
(西ドイツ、MF)
ドイツ代表の売り物が魂だけではないことを証明した人物。 小柄だがテクニックにたけとりわけドリブルの鋭さは天下一品 で若い頃「ドリブラルスキー」と異名をとったほど。 FKの精密さも日本人がよく知るところである。 16才でヘルタ・ツェーレンドルフと契約し78年に1FCケルン へと移ってキャリアの中では最も長い8シーズンを過ごす。 86年にフランスのラシン・パリに移ったが翌年再びケルンの 一員として今度は5シーズンを消化した。 入団当初から名将バイスバスラーに鍛えられ切れ味のある ドリブルと展開力を開花させ徐々に資質を活かして中盤に移動。 82ー83シーズンにドイツカップを制し85ー86シーズンに UEFAカップ準優勝を経験している。 93年からジェフ市原に参加、日本で脚光を浴び1年間の 空白ののちブランメル仙台(ベガルタの前身)で2シーズンを 費やしてから35才で引退した。 クラブタイトルでは優勝に恵まれなかったがドイツ代表と しては3度のW杯決勝進出を果たし3度目の正直となる90年 に主力として優勝。 86年大会途中にケガでリタイヤしてから見事に復活を 果たして最高の勲章を手に入れた。 来日前「最高のプレーとは何か」と聞かれ「フィールド プレーヤー全員をぶっちぎってゴールキーパーの前で ドリブルして回りながらヒールキックでゴールを決める」 のが理想と答えてJリーグで華々しい活躍を見せたのは 記憶に新しい。 現在は資格をとって横浜FCの監督に就任している。 代表73試合18得点。168センチ64キロ。 ドイツの切り込み隊長リトバルスキーはリンドバーグという 名前で登場する。 その実力でぜひライバルたちをきりきり舞いさせて頂こう。 |

(ブラジル、MF)
ペレの引退後、ブラジルの10番を継承し、ジーコに うけ渡した人物。 だが、二人の名選手にはさまれながらもいまだその名前 を残すことが偉大さを物語っている。 典型的なポンタ・ジ・ランサ(槍の穂先の意味。スルーパス の名手が担うトップ下の位置)の選手で、左足を起用に 使ってあらゆる技を駆使した。 ボールをまたいで逆に出る切れ味は抜群だったという。 また、その多彩な能力の中でも特にきわだち、代名詞と なっているのがプレイスキックの能力で、するどく曲がる バナナシュートは何度も敵をヒヤリとさせた。 圧巻なのが1974年W杯の東ドイツ戦、ゴール前の フリーキックを得たリベリーノは相手の壁に入った ジャイルジーニョがかがんだ瞬間、その隙間を寸分の 狂いもなく通してシュートを決めた。 また、これは公式記録ではないが、相手チームのGKが 試合前の祈りにまだ集中しているのを見て開始3秒で ゴールを決めたこともあるという。 常にゴールに向かう意識と、常に広く保つ視野が もたらした好プレーだった。 リベリーノはリベイロという名前で登場する。 ポジションは左の攻撃敵MF。 強力な10番に困っているならぜひ獲得すべきだろう。 ちなみに1994年のセカンドステージ、エスパルスの監督 に就任したがたいした成績は残していない。 監督として採用するのは少々考えものである。 |
![]()

(イタリア、FW)
イタリア史上最高のストライカーとされる選手で20年代 から50年代にわたってプレーした。長身でスピードに富み、 運動量も豊富で代表歴24試合で30得点を上げている。 戦争の影響で国際舞台での活躍は少ないが間違いなく 頂点の一つは1938年第3回(!)フランスW杯であり、 史上初の二連覇に大きく貢献した。 ムッソリーニの統制下、強引に優勝をさらった前回イタリア 大会と異なり、代表は4年前とはがらりと顔ぶれを変えて おり、前回大会から引き続き選ばれたのは2人だけだった。 ピオラは新人で、ポッツォ監督は彼を中心にチームを編成、 ピオラもその期待に見事に答え、ぶ厚い守りからカウンター で攻撃する作戦で自らの持ち味を十分に発揮し、決勝でも 2ゴールを上げている。 ピオラ自身は43才まで実りの多いプレーを続けたが特筆 すべきは1936年の対イングランド戦でこの時彼は何と手 を使ってゴールした。 試合当初は否定していたがのちに本人も認めている。 マラドーナの神の手に先んずること50年前の話である。 よりによってイングランドばかりがねらわれるのは同国のフ ァンにとっては迷惑千万な話であろう。 ちなみにイタリア大会から残った2人のうちの一人が ジュゼッペ・メアッツァである。 ピオラの名前は知らなくても、彼の名前にピンとくるミラン ファンは多いはずだ。 ピオラは現在サカつくでは確認されていない。 かなり出る可能性も低いと思う。 これを読んだ諸氏の失望の顔が目に浮かぶようである。 ・・・ごめん。 |
![]()

(ブルガリア、左ウイング)
60年代のアスバルホフ、70年代のボネフを越える ブルガリア史上最高の名選手。 卓越したスピードと豊富な得点感覚でそれだけでも十分 国際的なストライカーなのだが がっしりとした身体に似合わない繊細なボールタッチで 味方の決定機を演出するチャンスメーカーでもある。 おそらく唯一の、そして最大の欠点は生来の激しい気性 であろう。 CSKAソフィア時代、そのトラブルメーカーぶりが災いして 永久追放処分を下されたが、たったの6ヶ月で現場に 復帰した。 その後、ブルガリア史上最高額である200万ポンドで スペインの名門・バルセロナに渡りクライフ監督のもと、 その類希なる才能を開花させる。 1994年のワールドカップではその強力な左足の威力を 存分に知らしめロシアのサレンコと共に得点王に輝いた 上、ブルガリアの最高の成績となる4位躍進の立役者 となった。 1994年にはブルガリア人で唯一のバロンドールを受賞。 パルマ、アルナスル(サウジアラビア)を経て 98ー99シーズンには柏レイソルでもプレーした。 だが、そのキャリアのピークはやはりバルセロナ時代で、 チャンピオンズカップを制した1992年、トヨタカップで 来日、サンパウロと対戦した時、ミドルレンジから強力 なシュートを決めて先制。 振りあげた左足すら認識できないほどの速いモーション でGKが一歩も動けなかったそのプレーはまさに世界 最高のストライカーの面目躍如だった。 バルセロナ時代のストイチコフにはこんな逸話もある。 人に指示されるのが嫌いなストイチコフはバルセロナの 監督だったクライフとも最初衝突した。 「俺より下手なやつの言う事をなぜ聞かなきゃならない」 そうストイチコフはうそぶいた。 「俺に言うことを聞かせたければ俺とフリーキックで勝負 をして勝ってみろ、そうすれば何でも聞いてやる」 FKを得意とするストイチコフは10本蹴ったFKのうち8本 をクロスバーに当てた。 得意満面なストイチコフ。 その後続いてFKを蹴ったクライフは事もなげに蹴った 10本全てをクロスバーに当ててみせたと言う。 以後ストイチコフはクライフに心服して一切その指示に 逆らうことは無かった。 ただその後移籍したチームではまた監督と衝突した。 「クライフ以外のやつの言うことをなぜ俺が聞かなきゃ ならないんだ」 ストイチコフはあくまでもストイチコフだった。 ストイチコフはストニコフという名前で登場する。 彼を使いこなせるかどうか、それはあなた次第だ。 |
![]()