーしていた
   ことを考えればペレの方に軍配が上がる。
   (ペレの現役生活は約20年、1283ゴール)

   フリーデンライヒはドイツ人の父親とブラジル人の母を
   持ち、白人以外の最初の代表選手としても知られる。

   民族的・文化的障害を破ったという意味での功績は
   計り知れない。

   「タイガー」の異名を持つが、存在自体が伝説であり、
   身長や体重などこまかいデータはまったく不明。

   代表デビューは1914年7月21日、イングランドの
   クラブ・エクセターシティと対戦した時で2ー0で勝った
   ものの、DFと衝突して歯を2本折ったと伝えられる。

   ブラジル代表として17試合に出場、8得点を上げた。

   1969年、77才で生涯を終えている。

   個人的には登場する見込みはないと思うが
   そんな時のためにエディットがあるのだと信じる。

イゴール・ベラノフ
(ソ連〜ウクライナ、FW)



    ソ連人としてヤシン、ブローキンに続きバロンドール
   を受けた人物。

   86年、ディナモ・キエフの攻撃の中心として大活躍、
   欧州カップ・ウィナーズ・カップを制覇、その勢いを
   駆ってメキシコW杯に参戦。

   決勝トーナメントの1回戦、ベルギーとの試合でハット
   トリックを達成した。

   なかでも1点目は、左から斜めに持ち込んで25メートル
   ほどの距離から鮮やかに決めたもの。

   この素晴らしいゴールがほとんど決め手となりこの年
   の欧州最優秀選手を受賞している。

   もっとも、試合そのものには負けた。
   (W杯でハットトリックして敗れたのも3人目)

   素早いドリブルからシャープなシュートを放つのが持ち味
   でこの後ドイツに渡って93年までプレーを続けるが、
   何故かじょじょに輝きが色あせていった。

   その点で、ほかの歴代バロンドール受賞者より見劣りし、
   バロンドーラーには珍しい「一発屋」と化している。

   ベラノフはブラノフという名で登場する。
   
   彼の無念をぜひ晴らしてあげてほしい。
   願わくば、シャフチャンコとツートップで。

マルコ・ファン・バステン
(オランダ、FW)



   ご存じACミランのオランダ・トリオの一人にして
   80年代最高のストライカー


  同国史上最高の英雄・クライフによく似ており実際アヤックス
  では本人から指導を受けた。

  プロデビューは82年、17才のとき。輝く才能の片鱗を見せた
  あと、クライフが手塩にかけてたんねんに育て上げ、アヤックス
  のセンターフォワードとしての地位を確実なものにした。

  その容姿とプロフィールのせいで「クライフの息子」としばしば
  呼ばれたが、クライフ自身が回想するところでは、同年齢の
  彼よりもファンバステンはひとまわり大きく、技術的にも
  上回っていたという。

  ファンバステンは左右両足を同じレベルで使いこなし、スピード
  豊かで、ヘディングの技術も申し分なかった。

  非の打ちどころがないとはこのことである。

  彼は84年〜87年、コンスタントに30ゴールをあげた後、
  契約満了にともない、わずか150万ポンド(UEFAの規定する
  移籍金の最低金額)で、ACミランに移籍。

  PSVから移ったグーリット(フリット)は契約途中でその4倍の
  値段がかかったがミランにとっては安いものだった。

  ここから同クラブの黄金時代が始まる。

  イタリアでの1シーズン目は精細を欠いたが、88年に開かれた
  欧州選手権で彼は見違えるような活躍をしてみせた。

  イングランド戦でハットトリックを達成、準決勝の西ドイツ戦では
  決勝ゴール。

  そして決勝のソ連戦での鮮やかなボレーシュート。

  オランダを初のビッグタイトルに導いたこのゴールはサッカー
  史上最も偉大な国際試合でのゴールといっていい。

  彼はその勢いを駆ってリーグ戦に戻り、ミランを20年ぶりの
  欧州チャンピオンに導く。

  ミラニスタは彼を「サンマルコ」と呼んで称えた。

  彼はその後も獅子奮迅の活躍。

  最終的に、オランダとイタリアのリーグ優勝が3回ずつ、
  チャンピオンズカップ優勝を2回、カップ・ウィナーズ・カップ
  優勝1回、トヨタカップ優勝2回、個人では育ての親クライフ
  に次ぐバロンドール3回世界最優秀選手賞1回に輝く。

  栄光に満ちたファンバステンだが、引退はことのほか早く、
  95年8月、わずか31才のとき。

  86年にオランダで受けた何気ないタックルは彼の足首に
  微妙な痛みを残していた。

  結局その痛みは増しこそすれ、完治することはなかった。

  イタリアリーグで激しいタックルを受け続けたことが選手生命
  を大幅に縮めることになる。

  合計4回の手術も空しく彼はユニフォームを脱いだ。

  代表でのゴール数こそ後輩・ベルカンプに抜かれたが
  ファンバステンがオランダ史上最高のストライカーである
  ことを疑うものは一人もいないだろう。

  ファンバステンは現在ゴルフに熱中し、サッカーの仕事に戻る
  ことは全く考えていないという。

  彼はバステンという名で登場するが、あの勇姿をもう一度
  見たいと思うファンは決して少なくないはずである。

ゴードン・バンクス
(イングランド、GK)
ボビー・ムーア
(同、センターバック)



    ヤシン率いるソ連が4位になった66年大会で優勝を
   飾ったイングランドの守備の要で、二人とも同国史上最高
   のプレーヤーである。

   バンクスは「イングランド銀行」(まんま)の異名を持つ
   ヤシンと並ぶ当代きっての名選手。70年W杯では、完ぺき
   に逆をついた筈のペレのヘディングを驚異的な反応で弾き
   飛ばし、「神様」をして「私が見た中で最高のセーブ」
   言わしめた。

   ハイボールやシュート、FWの突破にも常にパーフェクトな
   反応が出来る理想的なGK。

   決勝トーナメントで西ドイツに破れたのはチャールトンが
   途中交代したことよりもバンクスが腹痛で欠場したことの
   ほうが大きいという。

   残念ながら、交通事故で片目を痛め事実上34才で引退
   したが、復帰してその後米国で2年間プレーしている。

   ボビー・ムーアはもう一人のボビー(チャールトン)に負けず
   劣らずの大選手。

   飛び抜けた身体能力があるわけでもなく、ヘディングの
   名手でもすばらしいタックルを披露するわけでもなかったが
   非のうちどころのない試合に対する読みとボールを止め、
   周囲を見回して一本のパスで守備から攻撃に切り替える
   能力で欠点のすべてを埋め合わせた。

   何よりきわだっていたのは、氷のような冷静さと卓越した
   リーダーシップで、代表歴108試合中実に91試合キャプテン
   を務めた実績を省いてもこの点においてムーアの右に出る
   者は一人もいない。

   前述のブラジル戦、絶好調のジャイルジーニョと1対1に
   なった時、抜かれれば確実に1点だったにもかかわらず
   冷静なタックルでボールを抑え、攻撃の目をつんだ。

   「ザ・キャプテン」
と呼ばれた史上最も偉大なキャプテンで
   20世紀中にワールドカップを掲げた唯一のイングランドの
   キャプテンでもある。

   何より名の知れた歴代の名DFは彼とベッケンバウアー
   くらいということからもその偉大さがわかろうものだ。

   悲運にも93年にガンにおかされ死亡したが、実に彼らしく
   その病にも(最後まで)敢然と立ち向かったという。

   偉大な二人のうち、バンクスはバングという名で登場するが
   ムーアの所在はわかっていない。

   もっとも、これほどの名選手であるから、いつか必ず姿を
   現す筈である。
  
   その時をこころして待とう・・・貴方も私も。