レトロゲームレビュー/名作、クソゲー等ファミコン時代から網羅

クルクルランド

Media :Family Computer
Maker :任天堂
種 別:アクションゲーム
発売日:1984年


 小学校の頃に教科書に載っていた話にこういうものがあった。
あるところに木が一本生えていてその木でいつも一人の少年が遊んでいた。
木は少年のことが大好きだったから、少年が来るのを楽しみにしていたのだが
やがて少年は成長し、金が欲しいだの、結婚したから家を建てたいだのと言い
出す。その度に木は実った林檎を与えて市場に売りに行かせたり、自分自身を
建材として差し出し少年の役に立とうとする。
ついに木は切り株だけになってしまうとかつて少年だった青年はそれっきり木
の元に訪れることすらなくなってしまう。
そして長い年月が経って、老人となった少年が切り株だけになった木のところ
にやってきた。
木は老人に「もう何もあげられるものはないんだ」と言うと、彼は「今はただ
この切り株に座らせてくれれば充分だよ」と答える・・・という内容だ。

 ネットで調べてみたところ、シェル・シルヴァスタインという人が描いた絵
本らしいのだが、おいらは小学生時代にこの話を読んで感じた、もどかしさ、
あるいは割り切れなさを今でもはっきりと覚えている。

 結局この作者が伝えたかったのは、無償の愛の尊さなのか、或いは、ヘンな
男にひっかかるとロクな目に遭わないという人生訓だったのか、いまだにおい
らには分からないままだが、今でも何かの折にふと思い出す、不思議な話であ
る。


 ところで、クルクルランドはずっとつまらないと思っていた。
クルクルランドはまだファミコンが本格的なブームを迎える前の1984年11月に
発売されたゲームだ。
二人同時プレイが可能な固定画面アクションゲームで、内容は変形ドットイー
トタイプとでもいうべきもの。
パックマンに代表されるドットイートタイプは、画面に表示されているドット(
またはそれに相当するもの)全てに触れるなどして消せばクリアとなるシステ
ムだが、クルクルランドの場合は、消すべきドットが画面に表示されていない
のだ。
その代わり一見何もなさそうなところを通ると金塊があらわれることがある。
そして、ステージに隠れている金塊を全て出せばステージクリアとなるのだ。
つまり普通なら、ONをOFFにすることが目的のドットイートゲームで、逆
にOFFをONにすることを目的にしているというちょっと変わったゲームな
のである。

 その僅か一ヶ月前にデビルワールドが発売されたことや、両作共に二人同時
プレイが可能なゲームであることから、おいらの記憶の中では「バルーンファ
イト」と「アイスクライマー」と同じように兄弟作的なイメージが強い。

 そして、このデビル&クルクル兄弟は名作の誉れ高いバルーン・クライマー
兄弟に比べると少しばかり地味な存在である。
バルーンファイトの独特の浮遊感や一瞬で攻守が逆転する緊張度の高い展開、
アイスクライマーの「サクッ」という感触が手にも伝わってきそうな氷崩し(?)
の感覚や、スピーディーな展開に比べると、デビルワールド、クルクルランド
に共通するキーワードは「もどかしさ」だとおいらは思うのだ。

 常に移動し続け、両側のクイを手で掴んで方向転換するしかない為、思わぬ
ところで敵にぶつかったり、まんまと落とし穴にはまってしまうクルクルラン
ド。一見、パックマンタイプの正統派ドットイートゲームでありながら、十字
架を持っていないとドットをイートすることすら許されず、スクロール形式の
ゲームにも関わらずスクロールのタイミング、方向がプレイヤーではなく、敵
キャラクターにゆだねられている為にあと少しのドットが食べられず、スクロ
ールした壁に挟まれてキャラクターをロストしてしまうデビルワールド。

 どちらも子供心に果てしなく「もどかしい」ゲームにおいらには映った。
特にクルクルランドはゲーム内容だけでなく、キャラクターや外見も地味で・
・・・と書くと語弊があるかもしれないが、とにかく「ヒロイックなもの」あ
るいは「スリリングなもの」こそが全てという「男の子原理主義者」だった小
学生のおいらにとって、いまだに何と形容すべきか適当な言葉がみつからない、
丸くて眉毛だけは太い不思議生物が、地球の危機とも正義の怒りとも無関係に
ただびよーんびよーんと跳ねているだけに見えたクルクルランドはほとんど背
徳的なまでに地味な存在に映ったのだ。

 だから、クルクルランドには身が入らなかった。
実質的に自由に動きまわることが難しいクルクルランドではマリオブラザーズ
のような直接的な攻撃による対戦プレイも難しく、ただ地味に金塊を探しては、
乾いたウスラ笑いを浮かべるだけの日々だった、とおいらは記憶している。

 そのような理由でクルクルランドというゲームは、購入当初からおいらの評
価が低く、後に訪れたファミコン中古ソフト販売店の登場による「ゲームを売
って一攫千金だ!」的な、激動の時代を「クルクルランドじゃ・・・な」とい
う軽薄にして無情な一言で生き残り、めぼしいソフトは購入一ヶ月で換金され、
やがて主力ハードもPC-Engineやスーパーファミコンに移り、気がつけば残っ
たファミコンゲームは、クルクルランドの他は、ワゴンセールの常連・バンゲ
リングベイと、中古屋に売りに言った際、バイトのにーちゃんに、

「このソフトは買取価格が100円なんですが、汚れているので100円引き
になって、買取価格はタダになってしまいますが、それでもいいですか?」

 という、まるで禅問答の如き一言によって我が家での永住権を獲得した「ベ
ースボール」のみ、という状況になっていた。


 そして、既に高校生になっていたおいらは、ある日久しぶりに、遺物化した
ファミコンで遊んでみようと思い立った。
選んだソフトは勿論、クルクルランド。
それは再評価のためではなく、他の二本のプレイ時間が長そうだから、という
消去法によって、だったが、おいらはそこで意外な事実に気付かれた。

 面白いのである。
なかなかいけるのである。
喧嘩ばかりしていたただの幼馴染だと思っていたら、実は好きだったのである。

 確かに派手さはないが、少しづつ画面に出てきた金塊の形から全体の絵を予
想して金塊のありそうなところを探すことには、一種推理的な戦略性というも
のがある。
プレイキャラクターが跳ねかえる時の独特の「びにょーん感」もプレイの邪魔
にならない程度に心地いい。
1時間遊んでも、5分でやめても「遊んだ」という充実感を得ることのできる
なかなかによくできたゲームだ、ということにおいらははじめて気付いたのだ。
派手さもヒロイック性も、スリルもサスペンスもこのゲームには存在しないけ
れど、余計な期待さえ抱かなければただコントローラを握ってゲームそのもの
を楽しむことができる。
クルクルランドというゲームは、おいらにとっての「切り株」だったのかもし
れない。



AXL 2004

HOME