
(イタリア、GK)
ヤシン、バンクスと並び史上最高のGKと称される。 鋭い反応や素早い飛び出し、正確な読みなど全てにおいて 高いレベルを持っていたが特筆すべきはその冷静さで どんな時も決して取り乱さずに守備陣をリード、DFから全幅 の信頼をおかれた稀代の名手である。 派手ではなかったが常に安定しておりそのプレーぶりは GKの理想像といえる。 60年、18才でプロの世界に飛び込みウディネーゼ、マントーバ、 ナポリを経たあと72年にユベントスに入団。 この頃すでに30才だったが以後10年間ゴールを守り通して 全盛を極めた。 76-77シーズンのUEFAカップに優勝、72-73、82-83シーズン のチャンピオンズカップに準優勝したほかイタリアリーグを6度、 コパ・イタリアを2度制するなどキャリアを飾る勲章はユベントス 時代に集中し考えられるありとあらゆるタイトルを総なめに している。 国際舞台での活躍も華々しく26才でデビューしてから40才で 引退するまでにイタリア代表として最多の112試合に出場。 73年から74年にかけては国際試合で1114分無失点という 偉業を達成した。 ナポリ時代のパフォーマンスが代表スカウトの目にとまり 68年欧州選手権の準々決勝、ブルガリア戦で登場するや レギュラーに定着して見事に優勝をもぎとった。 70年メキシコW杯では準優勝だったがこの時はアルベルトシ にポジションを奪われている。 74年西ドイツ大会にはレギュラーとして臨み前述の無失点記録 も更新中であったが初戦のタヒチ戦でまさかのゴールを許して グループリーグ敗退の憂き目にあった。 78年アルゼンチン大会はベスト4に進出するもオランダのハーン にロングシュートを決められ沈没。 これまでのW杯ではなかなか真価を発揮できなかったが 82年スペイン大会にキャプテンとして臨み4度目の正直 となる優勝を達成。 目を覚ました「黄金の子」ロッシの活躍もさることながら40才と いう高齢を豊富な経験でカバーしてDF陣を見事に統率した ゾフの堅守が光った。 34年優勝時のキャプテン、ジャンピエロ・コンピに次ぐ史上2人目 のW杯を掲げたユベントスGKとなりイタリア代表としても戦前以来 44年ぶりの世界一で20世紀中にはこれ以後の優勝はない。 引退後も監督としてユベントスを率い90年のUEFAカップを獲得。 ラツィオの監督から会長に昇格していたが チェーザレ・マルディーニの後を継ぎ代表監督に任命された。 まずは2000年代初の国際大会となる欧州選手権での 手腕が注目される。 182センチ78キロ。代表112試合83失点。 カテナチオの申し子、ゾフは ドフという名前で登場する。 彼は決して南京錠の鍵を容易に敵には渡さないだろう。 |
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(イラン、FW)
イラン・サッカー史上最大の英雄にして現アジア最強の ストライカー。 188センチ83キロという体格を誇り驚異的なジャンプから 叩き込むヘッドは強力無比。ゴール隅に丁寧にボールを 蹴り込む緻密で冷静なシューターでもある。 14才の時に地元のハバナンでプレーを始め テジャーラット銀行というクラブチームで活躍。 90年から95年にかけて4年連続を含む5度の得点王に輝く。 97年にドイツに渡りアルミニア・ビーレフェルトに加入、 そのパフォーマンスに惚れ込んだベッケンバウアー会長が 名門バイエルン・ミュンヘンへと引き抜いた。 チャンピオンズリーグ決勝マンチェスター・ユナイテッドとの 一戦にも参加していたが控えとしてベンチを暖める境遇に 嫌気がさしヘルタ・ベルリンへ移籍、30才ながら水を得た魚 のような活躍ぶりを見せている。 代表チームとしても欠かせぬ人材であり93年W杯最終予選 で初キャップ、ここでも得点王に選ばれるとともにMVPを獲得。 欧州の注目を集めたのは96年のアジアカップで本人が ベストゴールと推す韓国戦のボレーを含む8得点で得点王 に輝いたことから。 国内の難関といわれるサンアティ・シャリフ大学に合格し 鉱学技師としての資格も持つ知性派。 日本とはとりわけ深い因縁があり「ドーハの悲劇」を経験 した93年最終予選で2ゴールを奪ってオフト・ジャパンを 粉砕し97年の最終予選でも目を見張るジャンプから 勝ち越しゴールを決めている。 後年、その実力を見込んだオフト監督がジュビロに入団 させようとしたがかなわなかった。 真にアジアレベルを越えた世界的な名選手といえるだろう。 砂漠のポストマン、ダエイは バエイという名前で登場する。 オフトの果たせなかった夢を完成させられるのはたった一人 それはほかならぬ貴方である。 |
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(日本、攻撃的MF)
日本の生んだ天性のゲームメーカー。 攻撃に対して強い執着心を持ち柔軟なテクニックと 豊かなスピードを駆使して敵陣に進入、一撃で急所 を突く見事なスルーパスで相手をしとめた。 フリーキックやセンタリングの精度も群を抜く。 ほとんど才能だけでプレーした選手の見本でラモスが 自分の後継者に指名し 澤登正朗が「俺にもあのセンスがあれば」 と羨んだなど数々の伝説を残すことでも知られる。 ドレッドヘアと不精髭というスタイルも特異であらゆる 指導者がその規格外のスケールを口にした。 小学4年で本格的にサッカーを始め帝京高校に進学、 一年生ながら10番をつけ出身地と肌の色から 「熊本の黒豹」の異名をとった。 三年生になった時には古沼監督が「天皇杯も狙える」と 考えたチームに仕上がったが88年の高校選手権準決勝 東海第一にPK戦の末敗れている。 キックを外したのは他ならぬ磯貝だった。 なお、この試合には澤登正朗、森山泰行、本田泰人、 遠藤昌浩、飯島寿久らが顔を揃え 高校サッカー史上に残る名勝負として語り継がれる。 磯貝は以後、東海大学に進学して90年大学選手権に 優勝、翌年に準優勝して大学ナンバーワンの評価を 得たが大学2年の時に短期留学したスペインで触発され 帰国するなり松下電気(現ガンバ大阪)と契約して プロの世界に身を投じている。 選手層の薄いガンバにあって中心選手として期待されたが あいつぐケガで本来の働きがまったく出来ず心機一転して 移籍した浦和レッズでも同様、99年に30才でユニフォーム を脱いだ。 彼の自己管理が万全であったなら日本代表としてわずか 2試合などということは決して起こらなかったに違いない。 むしろ活躍したのは85年のワールドユース予選で右足を 骨折していながら鋭いシュートで得点をあげ宿敵・韓国を 相手に完全にゲームを支配、地元のマスコミにも 「日本に末恐ろしい選手が現れた」と報じられたほど。 高校時代の同僚、森山泰行は受けたパスでその日の 体調が分かるというほど精密なコンビを結成していたが 森山が「いつか」と望んだにもかかわらず二人の競演は 二度と見られなかった。 本人は現在プロゴルファーに挑戦中である。 177センチ74キロ。 「未完の大器」磯貝洋光は、猪貝洋通という名前で登場する。 永井秀樹の言葉を引用しよう。 「マラドーナの子供時代のことは知らないけれど 磯貝の方がすごいだろう。奴は化け物だ」 今度こそ「奴」の才能が鮮やかに花開くことに期待しよう。 |
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(デンマーク、FW・MF)
86年メキシコW杯で世界に衝撃を与えた 「ダニッシュ・ダイナマイト」デンマーク代表の中心選手。 事実上10番不在の代表にあってチームを牽引、 ダイナミックなドリブルでの切り込み役を担当し 決定的なラストパスを「猛牛」エルケーアに配球しながら 中盤の構成にもからむ「9・5番」として活躍した。 その実力は「クライフの再来」と噂され抽選でデンマーク と同じ組に入ることが決まった西ドイツのベッケンバウアー 監督が思わず天を仰いだほど。 後年はゲームメーカーとしての才能も発揮した。 79年に当時2部だったブロンビーでキャリアをスタート、 コペンハーゲンBKでの3シーズンを経て古巣に復帰。 83年の欧州選手権予選で注目を集めイタリアのビッグ クラブの獲得競争の末ユベントスに在籍しながらラツィオ に貸し出されるかたちとなった。 85年にはユベントスに戻ってスクデットを獲得する。 25才で移ったバルセロナでは更に多くのタイトルに恵まれ 90ー91シーズンからのリーグ4連覇をはじめ チャンピオンズカップに優勝、 (トヨタカップではサンパウロに敗北) カップ・ウィナーズ・カップで準優勝を遂げた。 94年にはレアル・マドリードでリーグ優勝、 ヴィッセル神戸で一年間プレーしたあと アヤックスで元代表の同僚、オルセン監督のもと リーグとカップの2冠を達成して34才で現役を引退。 85ー86シーズンからは個人的に8年間で6年連続を 含む7回の優勝を経験している。 その唯一の欠落がJリーグ時代というのは日本のファン にはいかにも無念であろう。 代表でも19才からなじみの顔となり83年欧州選手権 予選でイングランドを下し本大会でも3位に食い込む など無名に近い母国を一気に国際舞台の常連国に 押し上げている。 98年フランスW杯でもチームの柱として出場。 念願の弟ブライアンとのコンビを実現したが86年に 果たせなかったベスト8を達成した時点でブラジルに はばまれて代表を引退した。 2回のW杯に出場した唯一のデンマーク選手だが86年 に世界に与えた衝撃だけでも歴史に名を刻む十分な 資格を持つといえるだろう。 代表104試合37得点。183センチ75キロ。 北欧サッカーの巨人、ミカエル・ラウドルップは ニストロップ Mという名前で登場する。 ニストロップ Bやゴルケーアと組ませて ぜひ彼の才能を存分に引き出してみてほしい。 |
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