
(デンマーク、FW)
デンマーク・サッカー界のプリンスであるミカエル・ラウドルップ の弟として知られる。 獲得したタイトルは兄にこそ及ばないが緩急自在のドリブル で敵陣を引っかき回す技術からしてミカエル以上との天才 と推す声も高い。 プレーの幅を「広げていった」兄とは異なりドリブルという 一つの技術を「深めていった」観があり強引なまでの突破 からチャンスを切り開くプレーは年齢を重ねても一貫している。 4人兄弟の末弟としてオーストリアのウィーンで生まれ 5才年長の兄と同じブロンビーで86年プロ契約した。 加入して2年目からリーグ戦2連覇を達成、翌年には デンマーク・カップを制するなど上々の滑り出しで早くに 母国を飛び出しブンデスリーガに活躍の場を求めている。 ドイツに渡ったのは20才のときでバイヤー・ユルディンゲン とバイエルン・ミュンヘンで併せて3シーズンを消化した。 欧州選手権での活躍が認められてイタリアに行き92ー93 シーズンにフィオレンティーナ、翌シーズンに名門ACミラン でプレーしリーグ優勝とチャンピオンズカップ優勝を味わって いるが決勝戦には出場していない。 プレーの性格が職人的すぎるせいか、伸び悩んだが25才 で移ったスコットランドで水を得た魚のように活躍。 グラスゴー・レンジャーズの顔として定着し3年連続の リーグ優勝に貢献したばかりか95ー96シーズンには カップ戦も制して2冠を達成、外国人としては初めて となる年間最優秀選手賞を授与された。 98年にイングランドのチェルシーに移り1シーズンを経て 母国のコペンハーゲンに戻っている。 代表としては、ユーゴスラビアの国際的制裁により代替出場 した92年欧州選手権で優勝。 「ダニッシュ・ダイナマイト」の系譜を見事に受け継ぎ 兄ミカエルの達成できなかった国際試合でのタイトル を獲得した。 代表チームにも20才から名を連ねフランス大会の予選 には8試合のうち7試合に出場して4得点を挙げる。 念願だった兄弟での競演も果たし予選のクロアチア戦では 難敵をアベック・ゴールで退けた。 サッカー史に名を残す真に偉大な兄弟の一組である。 代表出場82試合21得点。186センチ72キロ。 デンマークの至宝、ブライアン・ラウドルップは ニストロップ Bという名前で登場する。 できれば、クラブレベルで達成できなかった アベックゴールを日本で見たいものである。 |
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(アルゼンチン、FW)
ラモン・ディアスの左足について考える際何人かの レフティーの天才性に言及するのは間違いである。 確かに彼は表面上は右足をほとんど使わない名手、 プスカシュやマラドーナと同じタイプの選手に見えるが ディアスは本来は右利きで生活に関するほかごとは どうあれサッカーでだけは何故か左足を使った。 172センチ68キロと体格的には恵まれないが 「ゴールは力ではない」と言い切りボールを受ける タイミングとシュートに移るまでの素早さで勝負する。 常に的確なポジショニングもさることながら正確さを失わない 左足のテクニックは驚異的で実際に優雅な数々のゴール を片足だけで生み続けた。 18才でアルゼンチンの名門リバープレートにデビュー。 80ー81シーズンに国内リーグで得点王を獲得。 1才年下のマラドーナより先に母国を飛びだし82年イタリア のナポリに移籍、これを皮切りにセリエAで7シーズンを 消化しアベリーノ、フィオレンティーナなどを渡り歩いた。 87年インテルでスクデットを獲得している。 89-90シーズン、モナコに所属したあと不振極まりなかった 古巣のリバープレートに復帰。 32才という年齢からプレーの衰えが噂されたが得点王を 獲得してチームを優勝させ名門復活のための足掛かりを 作った。 93年に開幕したJリーグには決定力を欠く横浜マリノス (当時)の切り札として鳴り物入りでの入団。 ライバルのアルシンドの追随を許さず28ゴールで 初代Jリーグ得点王に輝く。 そのうち22ゴールが左足によるものとは驚かされる。 日本では2シーズンを費やしたが ついに優勝は味わえず母国に戻って引退した。 日本とはもともと因縁があり世界中から注目された79年 日本ワールドユース大会でマラドーナとともに母国を優勝 に導いたうえ8得点で大会得点王の栄誉を手にしたこと がある。 この活躍で世界に進出するきっかけをつかんだがもともと プライドが高いもの同士マラドーナとはどうしても性格が 相入れず以後代表への参加を拒否したためW杯は82年 スペイン大会に参加したに留まる。 引退後はリバープレートの監督となりリベルタドーレス杯を 勝ち抜いて96年トヨタカップに来日したが2度目の世界一 達成はならなかった。 名実ともにJリーグ史上最高の助っ人の一人である。 本名ラモン・アルヘル・ディアス。 天才ゴールハンター、ラモン・ディアスは ディナスという名前で登場する。 Jリーグの夢を甦らせるのはこの男のゴールしかない。 |
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(ポーランド、攻撃的MF・FW)
ポーランドのサッカーは70年代にラトやディナを輩出して 隆盛を極めたがボニェクの出現以降沈黙している。 おもに80年代に活躍したとはいえその意味では同国の 生み出した最新の傑作であることは間違いない。 ダイナミックで機敏な動きで中盤から飛び出しパワフル なゴールをたたき込むのがお決まりのパターンで高い パス能力でゲームを組み立てる才能に恵まれたことで その武器を存分に活かすことが出来た。 二つの危険な能力を有したボニェクに対しDFたちが 手を焼いただろうことは想像にかたくない。 71年地元のザビジャ・ビドゴシチにてプレーをはじめ 19才で移ったビジェフ・ウージで80ー81シーズンから リーグ2連覇を達成した。 それまでの選手と異なり早くから国外でのプレーが 許されたため82年、26才でユベントスに加入、 110万ポンドの移籍金はポーランド選手史上最高額である。 プラティニとのコンビで中盤を支配し入団していきなり コパ・イタリアを制しチャンピオンズカップ準優勝という 好成績をなし遂げた。 翌シーズンはカップ・ウィナーズ・カップ決勝戦でFCポルト 相手にゴールをたたき込んで優勝、スクデット獲得も同年 達成し翌年のチャンピオンズカップ優勝にも大きく貢献した。 もっとも85年にASローマに移籍したためトヨタカップに 参加することは出来なかった。 代表でも攻撃の切り札として長く活躍し82年のスペインW杯 ではベルギー戦でハットトリックを決めて準決勝に進出、 警告の累積で出場できずに敗退したが欠場がなければ 歴史を変えていたかもしれない。 この年の活躍によりバロンドールの投票で3位と健闘した。 代表出場80試合24得点。181センチ75キロ。 ポーランド最大のスター、ボニェクは バニュックという名前で登場する。 東欧のカウンター・サッカーを決して侮ることなかれ。 |
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(コロンビア、攻撃的MF)
欧州サッカーとの融合を激しく進める昨今のブラジル、 アルゼンチンに代わりラテンサッカーの真髄を見せつけた のが90年イタリアW杯のコロンビアであった。 それまでは南米の中でも弱小国の一員だった同国が 躍進を遂げた理由の一つがバルデラマの存在である。 獅子を思わせる金色のたてがみを持ったゲームメーカーは 百獣の王さながらに中盤に君臨した。 敵陣の守備のほつれを一瞬で見分ける眼力を持ち 密集地帯のわずかな隙間を通すキラーパスで 攻撃陣を自由自在に操った。 それらのほとんどは単純なインサイドキックで放たれたが ほかの誰にも真似できない芸当なのは明らかだった。 スピードのなさが弱点となるにせよことボールさばきに かけては誰も彼に及ばなかった。 国内のクラブを転々としデポルティボ・カリに所属していた とき85年から2年連続でリーグを制覇した。 87年コパ・アメリカでの活躍が買われてフランスの モンペリエに移り89ー90シーズンにフランスカップ を獲得したが決勝戦には出場していない。 欧州の速いテンポにはどうも馴染まなかったらしく スペインのバリャドリード(城が移籍したことで知られる) で1シーズンだけプレーして帰国した。 彼が再び海を渡るのは35才となった96年でアメリカ MLSリーグのタンパペイ・ミューティニーに活躍の場を 移している。 コロンビア代表の顔でもあり24才で出場してから 110キャップ以上を数え同国最多の記録を保持している。 注目を集めたのは前述のコパ・アメリカで実績のない チームを率いて3位と健闘。 W杯では予選のなかった50年ブラジル大会に参加した だけの母国を90年から3大会連続で出場に導いた。 イタリアではベスト16でカメルーンの前に姿を消し4年後 の大会には優勝候補として乗り込んだがスピードを基調 にしたアメリカに3-1でまさかの敗北を喫しグループリーグ であえなく姿を消す。 フランスW杯でも同様で90年の煌きを見せることは 出来なかった。 ともあれ、個人的には87年・93年の南米最優秀選手 に輝いており名実ともにコロンビア史上最高のスター であることに疑いの余地はない。 本名カルロス・アルベルト・バルデラマ・ブラシオ。 179センチ74キロ。 カリブの帝王、バルデラマは バルダーニという名前で登場する。 そのプレーぶりはまさに王者と呼ぶにふさわしい。 |