レトロゲームレビュー/名作、クソゲー等ファミコン時代から網羅

シェンムー第一章・横須賀

Media :DreamCast
Maker :SEGA
種 別:アドベンチャーゲーム
発売日:1999年


個人的には「たけしの挑戦状」を彷彿とさせるゲーム。
とはいっても、世間でイメージされているたけしの挑戦状並のクソゲーだ、と
いうわけではない。
たけしの挑戦状というゲームは当時のおいらにとって実に不思議なゲームだっ
たのだ。
一般的には難易度以前に破綻しきった理不尽なゲームバランスのみが取り沙汰
され(その気持ちも痛いほど分かるが)クソゲーの代表というレッテルを貼ら
れている「たけしの挑戦状」だが、当時のおいらはあのゲームで描かれている
妙に生活観のある並々や、ゲーム的にはほとんどの場所で意味がないのに、そ
こにある商店や家に入って買い物などが出来る、という仕様、つまり現実世界
では当たり前だが、ゲーム世界では当たり前ではないことを追求した、無駄に
リアルな仕様にそれまでのゲームとは違った不思議な感覚を覚えた。

 つまり、シェンムーとは、たけしの挑戦状のそういう無駄にリアルな部分を
セガというゲーム業界を代表するメーカーが本気で作ってしまったゲームなの
だ。
プレイヤーは主人公である男子高校生となり、父親を殺した犯人を探すために
手がかりを求めて横須賀の町に出る。

 まず、シェンムーというゲームに触れて一番驚かされたのは、言うまでもな
くこのゲームのキーワードにもなっている「リアル」な世界だ。
このゲーム自体は既に発売から4年以上が経過し、DreamCastの次の世代のハー
ドが主流になっていることもあって、今現在シェンムーのグラフィックを見て
現行のゲームよりも美しく感じるかどうかは疑問だが、このゲームが持ってい
るリアルさは単にグラフィックのクォリティによりものではなく、ゲーム世界
の中で現実世界の「当たり前の光景」が出てくることの驚きにその本質がある。

 普通、どんなゲームでも、ゲーム世界に必要なものとそうでないものを分け
てからゲーム世界の構築をはじめる。
平たく言えば、ドラゴンクエストの世界に武器屋や宿屋は存在するが、パン屋
や靴屋は登場しない。
何故なら、ゲームに直接関係のない「リアル」はプレイヤーを混乱させること
になるからだ。

 「ゲーム」という世界を知っているプレイヤーは、そこにパン屋や靴屋があ
れば、そこに入り、何かアクションを起こすことでゲーム進行に関係のある何
らかのイベントが発生すると考える。
事実ゲームメーカーは、無用な誤解や混乱をプレイヤーに与えることを避ける
為に、ゲームに必要のないものはゲーム世界には置かなかったし、プレイヤー
はそういうゲームに慣らされることにより、それをゲーム世界での常識だと考
えているからだ。

 それだけに「当たり前の光景」をゲーム世界で見た時の衝撃は、ゲームに慣
れているプレイヤーほど大きくなる。
このゲームでは本来なら書き割りの背景で済ませるであろう、ゲームには何の
関係もない道路脇に立つアパートですら、その階段をのぼって二階の部屋のド
アをノックすることさえ出来るのだ。

 また道端の自動販売機でジュースを買うことも、ガシャポンで遊ぶことも、
ゲームセンターでスペースハリアーやハングオンなどの往年のゲームを楽しむ
ことも出来る。

 そういうこれまでのゲームでは非常識だった、常識を再現したところにこの
ゲームの大きな特徴がある。
が、反面、「リアル」という要素はゲームにとってはあくまで付随的な要素に
過ぎず、ゲームの本質としてはその上で何が行われるかということが重要にな
なってくる。

 シェンムーにも先述したシナリオが存在し、父親を殺した犯人を追うことに
よりシナリオが進行していく。
シナリオ自体は一本道で、シナリオ本編に限っていえば、従来のごく普通のア
ドベンチャーゲームを3D世界で行っていることになる。
そしてシェンムーの問題点はこのギャップにあるのだ。

 かつてなかったほどリアルな箱庭を作っておきながら、その箱庭の上で展開
される「ゲーム」は旧態依然であることのギャップ。
「リアル」ではあっても、このゲームで描かれる横須賀は、シナリオを離れて
プレイヤーの自由意志でそこで遊べるほど懐の深さは残念ながらない。
自動販売機でジュースを飲むことも、ガシャポンを集めることも、ゲームセン
ターでゲームに興じることも全て、ちょっとした息抜きに過ぎず、道行く人々
との会話もシナリオを進行させないと変化していかない為、プレイヤーはシナ
リオを追随することを強要され、その古い方法論と現実に目の前に広がる「自
由であるはずの空間」とのギャップに戸惑ってしまうのだ。

 仮に画面が昔ながらのアドベンチャーゲームであれば、感じることはなかっ
た筈のギャップであり、また、そうだとすればシェンムーも大作たり得なかっ
たところにシェンムーというゲームが持つジレンマがある。


 シェンムーというゲームで表現したかった最大の目的が「リアル」だったの
か、その上で語られる「物語」だったのか分からないが、おいらの目から見れ
ばシェンムー第一章というゲームは、リアル故の不自由さが感じられるなんと
ももどかしいゲームに映った。



AXL 2004

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